静けさを聞くこと

シーン…。

沈黙をオノマトペにした最初の人って、すごい。
無い音を、有るように表現しているのだから。

「0(ゼロ)」の概念を見出したインド人もすごいけど、「シーン…」をつくった日本人もとんでもなく画期的。

漫画のなかでは、スベったときの効果音としてよく使われる。

でも、沈黙は必ずしも「気まずい時間」ではない。
ときに、次へ進むための、束の間の休息だったりする。


今に始まったことではないけど、
現在進行形で、バタバタして生きている。
be バタバタing 状態だ。

子どもの頃は、大人になったら落ち着くものだと思っていた。
そういうものだと思っていた。

でも、30代になった今、落ち着くどころか、逆に小学生戻りをしている自分がいる。興味があるものに片っ端から手をつけて、カオス

今日も午前中にやっておきたいことを詰めこみ、
大急ぎで昼ごはんの焼きそばをつくり、かきこみ、
自転車を立ちこぎして13時からのお茶のお稽古にギリギリ間に合わせた。
(こんな人間でもお茶を習っています)

理想をいえば、お着物を着て、心を落ち着けて臨みたいお稽古。
現世で叶えられるかな。


現実がヒドイ有様だからこそ、非日常に連れて行ってくれるお茶のお稽古が好きだ

焦っている日も、悩んでいる日も、
目の前のお茶碗を両手で包めば、頭のなかの鳴り止まない声が静かになる。

お茶室のシーンとした時間は心地よい。

柄杓から最後の一滴が落ちたあとの、静けさを聞く。
お軸を見つめる。「瀧」の字が、力強い水飛沫をみせる。

先生の以前の言葉を思い出した。

「静寂の中は無音ではなく、色々な音があり、それが静寂をさらに深いものに感じさせてくれます」

ひとつの音に集中するとき、
たった一滴の「ぽちゃん」が、はっきり聞こえてくる。
そのあとに続く音を、自分と、自分を取り巻く全ての世界が聴こうとしているような瞬間を感じる。

束の間の静寂に集中する時間、私は非日常の世界にいる。

それは、とても不思議で贅沢な時間だ。


お稽古が終われば、また同じ自転車で、同じ道を帰るのだけれど、行きと帰りで心の状態が驚くほどちがう。

鼻歌とか歌っちゃう。
いや、むしろ普通に歌っちゃう。

理想とかけ離れた自分に対しても、少しおおらかになれる。
「焦っても、しょうがないもんね」と思う。

日常生活のなかで、私は「あれも、これもしなければいけない!」と肩に力が入りがち。お茶は、そんな私にいったん止まることの大切さを教えてくれる。

ふうぅぅ。
やっと深呼吸ができる。

「瀧 直下三千丈」
一真庵 「なでしこ」


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