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日本は銃社会じゃないから撃たれない山里亮太

TBSラジオ水曜JANK山里亮太の不毛な議論にオードリーの若林さんが乱入し話題になっていました。

ライブから派生したユニットとそのテレビ番組名を表す「たりないふたり」の現在の関係性を象徴するかのようなトーク展開に聴取者は様々な反応を見せ盛り上がりました。聴衆は山里さんの繊細さと若林さんの気遣いに共感と賞賛を同時に送り、若林さんのある意味では天然な部分と山里さんのツッコミフレーズの超絶技巧に畏怖と歓喜が同時に沸き起こりました。

お互いの番組の局を跨いでの掛け合いはその流れを含めて見事なドキュメンタリーショーでしたが、今回特に語られるのは不毛な議論での山里さんの20分にも渡るオープニングトークです。「僻み芸が芸じゃなく僻みそのものになっている。」という感想や「いやこれでこそ山里亮太だ。このまま貫いてほしい。」という意見もあり、それはどちらも表面と潜在で入り乱れ不思議なバランスの賛否両論を生んでいました。

若林さんの立ち回りはエンターテイメントととしてもちろん素晴らしいかったのですが本人も言及しているように「「これは直しちゃいけないんじゃないかな」って考え始めてる。古典芸能として残さないと、僻み芸を。」と山里さんに対して評しています。今後どうなっていくかは分かりませんが、現段階では結果としてこの賛否含めてのプロレスに乗っかてしまっている時点でそれに関してはギリギリ山里さんの手腕にはなっています。そして山里亮太という芸人は定期的にこのギリギリな人間関係を見せ物に昇華し続けているのです。そこにはあまり語られてないコントロール力は確かにある気がします。これは若林さんが仕上げたエンタメとはまた違う種類のフリークショー的な側面が山里さん側には中核として鈍光を放っているのを感じてしまうのです。


さて今回は

山里さんのこの「炎上や僻みを芸として昇華している範囲と領域」

について考えてみたいと思います。

山里さんの炎上や僻みやネガティブや自虐はある程度はキャラクターショーとして自他共に認めて繰り広げられているという理解が正しいのだと思いますが、時々その範囲を超えて今回のような事件性の高い出来事が起こります。しかしそれはその場では山里さんというキャラクターにおける致命傷的な解体に見えるのですが、時間が経ち俯瞰で見ると実はその根幹にまでは大きく影響を与えていない事が今なお最初に世に出たキャラクターベースがそこまで大きく変容していない事実から感じ取れます。うっすらとしたマイナーチェンジや見た目の若干の変容は要所要所で観察できるのですがその領域がどこまで設定されているのか非常に分かりにくく構築されています。

今回はそれを山里さんの他者との交流やその絡み方から紐解いていきたいのですが、それは何も山里さんの作り上げたキャラクターの裏側を暴いてやろうという事ではなく、どういったシチュエーションでどのように発動しまたそれがどのような芸であるのかをあくまで個人的な主観としてそして全て傾向と憶測だけから考えてみたいという試みです。むしろそれにより山里さんのあのツッコミの超絶技巧的な凄さの源泉をより深く味わえるのではないか、そう感じて文章を書いています。そのような観点から考えていきますのでもしご興味とお時間があればお付き合いいただけると幸いです。


では

僕が個人的な感覚で定義した他者との絡みの範囲は5段階あります。

第一領域

まずは山里さんの交流の芸能界におけるメインストリートの領域について考えてみたいと思います。


近代のテレビというメディアが完全に浸透してからのお笑い芸人の大御所と言われるクラス(BIG3や、お笑い第3世代)と絡む時の山里さんは相方のしずちゃんの朴訥な雰囲気をフックにクズキャラ、悪口キャラ、卑屈キャラというような性格のキャラクター展開を主にゴールデンの時間帯の番組では披露し注目度をアピールしていた記憶があります。ビートたけしやダウンタウン、さまぁ~ず、よゐこ辺りの芸人と絡む時この要素にプラスしてバラエティタレントとしては優等生キャラという文脈をやや少量織り交ぜてトークを行っていました。しずちゃんさんという圧倒的な存在感の隙間を縫うようにして汚れ役を自ら買っていたという解釈が一番頷けるのではないでしょうか。この近代テレビを含めたお笑い史の中に置ける土台的な意味合いの領域を個人的には「伝統芸」と呼んでいます。

