モノクローム・ブルー・スカイ
バシャリ。と、シャッターが閉じる。
レンズが世界を捕まえる。
その瞬間だけ、フラッシュが瞬くよりも短いそんな一瞬だけ、思い出の中の君が手を振る。
写真にも、データにも残らない。思い出の中だけの君が。
君と出会った8月のあの日も、こんな薄暗い、灰汁でも零したのかと言うほどの曇り空だった。
砂浜の上を、靡く髪を右手で押さえながら歩く君の姿は、まるでそこだけ光が差し込んでいるかのようだった。或いは、本当にそうだったのかもしれない。“僕”は思わず持っていたフィルムカメラで、そのどんな名画よりも美しい世界を切り取った。
君は、そんな盗撮紛いのことをした僕を咎めることも無く、僕の持っていたフィルムカメラに興味を向けた。
興奮気味に話す僕を横目に君は、フィルムを空に透かして不思議そうに眺めていた。
僕達は、共通の趣味も話題もなかった。それでも、いつの間にか仲良くなった。
次の日、そのまた次の日と、毎日のように浜辺で語り明かした。日々のこと、過去のこと、自分のこと、今日のこと、昨日のこと。言葉を重ねる度に僕たちは絆を深めた。僕はそう感じていたし、君もそう感じていた。
ある日、高校2年の僕らはそれとなく、当たり前のように将来の話をした。君が行こうとしている大学はたまたま、あるいは運命的に僕の志望校と同じだった。僕達は手を取り合って喜んだ。そして、必ず同じ大学に行こうと誓った。
高校3年の夏。君は徐ろに口を開いた。
『もし2人とも合格したら、私と付き合って欲しい』
そんなことを言い出した。正直、君は僕のことを友達だと思っているとそう考えていたし、僕もそれに答えるように行動していた。だから、もしこういうことがあるのなら僕からだと思っていた。
それ故に、その発言には驚いたし、嬉しい自分がいた。
二つ返事で僕はOKをして、その日初めて君とLINEを交換したんだっけ。
「……あ」
昼寝から目が覚める。とても懐かしい夢を見ていた。時計を見ると2時半。部屋の中には一面に吊るされているモノクロームの紙。
暗く陰鬱に閉ざされた“俺”の部屋のカーテンを開け放つ。雲のフィルター越しに陽光が部屋に入ってくる。
君と出会ったのも、丁度こんな曇り空だったような気がする。
「……! やっ、ちまった……」
カーテンを開けた途端、昼寝前の自分がなんのためにカーテンを閉めていたのかを思い出す。
しまった。現像作業中に居眠りなんてするもんじゃない。
急いでカーテンを閉めるも、確認した写真たちは全て真っ白になってしまっていた。
「……こりゃもうダメか」
手袋をして、写真を片付けていると不意にアパートのインターホンが鳴った。
「……誰だ?」
こんな時間に自分の部屋を訪ねてくる人に心当たりなんてほとんどない。ドアスコープを覗くと魚眼気味に広がる視界に見覚えのある顔が2つ。1人は同じサークルの同期で幼馴染の藤田圭。もう1人はこれまた同じサークルで一つ下の後輩、四ツ谷岬。
つまり、近頃サークルに顔を出していない幽霊部員気味の俺が今一番会いたくない2人だ。
目元の白い跡を拭い、ぶっきらぼうにドアを開ける。
「……何の用だよ。サークルなら行かないぞ」
「いいんだよ、んなこたぁ。今日お前が全休ってお前のクラスのやつに聞いたから顔出しに来たんじゃねぇか」
粗棒でそれでいてどこか人の良さを感じさせる、そんな独特の口調で圭が言う。相変わらず野球部上がりで鍛え上げられた全身の筋肉の主張と、本人が大学デビューと称して1年ほど前からかけ始めた、知的そうな縁入り眼鏡が絶妙なミスマッチでどこかアホっぽくなっている。
「そうですよ、先輩。無理に来てくださいとは言いませんけど、私も心配してたんですからね?」
と岬も続ける。
