アンチからも学べます:他者否定は自己否定の裏返し
こんにちは。天道です。
今回は、ある方の動画でのアンチコメントから私が気づいたことです。
アンチコメントの特徴
私が視聴している、ある事業家の方(仮にA氏とします)の動画があります。
動画の内容は多岐にわたり、国際情勢などにも話が及びます。
で、A氏の論に対してアンチなコメントがついたりもします。
その中には、A氏を貶めることだけが目的と思しきコメントもあったりします。
堂々とA氏の意見に反論するならば、それはそれで良いことだと思います。
A氏ご自身も反対意見があるなら言ってくれればいい、というスタンスです。
しかし、アンチコメントはただ「悪口を言いたいための悪口」としか思えないものがほとんどなのです。
英語でいえば、ただの contrary(天邪鬼)。
まず、そもそも議論が噛み合っていません。
A氏が語っているのは、私が見る限り本質論です。
アンチの人たちが語っているのは、現象論であり感情論なんですね。
そして、A氏の揚げ足取りに終始している印象です。
これではなんら建設的・発展的な議論にはなりませんよね。
思うに、これは「理解力」っていう範疇のことだと思います。
A氏の話の本質をまったく理解していないし、理解しようともしていない。
で、アンチの人たちは、A氏が使う「キーワード」や言葉尻だけをとらえて、「ネト〇ヨ」などと決めつけてレッテルを貼り、そこで思考停止してしまうのです。
A氏の論に対して自分で調べてみることも考えてみることもしないのです。
なによりも、アンチの人たちは、まずもってA氏に対する敬意も礼儀もありません。
ただA氏に対して重箱の隅をつついて揚げ足をとってマウントをとりたいだけにしか見えないんですね。
なぜアンチなのか
私が注目するのは、A氏の論やアンチコメントの正当性やいかんではありません。
こうしたアンチの人たちは、なぜアンチなのかです。
私が思うのは、アンチの人たちは、アンチコメントをすることで「自分の存在」を確認してるのだということです。
つまりは、自分のアイデンティティーや属性を確認する手段が「アンチであること」なのだと思うわけです。
「アンチであること」がなくなったら「自分」が消えてしまうのだとしたら。
アンチの人たちが躍起になって「ああいえばこういう」のも理解できます。
A氏の語る内容について自分で調べたり考えたりせずに「キーワード」で思考停止になるのも、調べたり考えることで自分にとって不都合な事実が出てきてしまうと、アイデンティティーが崩壊するからでしょう。
無意識にアイデンティティー崩壊を恐れた回避行動と見てとれないでしょうか?
相手に対する敬意や礼儀がないのも、居丈高に振舞うことで自分を大きく見せたいのではと思います。
結局は、自分の承認欲求を満たしたいためだけの「アンチ」なのではないでしょうか。
自分に問いかけてみてください
私が思うには、アンチな人たちは、こう自分に問いかけたらいいと思うのです。
それで本当に自分は幸せなのか
それで誰かを幸せにできているのか
それで自分の人生がどれだけ良くなっているか・豊かになっているか
「それで」とは、「アンチであることで」です。
だって、それが一番重要じゃないですか?
ここにすべての答えがあるように私には思えます。
簡単な話で、自分が幸せで満たされているならば、人の揚げ足とりのような「アンチ」ってありえるでしょうか?
自分も人も幸せに、という発想で今を生きている人に、人の揚げ足とりや重箱の隅をつつくような「アンチ」をやっているヒマってあるんでしょうか?
A氏のような事業家は、事業の本道として、どんな形にせよ、人を幸せにすることなしに収益は得られません。
また、自分の家族も抱えているし、従業員の家族(の生活)も抱えているのが事業家です。
社会的貢献という使命も負うのが企業です。
なので、アンチの人たちが自分に問いかけるべきなのは「じゃあ、自分はどうなのか」だと思うのです。
A氏と同じこと、それに相当することを、これらのアンチの人たちがやっているとは思えないんですよね。
「アンチならアンチでいいから、自分でやってから言ってください」という話になりませんか?
もし自分で「やっている」人ならば、こうした形での「アンチ」になるはずがないと思うのです。
そして、反論をするならするで、もっとA氏に対する敬意や礼儀があるものになるはずだとも思います。
A氏はアンチコメントに対して、いちいち事実を挙げて丁寧に反駁しています。
それはA氏の誠意であって、アンチに対してマウントをとろうとしているのではありません。
そのA氏の誠意も、「やっていない人」には通じないでしょう。
その証拠に、A氏の丁寧な説明に対して際限なく揚げ足とりをしてくるのがアンチの人たちです。
他者否定の裏にあるのは、実は自己否定
私がアンチの人たちに感じるのは、とどのつまりは「自己否定」です。
自己否定があるからこそ他者を否定したくなるのではないですか?
自己否定が承認欲求を生み、その結果が「自分の承認欲求を満たすためのアンチ」なのではないかと思うのです。
人を貶めて優位に立つことで、実は否定してる自分自身を持ちこたえているのではないですか?
これは、深層意識のレベルのお話も含めてですが。
先ほども述べましたが、自分が自己肯定感や自己承認で満たされているならば、こうした形の「アンチ」である必要ってあるでしょうか?
自分に本当に自信がある人が、人の揚げ足とりなんかするでしょうか?ということです。
私自身も、自己肯定感や自己承認が希薄だった頃、恥ずかしながら他者否定をよくしていました(ちなみに、批判と否定は違います)。
でも、その頃を振り返ると、自分自身ちっとも幸せじゃなかったです。
そして、誰も幸せにしてなかったと思います。
収入はガタ落ち、人間関係も悪化の一途だったのも、その当然の結果です。
自己否定の結果として自分が幸せじゃない分、他者否定という行為に結びついていたというのが事実だと思います。
ですので、他人をとやかく言っているヒマがあるなら、自分の中にある自己否定にまず気づくこと。
話はそこから。
そうでないと先に進めませんよね?
そこに気づけば、「他者」は自分自身の鏡であることにも気づくはずです。
そこに単なる礼儀知らずの「アンチ」ってあるでしょうか?
まとめ
「それで本当に自分は幸せなのか」「それで誰かを幸せにできているのか」「それで自分の人生がどれだけ良くなっているか・豊かになっているか」を自分自身に問いかける
他者否定の裏にあるのは自己否定であることに気づく
他者は自分の鏡であることがわかれば、あとは自ずから決まる
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