そこから少し下、南海キャンディーズと同世代辺りまでのその「伝統性」の高い文脈を受け継いでいるような立ち位置に居る芸人さんにも山里さんは基本的に同じような立ち回りを見せつつ上の世代に対してよりも優等生的な要素を色濃く強めていくスタイルを取ります。ここは同じよしもと所属で言えば千鳥やピース、ジャルジャルが当てはまるのではないでしょうか。そしてオードリーもこの中に属していると思います。

この選出は個人的な感覚によるところがかなりあるので賛否はもちろんあるでしょうし、またその基準と結果どうなるかなども込みで各々の観点によって違うものでなかなか確認しづらいものなのですが、逆に言えば山里さんの絡み方がスタンダードな山里さんに留まるという部分を見る事でむしろ対象の領域を測るというイメージです。山里亮太のプレーンからそこまで大きく外れない、そういった共演の仕方になっている事でその場の「伝統」を維持する力学を感じるというわけで、その理由はやはり重ねてしまいますがコンビとしてはしずちゃんさんの存在感によって場持ちさせているためそのしずちゃんさんへの注目度から来るこぼれ球を送りバントのような作業で繋ぐ事から始まって立脚しているキャラクター像だからです。

加えて若林さんはその中でもかなり山里さんのプレーンなキャラクター像をプレーンなまま何周かさせて絡んでいるという印象です。ここで注目したいのは若林さんは山里さん以外にも他者と絡む時イジるにしろイジられるにしろスルーするにしろそのように自己解釈を内回転させ若林観としての回答を出した上でのコミュニケーションをショーアップするのです。これを若林さんは春日さん以外のほとんどの共演者に試みます。あちこちオードリーでのゲストに対するトーク運びやプライベートで内村さんと話した時「お前、ライターか!」と言われてしまったエピソードなどでネタ化させている事も含めて確認できます。その若林観の外側に居る春日さんという存在には逆に様々な角度からツッコミを入れれるように春日さんの側も大いなる空虚を森羅万象として肥大させ君臨しているのですがそれはコンビ芸としてであり、ユニットとしての「たりないふたり」ではむしろ若林さんの方がボケとしてその若林観を中心とする肥大と君臨の仕方をしています。そうなる理由は単純に相性としての良さと山里さんというキャラクター像のプレーンな状態に「伝統」的な流動を維持したまま若林さんというキャラクターを更新させている運動があるためではないでしょうか。つまり若林さんは山里さんを追い込んでいるけど掘り下げていないというわけです。

話が少し逸れますが、若林さんのこの現代的な「伝統芸」のアップデートのような施しには若林観の範囲に収まる共演者とはみ出る共演者はもちろん居て、さらに細かく観察していくとそこには範囲には収まっているけどスルーしている内容などが時たま垣間見れます。それはコンプライアンスの強まった空気での倫理や世論がまだ整っていない部分に関してあえて斬り込んでゆくお笑いのあり方に対しても慎重な見極めがあり、時代によって変わるであろうコミュニケーションの平均値や社会通念の現段階でのバランスを絶妙に取っている事の表れです。バカリズムさんの素人イジリやアンガールズの田中さんのノンスタ井上さんイジリ、バナナマンやおぎやはぎの前時代的な狭い範囲でのヤンキー的ノリ、爆笑問題太田さんのあえて行う破天荒風な振る舞い、などには実はプロレスとしてあまり乗っからない、もしくは極めて現代的というか実年齢よりもう少し若い世代の平均的な解釈に寄っているような感覚でのパフォーマンスを受けのツッコミで料理するのです。

これはいわばビートたけしさん的な社会通念を切り取ってエピソード化させる共感の芸と、松本人志さん的な即興から生まれる大喜利性の高い一言をコメント化させた分離の芸の、ちょうど間を行くような能力だと思います。人見知り芸人などの自己パッケージングやその克服のトークなど若林さんの振る舞いには広く身に覚えが生まれてはいるけど、ズレ漫才の発案や司会者の時などの舵取りやツッコミ方自体が解釈としては先行ってるという感じです。それには何か現代的な社会生活を営む中での精神的支柱とコミュニケーションとしての確固たる正解感が漂っています。

今回のたりないふたりのイベントでの若林さんが山里さんへ放ったツッコミも、それによって山里さんが落ち込んでしまった事で生まれたラジオへの乱入などの一連の流れを含めて、プロレストーク自体を極めて現代的な解釈と共に共感と分離をショーアップした事例のひとつだったのではないでしょうか。