「……そうかよ」
心配してくれるのは嬉しいが余計なお世話ってやつだ。
「まぁ、せっかくわざわざ来てやったんだ。入れろよ」
「お前のセリフじゃないだろそれ……」
そう言って渋々、一人暮らしには少し広いが、大学生3人が入るには少し手狭に感じる部屋に、2人を招き入れる。
「何だこの匂い……薬品か?」
圭が俺に聞く。
「あぁ。ちょっとな……」
フィルムの現像をしていたというのも面倒なので適当に濁す。そもそも圭には伝わるだろうしな。
「まさかお前……! じさt───」
分かってるくせにそういうボケをするのはツッコむの方がだるいだけだからやめて欲しい。
「先輩……! そんな───」
ほらこんなふうに何も知らない無垢な後輩が騙されちゃうから。
「なわけないだろ。フィルムだよフィルム」
「な……んだ、私、びっくりしました……」
「別に脅かすつもりはなかったんだけど……。そんなに匂い気になるなら窓開けるか」
「お〜う。そうしろそうしろ〜」
……人の気も知らずに。お前が振ったネタだろうが。そう思いながらもガラガラと音を立てて一世代前の窓が開く。6月の、少し湿ってそれでいて夏の近付きを思わせる風が部屋の中に吹き抜ける。カーテンが靡く。そこそこ古いこのボロアパート。ネット回線と広めのキッチンがなければ借りていなかっただろう。
「お菓子買ってきたから3人で食おうぜ」
圭がそう言って俺の課題が置きっぱなしになっている机の上にドサドサとスナック菓子を広げる。
「私も飲み物買ってきましたよ!」
岬も2リットルのペットボトルに入ったジュースをカバンから取り出す。てか持つとしたら逆だろ。女の子に重いもん持たせんな。
「……はぁ。お前らなぁ」
そう言いながらも僕はキッチンに来客用のコップを取りに向かった。
ただ漠然と、独りで居たくない、という感情が僕を動かしていた。
その後2時間ほどワイワイと駄弁っていたが突然、圭のスマホのアラームが鳴り響いた。
「あー、悪ぃ。俺、これからバイトだわ」
「あぁ……今日木曜だったな」
「頑張ってくださいね!」
「おう! 余った菓子はお前にやるよ」
荷物を片付けながら机の上に広がった菓子を指さして部屋を出ようとする圭。
「んじゃ、行ってくるわ」
「ん。いってら」
「お気をつけて……!」
圭は慌ただしい様子で部屋を後にした。2人きりになった室内には少しの沈黙が広がる。
「岬は? サークルいいの?」
当たり障りのない、会話らしいことを聞いてみる。少しの気まずさが、俺の舌を重くしているようだった。
「今日は、行かないです」
「そうか……」
少し俯きながら岬は答えた。
「先輩は……もう来ないんですか?」
今度は俺の目を見つめて、岬が聞いてくる。どこか不安げなような、期待しているような、そんな眼差しだ。
「……あぁ。どうしてもあいつのいない写真を撮る気にはなれなくてさ」
「その割には……結構撮ってるみたいですけど?」
部屋の隅に山のように積まれてある写真たちを見ながら岬が言う。痛い所を突かれた。
「これはなんというか……」
圭や岬にさえも、あいつと写真と俺のことは話していない。『写真を撮る瞬間だけあいつの姿が見える』なんて言ったらきっと頭がおかしくなったと思われるだろうから。
「全部同じ場所の写真……ですか?」
「まぁ。あいつと出会った場所なんだ……」
「そうなんですね……」
岬は1枚1枚大して代わり映えのしない構図と画角の写真を見比べていた。
「よく撮れてますよね。特にこれとか」
そう言って岬が差し出したのは、モノクロだと分かりづらいが曇り空、ではなく恐らく晴れた空の浜辺。
「そうか……」
「私、先輩の撮る写真、好きですよ?」
徐ろに岬が立ち上がり、持ってきた大きめのバッグを手に取る。
