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大好きな父の後ろ姿に、大嫌いだったじーちゃんの面影を感じた話

4月が始まりました。
もう5日も経っていますけれど…一日が過ぎるのが早すぎて、週一note更新が秒でやってきます。
しかも今日は金曜日、ギリギリセーフ!!
今週もよろしくお願いいたします。

私の暮らす街でも桜が見頃を迎え、美しも儚い春のはじまりはどうにも感傷的な気持ちになります。
それはきっと、春が”終わり”と”始まり”の季節だからなのでしょう。

そんな節目の季節に、私の父は約50年務めた会社を退職し第2の人生をスタートすることになりました。
50年って…私の生きてきた年数より長い…ひとつのことにそれだけ長く打ち込めるというのはそれだけで本当に凄いことだと思います。

なのにどうして娘は職を転々とし、住む場所まで転々とした挙句、お店をやり始めるような子になってしまったのか、謎が謎を呼びます。
人生とは、何が起こるかわからないものですね。

今回父のことを書こうと決めたとき、私の中に封印されているあるできごとを、いよいよ解き放つときがきたのではないかと思いました。
なんだか大袈裟な感じになってしまいましたが、
それは父の父である、じーちゃんのこと。

私はじーちゃんととても仲が悪かった。
ささいないざこざがもつれにもつれて大喧嘩になり、一緒に暮らしていたのに何年も口をきかないまま、いつしか大嫌いになってしまいました。
何年振りかに急に「おはよう」って言われた朝、私は返事をすることもしなかった。その何時間か後にじーちゃんは倒れてそのまま何週間も目を覚ますことなく、空へと旅立ってしまったのです。

今もずっと、そのときのことを後悔しています。
たぶんこれからもずっと後悔し続けるのでしょう。
「おはよう」のたったひと言が返せなかった。
「ごめんなさい」のたったひと言が伝えられなかった。


そのことをきっかけに私の生き方は変わりました。
ありきたりなことばだけれど、人は本当にいつ逢えなくなるかわからない。
それを実感したできごとでした。
明日こそ言おうって思っていることばは一生伝えられないかもしれない。
人を大切にすること、想いをちゃんと伝えること。
「ありがとう」って何度でも伝えること。
そして、「ごめんなさい」を言える人でいること。

じーちゃんとのことを、母以外に話したのは今日が初めてかもしれません。
憧れの人である石田ゆり子さんが「書くことは懺悔と浄化だ」と仰っていた意味がほんのちょっとだけわかった気がします。
胸の奥の奥にしまい込んでいたつっかえが少し取れたかな…

そんなじーちゃんの歳を父はあと何年かで越えることになります。
まだまだ元気でいてほしい。
本当にお疲れさまでした。
必死で家族を守ってきてくれてありがとう。
破天荒な娘でごめんよ。

今朝、サンルームのソファーに母と並んで座り、ひなたぼっこをしながらゆったりと本を読む父の姿がありました。
父のそんな姿を、私は初めて見ました。

家族の為に生きてきた50年、第2の人生は自分の為にも生きてほしい。
結局仕事も好きだったのだろうから、新しく打ち込めるなにかがみつかるといいな。
でも、少しゆっくりしたら?と言ってあげられるように、私は精一杯仕事に励まなくては!!
少しだけ丸くなった父の背中にじーちゃんの面影もほんのり重ねながら、そんなことを思っていました。


いつでも新しい気持ちで、毎日が新しい始まりの日だと思って私も日々を大切に懸命に、暮らしていきたい。
旅立ちの春、始まりの春。
新しいスタートをきった人達に心からのエールを送ります。



















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