さて、少々この「伝統性」での文脈の若林さんの話が長くなってしまいましたが話は山里さんに戻ります。

この領域での山里さんはいわばしずちゃんさんの圧倒的な存在感から余白として必要に迫られていたキャラクター展開を行っていてその範囲で成立する山里像をプレーンな山里とする構造の上に立脚させていました。ではここから領域段階としてはもう少しその内側に迫っていきたいと思います。

第二領域

先程の芸能界の中での大御所やその文脈を汲んだ次世代の立ち位置とは少し違う、けれども波及力として非常に大きい存在や対象である「大衆性」という要素での山里さんの像の形成の仕方を見ていきたいと思います。

山里さんはしずちゃんさんの余白をフックにその汚れ役のポジションに収まりやすそうな自己像をバラエティ番組の現場で少しずつ印象付けていました。そこからある程度認知されてから人気のあるパイの大きい支持層を持つ演者と絡む時、その汚れ役をさらに誇張させて対象と反比例するような偽悪的なパブリックイメージを加速させていきます。もちろんそれは完全なる虚像ではなくあくまで山里さんの性格や心理を反映させたものなのですがそこから膨らませその「大衆性」を持つ演者に対してのカウンターとなるようなポジションにまで山里像を強固なものにします。ここでポイントなのは「モテない」だとか「自信がない」などのある側面では弱者になりたりえるバックボーンを背負うようなキャラクターを形成している点です。つまりキャラクター形成にあたってのその主要素が「〜ない」という否定系の文脈が多用されているという事です。その対象と反比例になるような方向からその人格が組み立てられている事が感じ取れそれが天然であれ計算であれそこには確かに支持層は存在しているという事です。

この「大衆性」の文脈と触れ合っていく事で山里さんの炎上キャラは強まっていったという印象です。山里さんはその対象を「嫌い」だと発言する事でドラマを描きます。有名なところではキングコングの西野さんや、ネットとの親和性が移り変わっていくタイミングで品川庄司の品川さん、田中みな実さんなどもカウンターとしてプロレスが成立する範囲のリアリティを微妙な割合で配分してゆきます。またそれが喧嘩芸とも少し違うのが「伝統」の時と同じ文脈の上でそのキャラクター像を「大衆」の場に応用している形になるので、あくまで汚れ”役”としての振る舞いでありそこでの主張を微妙に強めているという理屈なので弱者であるというポジションがあまり変わらないのです。

またその方法論はなにも「嫌い」という感情だけに留まりません。AKBやももいろクローバーなどのアイドル好きな側面を活かした仕事の獲得し方や、赤江珠緒アナウンサーがパーソナリティを務めるラジオ番組たまむすびでの弟キャラ的な距離感もカウンターとは言わないまでも「大衆性」に対してその属性とは確実に違うキャラクター像を付属させるような形で自己アピールをするのです。


第三領域

では、「大衆性」に対しての山里さんのカウンターとしてのキャラ像の膨らませ方がなんとなく感じ取れました。ここからさらに内側に進んで行きましょう。続いてはタレント活動を中心とした「額縁性」そのキャラを裏返すかのような要素、すなわち多面的な部分です。

「伝統」「大衆」から少しずつ市民権を得ていった山里さんはこの領域で「仕事が出来る」というニュアンスが周りの評価と共に強まります。テレビというメディア装置の画面の中に積み重ねるようにワンポイント的な出演を続ける事で固定化されたタレントイメージが共演者やスタッフの中で「実は…」「意外と…」というプラシーボ効果のようなもので少しずつ反転させていく事で起きる現象です。ただここで重要なのは完全なキャラ変への移行はしきらないというところです。共演者やシチュエーションによって使い分けます。炎上や卑屈や自虐キャラと、優等生や真面目や仕事が出来るというキャラのその両極端な要素の振れ幅を行ったり来たりするのです。イメージは固定しているけど求められる役割が番組によって違うのが山里さんのタレントとしての特徴です。

もちろん結婚を境にその「額縁性」は大きくスタート地点のクズキャラ、悪口キャラから離れるのですが、その要素を手放すかの悩みを含めて山里さんは多面性を提示しています。そしてこのタレントイメージという物凄い人数で共有しているけれど実態が無い概念は影響力の強さの割に儚く移ろいやすいと同時に危険なものでもあると思います。この領域が山里さんの芸の核心では無いと思っているのですがいろんな要素が重なって山里さんがその瞬間に偶発的に持ち合わせた「額縁」の力があるのかもしれないと感じています。要するにタレントとしてここから送りバントやカウンターのプロレスだけではなく振り幅の役割として「イジる」という要素が発生してくるのです。