「ありがとう……」
満足のいく写真の取れていない俺にはそんな言葉しか出てこない。
「そのカメラの先に、レンズの、フィルムの中にいるのが私だったら、って思うくらいには」
「───っ!」
「私、まだ返事待ってますから」
そう言い残すと岬はそそくさと部屋を出ていった。部屋の中に残ったのは歌詞とジュースと3人分のコップだけだった。窓からは風が吹き、写真達が揺れている。
岬が入学してすぐの頃、参加したくもなかった新歓の後に酔った男の先輩に絡まれていたのを俺が助けたのをきっかけに、懐かれてしまった。助けたとは言っても、別段波風を立てたくなかったのでどちらかと言えば先輩の方を介抱したという言い方の方が近い。
俺に懐いてくれる可愛い後輩だと思っていた。がある日、俺は岬に告白された。一目惚れらしい。
別に嫌いなわけじゃない。俺が返事をなあなあにしていたのは、ついこの間のあいつのことがあったばかりだからだ。
嬉しくないわけでもない。だけど、あいつが消えてしまってから、俺の人生から色が消えた。モノクロの写真のように、あるいはセピア色のフィルムのように。
ここでどちらか決断してしまったら、あいつとのことがなかったことになってしまうような、あるいはあいつが本当にどこかへ行ってしまったことを認めているような、そんな気がして。俺は決心出来ずにいた。
何も手につかないほどではなくても、何事にも本気になれなくなった。
ふらふらとベッドに入る。視界の隅にゴミ袋に乱雑に詰められたカップ麺やらコンビニ弁当やらの残骸が目に付く。気が重い。
ゆっくりと目を閉じる。このまま死んでしまえたら、あいつの所へ行けたら、どれだけ楽だろうか。目を閉じる前にはいつも目覚めないこと願う。今日は疲れた。
そこは、灰色の空が広がる砂浜だった。
何度も見た、思い出した、あの砂浜。近い記憶と遠い追憶の狭間にある砂浜。
波が砂浜に打ちよせる音が耳まで届く。
「───ねぇ」
声が聞こえた。後ろから。もう聞くことは無いと思っていた、それでも“僕”が何よりも望んだ声。
大学1年も終わりに近いあの日、『僕を庇って』轢かれてしまった君のあの日のあのままの声。
僕は恐る恐る振り返る。
「久しぶり」
あの日のままの君がいた。一緒に写真を撮って、一緒に大学に行って、一緒にサークルに入って、一緒にデートをした。まるであの日の君を写真で切りとったかような。
「ひ、久しぶり」
「どれくらいぶりかな? 君からしたら」
「1年と……5ヶ月だよ。丁度。僕からしてもつい昨日の事だよ」
「そっか、じゃあ出会ってから今日で4年か〜。長いね」
「そんなことないよ。一瞬だった」
「そっか〜。うん、そ〜かも」
いつもみたいな飄々とした雰囲気で僕に語りかける君。だけど、言わなきゃいけないことがある。あの日からずっと言えなかったこと。伝えることすら叶わなかったこと。
「───ごめん」
「ん〜? なにが?」
「あの日のこと」
「……いいよ」
「ずっと、こうして謝りたかった」
「いいってば」
「うん」
形はどうあれ、伝えられた。泡沫の夢でもいい。僕の記憶が作り出しただけの幻でもいい。ずっとこうやって、自分が楽になる方法を、機会を、探していた。
「君はさ、優しいよね」
「……そんなことないよ」
僕が優しいだなんてそんなことは無い。今だって、いつだって、優しくなりきれずにいるから色んな人を傷つけて、僕の好きな人も、僕を好きな人も、傷つけて生きてきた。
「あるよ」
強い声。今まで聞いたことないような声。だけど僕の背中を押してくれるような声。
「だから、私の事忘れて前に進めないんだよ」
「───っ」
当然だ。当然、
「お前のこと、そんな……忘れるなんて───」
