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「ごめんね→いいよ」の方程式を破壊してみた結果

夏休みが終わった、というニュースがやっていた。夏休み明けの小学校の教室で、教師が生徒たちに「みんな、夏休み楽しかったかな?」と問いかけていた。生徒たちは元気に「楽しかったー!!」と答えていた。
みんな元気だなぁと思うのと同時に、これは問いかけを装ってはいるけど「楽しかった」の返答しか想定されていないなとも思った。
「夏休み楽しかったかな?」に対して教師が想定しているのは「楽しかった!」のみであり、夏休みが楽しくなかった人がいることは想定していないのだなと思った。
母も同じニュースを見ていて、「夏休み楽しくない人なんているのかな?」と呟いた。いるのではないかな、と私は思う。親子関係が上手くいっていなければ、家にいるよりも学校にいる方が気楽に過ごせるだろう。そんな子にとって、夏休みは地獄なのではないか。

この世には、質問を装いつつもワンパターンの返答しか想定されていない質問がたくさんある。

私は小学3〜4年生のとき、同じクラスの仲のいい(と思っていた)友達たちから給食袋を隠されたことがある。給食袋には、給食のときに使うバンダナ(テーブルクロス代わり)と、ハンカチ、歯磨きセットが入っていた。先生は私が給食袋を持っていないことに気がついたが、私は「○○ちゃんたちに隠された」と言えなくて、「忘れた」と言った。○○ちゃんたちが見ている前で先生に「隠された」と言う勇気がなかった。
給食後の歯磨きタイムも、歯磨きセットがない(持っているのに隠されたから持っていない)ので暇だった。持ってきているのに忘れたフリをしないといけなくて、それが辛かった。理不尽な惨めさだった。

そんなことが1週間くらい続いて、毎日給食袋を隠されて、昼休みの時間に1人であっちこっち探し回るのが面倒になって、親に「○○ちゃんたちに給食袋を隠されている」と伝えた。親は連絡帳(時間割を書いたり、教師と親の連絡のためのもの)(今もまだあるのか?)に給食袋を隠されている旨を書いた。その次の日、連絡帳を先生に出した。それを読んだ先生が、私と○○ちゃんたちを放課後に呼び出した。○○ちゃんたちは全部で3人くらいいた気がする。
先生は○○ちゃんたちに「紫桃ちゃんの給食袋、隠したの?」と聞いた。○○ちゃんたちは肯定して、私に謝ってきた。先生はそれを見て、「ね、紫桃ちゃん、○○ちゃんたちも謝っているし、許してあげられるかな?」と言った。
当時から私はひねくれていたので、「許してあげられるかなって、どうしてこの先生は私が許す前提で話をしているんだろう。許さないって言ったらどうなるんだろう?」と思った。
……なので、「絶対に許さない」と返してみた。そうしたら先生も○○ちゃんたちもめちゃくちゃびっくりした顔をした。
1週間くらい給食袋を隠されて歯磨きの時間は暇をして、休み時間には1人であっちこっち探し回って、本当にめんどくさかった。何より、忘れていないのに「忘れた」と嘘を言い続けないといけない1週間が惨めだった。そんなめんどくさくて惨めな1週間を過ごしたのに、どうして「ごめんね」の一言で許さないといけないのか。○○ちゃんたちに対してよりも、許してあげられるかな、と言ってきた先生に対して腹が立った。
「ね、紫桃ちゃん、○○ちゃんたちも謝っているし、(紫桃ちゃんが "いいよ" と言ったらこの問題は解決して先生も問題解決に奔走しなくて良くて楽だから) 許してあげられるかな?」というように私の耳には届いた。先生がこの問題を微々たるものとして扱って、先生が楽をしようとしているのが分かったので腹が立った。
そして、その場は一旦そのまま解散になった。

「ごめんね→いいよ」の方程式を蹴散らして、「絶対に許さない」と返した結果、どうなったか。
夜中に学校から電話がかかってきて、親が電話に出た。先生は母に対して、「おたくの教育どうなってるんですか?」的なことを言ったらしい。
「ごめんね→いいよ」の方程式を蹴散らす回答をした私の母は、紛れもなく私の母なのだ。私の母なので、「謝られたからって、どうしてそれで許さなきゃいけないんですか?」と返したらしい。あっぱれ母。ありがとう母。

謝られたからって許す必要はないし、謝っても許してもらえるとは限らない。
私はこれからも、この世の中に溢れている「ごめんね→いいよ」の方程式のようなもの(意味の分からない物事たち)を蹴散らしてぶち壊して、自分の感情を大切にして生きていきたいと思う。