これは自分一人でコントロール出来るものでは無いです。例の件の責任はもちろん山里さんにあるわけでは無いと思います。メディアの中のバラエティに置ける虚構とネットの中に置ける言論の自由と誹謗中傷のバランス、また細かい事を言えばニューヨークのニューラジオでも言われていた事ですが番組のひとつの指針としてのチュートリアルの徳井さんがやむ追えずキャスティングから外れてしまった事により観方のバランスが若干崩れたなど、様々な要因があると思います。ここで言いたいのはその是非ではなく山里亮太という芸人のタレントイメージとは物凄く繊細なバランス感覚によってそのポジショニングと役割を調整しているという事です。そして山里さんを含めた全演者の個々人の能力を活かすセッティングは明確な答えも出しづらいのでしょうが番組作りとして常に考えなければいけない事なのだと思います。それは受け手である視聴者もどう捉えるか意識する点に置いて例外ではありません。「イジる」という対象に印象付けをはかる行為はメディアの中だけの人間関係ではなく、今我々が営んでいる生活で顔見知りの他人に対しても無意識に常に行使されているかもしれない一つのコミュニケーションの「額縁」であるわけですから。


この事は簡単に答えが出ませんが、話はさらに進みます。

第四領域

「伝統」「大衆」「額縁」ときて次の領域は「座敷性」です。いわゆる「座敷芸」と呼ばれるものが披露され成立したりするような飲みの場的な横の繋がりを重視した領域。「文脈性」と言ってもいいかもしれません。

これは「裏笑い」的なものが成立しているかという観方です。山里さんの積み重ねた振り幅のあるタレントイメージそのものをひっくり返すかのような絡み方をするタイプの演者や番組の範囲です。これに対しても山里さんはかなり早い段階からそう言ったタイプの演者とコンタクトをはかっています。伊集院光さんなど師と仰でいる事からその筆頭的存在だと確認できます。「イジられる」関係性を維持したまま山里さんの観点や主張が割と通用しやすくなっている環境です。この辺りでパワーバランスが変容してきています。

特にとろサーモン久保田さんとの絡みや、青木さやかさんとのエピソードトークなどはかなり山里さんが舵を握っているように感じます。西野さんとやっているプロレストークのそれよりも非常に水面化でのやり取りを感じさせ観ている側がいかにその人間同士の生の感情や表舞台以外での立場などの行間を読み取れるか、その座敷に一緒に座れるかを問われているかのようなパフォーマンスです。山里さんは居住はここではありませんが稼働範囲としてはかなりゆとりがある状態です。


第五領域

さぁ、そして最後です。「密室芸」的な領域。ここが山里さんの芸の中核に当たると思います。

山里さんは僻み芸でコーティングしていますが基本的にその喋りがノッてくるのは「毒舌」や「下ネタ」であり、またそのツッコミが冴え渡るのは対象の異常性が増した時の「突き放しによるあしらい」を言葉にした時です。

こうしてその事実を確認し並べてみると山里さんの喋りの芸は実はドメスティックでありサディスティックである事がわかります。

つまりそもそもが限られた範囲でのみ強度が増す「密室」的な特性のある笑いを「座敷」「額縁」「大衆」「伝統」という順にその領域に移動していくにあたって、どんどん強さや矛先を柔らかくしたり自分に向けたりする事で成立させる媒介技術の成せるイニシアチブの取り方なのです。

その証拠というか要素を確認しやすいサンプルとして、山里さんの芸の中核の「ネタ」である漫才、その相方のしずちゃんさんのボケに対しては実に様々な角度と言い方で突き放しの言葉を投げています。その圧倒的な存在感によってほぼ何をしても面白味が発生するしずちゃんさんの佇み自体を中心として時に優しく時にキツく、キャラクターは変わらないのに「イジる」と「イジられる」の役割を言葉の上だけで何往復もしてみせるのです。