「無理だよね。知ってる」
「ならなんで──」
「それでも、進まなきゃ」
「え……」
「そうしてくれなきゃ私が死んだ意味が無いよ」
「……」
それってどういう───。
「だからさ、忘れなくてもいい。ずっと私の事、胸に刻んだままでいいから」
拳を握りしめるのが見えた。そうか。君は僕に───
「前に進んでよ」
そう言いきった君は泣いていた。君は僕に幸せになれって言ってるんだ。自分のことは忘れないまま。それでも前に進めって。
「……わかったよ」
優しいのはどっちなんだか。
「まずはあの子に返事しなきゃね」
「……それも知ってるんだな」
「そりゃね。付き合ってあげな? きっといい子だから」
「……いいのか?」
「いいから言ってるの」
もう泣いてなんてなかった。涙は出てたけど、顔は笑ってた。
「そう、か」
「頑張ってね、これから」
「うん。ありがとう」
目が覚める。夢の内容を思い出そうとするが、時が経つにつれて手で掬った水のように徐々に記憶が溢れていく。
「……進まなきゃ、か」
目が覚めてからは、そのことだけを覚えていた。
「……ふぅ」
次の日。僕はサークルの部室の前で深呼吸をしていた。時刻は二時過ぎ。
「……先輩! 何してるんですか!?」
今、1番会いたくて、会いたくない相手だ。
「……岬」
「サークルに顔出しに来てくれたんですね!?」
僕の顔を見てここまで顔が明るくなるのも、彼女位のものだろう。いや、もう1人くらいお節介焼きがいたか。そんなのはどうでもよくて。
「あ、いや。今日はお前……いや、岬に話があって」
「えっ……と。あ、ここじゃなんですし、裏行きましょうか……」
向こうも僕の用事を察したのか気まずそうに場所の変更を促した。
「そうだな……」
「話って……」
「告白の答えなんだけど……」
おずおずと聞いてくる岬に僕は自分から話を切り出した。単刀直入ってやつだ。
「そ、その件なんですが……ごめんなさい!」
「───へ?」
思わず素っ頓狂な声が出る。
「ご、ごめんなさいって……何が?」
「昨日あの後、バイト帰りの藤田先輩に呼び出されて、告白されたんです」
「あ、あぁ。そうなのか」
ここまで聞いて大体の予想は付いた。
「『もうあいつのせいで苦しむ姿を見たくない。俺は君のことが好きだ。俺でよければ付き合って欲しい。あいつだって大変な時期だろうから少しでも2人とも楽にしてあげたいし、2人であいつを支えてやらないか?』とかそんなことを言われて……」
「───岬はOKしたのか?」
「はい……。とても真っ直ぐな眼をしてて……本気なんだって伝わってきて、藤田先輩なら忘れさせてくれるかもって思って、それで……」
圭は悪いやつじゃないから言ってることは全て本心なんだろう。俺も岬も圭自身もみんな幸せになる方法を自分なりに考えての行動だろう。
「そっか……。あいつ、良い奴だからさ、大事にしてやってくれ」
「……! はい!」
「うん」
「色々、迷惑かけてすみませんでした」
「いいんだって。あのさ───」
ああ、あの時の君は、こういう気持ちだったのか。
「幸せに、なれよな」
「はいっ!」
僕はその足で直ぐにアパートへと帰った。先ず玄関を開け、そして倒れ込む。
「何がいい子だから、だよ……」
フィルムカメラを引っ張り出して家を出る。
向かうのはいつもの砂浜。
カメラを海に向けて、撮る。
ぱしゃり。
君の姿は見えない。
『ふられてや〜んの』
声が聞こえた気がした。うるせ〜。てか振られたわけじゃないし。告白取り消しみたいなもんだろ。
その日は今年一番とも言われるほどの青空だった。
〜Fin〜
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