言葉は暴力にもなります。お笑いというものそのものが差別と切っても切り離せません。その事自体は常に考えるべき問題ではあるとは思うのですがその反動がどんどん強まる世の中で「暴力を振るう事に対して抑制として振るわれる別の暴力」が目の前に広がっている光景を見る事も少なくないです。山里さんはその矛盾をある部分に置いてはどちらの意味合いも満たしたまま瞬時に言葉に変えていきます。オブラートでもあるけどストレートでもある。他虐的でもあるけど自虐的でもある。山里さんは漫才の中でブサイクだとイジられた時に「日本が銃社会だったら撃ってるぜぇ!」とツッコミました。これは放たれている言葉は暴力ですがそれをオブラートに包むことでそのインパクトとショックから精神的な暴力を受けているのが山里さんでもあるという実に均衡なバランスの取れた言い回しであり同時にとてもウェットに飛んだ紳士的でユーモラスな台詞です。この難しい両立を山里さんは常にし続けています。もうひとつ山里さんのツッコミで好きな言い回しはしずちゃんさんの高飛車な言動に対して「皆さん、その怒りの拳は日本の政治にぶつけましょう」というものです。これも言ってる事はしずちゃんさんに対するムカつきなのにすり替えと方向転換は自分が悪者にならないどころか有効活用出来そうな気すらしてしまう絶妙な言い回しだと思います。

こうした山里さんのある種病的なまでの言葉に対する気遣いは、子供の頃母親の勧めで劇団ひまわりのオーディションを受け合格したけれど、結果経済的な理由から山里さん自ら気を遣って辞退したエピソードなどからも感じ取れます。山里さんの言葉はその場というよりその外側に向けられる事を意識しているところがあるのはこういったコミュニケーションの積み重ねによる影響も関係していると思います。また芸人としての出自も南海キャンディーズのデビュー当時にオリックス自動車の亀井社長に気に入られ行きつけのジャズバーで漫才を披露した事から始まっているそうでそこでも自分の実年齢より大人に向けた笑いの方向性になっていった要素に起因していそうです。亀井社長は自身もバンドを組みフェスを開催するような人物でその方のコミニティを中心に音楽ライブをするような場所で磨いた漫才の腕は、曲と曲との間の中MC的な喋りを彷彿とさせる山里さんの全体の流れに合わせてツッコミワードを乗せる喋り方の気質にもわずかに影響を与えているように感じます。と言ったらさすがにこじつけが過ぎるかもしれませんがどこか音楽性を感じさせる南海キャンディーズの漫才を形成する重要な要素のひとつではあると思います。


総評

いかがでしょうか?

これが山里さんの「炎上や僻みを芸として昇華している範囲と領域」の僕の個人的な解釈です。

炎上や僻みは山里さんの中にそもそも持ち合わせている心理や性格なのだと思いますが、その芸としての中核である密室的な場所で放たれる「突き放し」による言葉の笑いを自分自身にもそして確認しにくい対象の虚像にも向ける事で成立させる領域の移動によるものであると、なんとなく把握が出来たのではないでしょうか。山里さんは「ツッコミ芸」なのですがそれが突き放しによってあらゆる事象を客観的にしてしまうのです。自らも含めて。

では、終わりにまた今一度オードリーの若林さんとの関係性を見てこの記事を締めたいと思います。

山里さんの「密室芸」的な領域と
若林さんの「伝統芸」的な領域は

そのツッコミを行う対象に対して
突き放しによる客観的な山里さんと
自己内回転での主観的な若林さんと

で正反対である事がわかります。

この芸風の真逆な立ち位置とバランスどこかで見た事がある気もします。

それは例えば若かりし頃のタモリさんとビートたけしさんとのヒリヒリとした緊張関係だったり

爆笑問題とダウンタウンの共演NGなのではないかと囁かれる舞台裏から漏れ聞こえてくるエピソードだったり

また太田さんの口から時たま語られる談志師匠の芸の凄さと、たけしさんの人間力の凄みの違いなど、両者の対局な気質と立ち位置から来る相互作用と化学反応のようなもの。それらと山里さんと若林さんの関係性は近いのではないでしょうか?


これがひと昔前だったら単純な対立構造と不仲説などの煽りを受けて化学反応の形が変わっていたのかもしれません。

そう捉えると漫才という表現を中心とした両者のラジオでの一連の流れも味わい方が少し変わってきます。山里亮太という滅多にそのキャラクター像の隙を見せないサディスティックな言葉遣いを乱射するツッコミ芸人が20分にも渡る自己内回転を行った極めて主観的なオープニングトーク。その銃口から鳴り響いた長い空砲の音色は領域が全く異なる若林さんという存在との化学反応を時間をかけて積み重ねた事によって暴発してしまったひとりの人間の情緒であり、それによって他ならぬ自分を撃ち抜いて貫通させられた事で我々は初めて山里観を通してその対象の色気を客観的に感じ取れたのではないでしょうか。



ですが、それすらも


「バァ~ン☆」

「セクシー過ぎてごめんなさいねぇ~」


というツッコミフレーズとともに回収されてしまうかもしれませんね 。




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