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プチ鹿島のプチは小市民の小(プチ)

先週の東京ポッド許可局で、プチ鹿島さんが落合博満さんの「戦士の食卓」という本から「背徳メシ論」を展開させていました。

この番組ではお馴染みの食べ物について語る回、聞いてて食欲を刺激される内容でありながら興味深さとお笑いとしての面白さが絶妙なバランスで混ざり合いいつまでも聞いてしまえるトークにそれこそ背徳感を覚えてしまう心地良さでした。

東京ポッド許可局が今のタイムテーブルに移動してきてからしばらく経ってしっくりき出してきたこのタイミングでの食べ物回は、ギリギリ頭が回っているかいないかもしくは逆に覚醒して研ぎ澄まされているかのような深夜2時という時間帯だからこそ前頭葉に深く刻まれます。この番組が掲げているコンセプトである「エンターテイメント(entertainment)とインタレスト(interest)を両立させた刺激的な内容」とは今回のようなある種のとりとめのなさが前面に出てる会話にこそその魅力は詰まっていると個人的には感じています。もちろんディープなお笑い談義やエッジの効いた鋭い社会批評、アカデミックな観点からくる知的好奇心そのものにもその面白さの中核はあると思うのですが、ふとした瞬間に思い出すのはこういった豆知識的な話と食欲という本能が共有されたトークだったりします。


ここまで東京ポッド許可局を聞いてきていて思ったのは、

僕は プチ鹿島さんのこの感じが好きだなぁ…という事です。


急にぼんやりした事を言ってるとは思うのですが、今回のような放送にこそ東京ポッド許可局の魅力を特に感じている僕からするとそのトークのきっかけが鹿島さんだった事からわかるように、鹿島さんが発信者になっている回はこう言ったある種のとりとめのなさが満遍なく充満しているかのような感覚に浸れる率が高い気がするのです。「このチェーン店がやっぱりすごい論」「匂わせ論」「清宮幸太郎論」「東大すごい論」「田代まさし論」などが好きです。取り上げ方も含めてトピック自体の選出がもうなんか面白いのも特徴です。言ってしまえば3人の中で一番どうでもいい事を言っている気がします。ただだからこそその中に興味深さもあるしお笑いとしての面白さも同時に存在しています。

今回はこのプチ鹿島さんの

「そこはかとなくずっと面白いけどその正体のとりとめがない感じ」

について注目していきたいと思います。


とりとめないという言葉を選びましたがこれは別段、鹿島さんをディスっているわけではもちろんなく、むしろ面白くて好きなのですがなんと言うかこの軽妙で快活で小刻み良い鹿島さんのご陽気な雰囲気に飲まれていつもその奥にあるであろう面白さの理由というか人前に出る人の自我精神などが煙に巻かれて表現されている気がするのです。その着眼点や立ち位置や振る舞いや持っていき方がテクニカル過ぎて逆に実像が見えてこないなと感じる時があるのです。

ただそれも観ているこちら側が勝手に感じている事ではあるし、もしかしたらご本人の中では全然何も関係無い事なのかもしれませんが、あくまで観ていて感じたり思ったりする中の個人的な捉え方の範囲内でこの事について考えてみたいなと思います。これを行う事でプチ鹿島さんの面白さをより深く味わえるのではないかと思いこの文章を書いてみています。プチ鹿島さんがお好きな方はよかったらお付き合いいただけると嬉しいです。よろしくお願い致します。


さて、さっそくですが鹿島さんの喋りと言いますか芸の領域みたいなものを個人的には感じていまして、それを捉えていく事で面白さを紐解いていこうと思います。それには5段階あります。下に降りて行けば行く程開かれた場所になってゆくイメージです。

プチ鹿島の芸の領域

第一領域

まずは「密室性」です。
それはYBSラジオ「プチ鹿島の火曜キックス」という番組で発揮されていると感じます。

山梨放送で平日13:00〜16:30に組まれている昼の生放送ワイド番組で、火曜日のパーソナリティを鹿島さんが担当しています。東京から離れた場所でおよそ3時間半という長さもある環境、日中という時間帯でありながらラジオという媒体もあって鹿島さんの野次馬精神が下世話になり過ぎない塩梅の話術に仕上がっています。

「密室性」と謳いましたがそれは何も完全に閉ざされた空間を意味して言っているわけではありません。

むしろ程よくパブリックなゾーンでありながら大衆的とは呼べない地点や層に向けて披露されている類のものがあります。タモリさんのイグアナのモノマネなどはもともと仲間内で披露されていた芸ですがそれを当時のテレビの一場面や演芸空間で放たれる事件性も含めてその「密室性」の強度を上げていたとも思います。もちろん何も鹿島さんが言っちゃいけない事を電波に乗せて笑いにしていると言っているわけではもちろんありませんが、放送コードを守ったままいろいろな事情があって昨今のお笑いタレントがあまり選ばないであろう話題や着眼点や掘り下げ方での話芸を披露している事そのものに「密室性」を感じるというわけです。

その最大公約数をこのラジオでは感じます。その受け手である海野紀恵アナウンサーのリアクションも含めて絶妙なグルーヴ感があります。鹿島さんが持つ野次馬精神や下世話という面白さは、日常や一般社会というものが裏打ちされた上での芳醇な味わいでありその目安の最適な主軸として海野さんの程よさはなくてはならない存在だと思います。

特にその中のワンコーナー「プチ総論」が特に好きです。

このコーナーで落合博満さんの「戦士の食卓」も取り上げられていました。マキタさんに是非この本を紹介したいとトークをしていたのを聞いてからの先日の許可局だったのでなんだか嬉しく感じてしまいました。そういう意味では鹿島さんのトークの原液を味わえるような感覚もこのラジオの領域的魅力だと感じます。


第ニ領域

さて、その次の領域です。
それは「座敷性」だと思います。
それは前述した原液トークの辿り道の通りTBSラジオ「東京ポッド許可局」だと思います。

ここで鹿島さんの野次馬精神や下世話的な観点は「論調」の色味を帯びます。感覚としては文章化していくと言いますか、新聞読み比べ芸人を自認していますからそこら辺を加味すると「社説」化してゆく作業という感じでしょうか。特にそれはマキタスポーツさんの存在が大きいと思います。マキタさんの芸風の根幹にある批評性、思想性、哲学性が鹿島さんのフワッとした着眼点に説得力のようなものを含ませている瞬間が多々感じられるのです。

ポッドキャスト時代の「ピン芸人論」での鹿島さんに対するマキタさんの批評も興味深いものがありました。かつてコンビを組んでいたという経歴でありながら相手にキラーパスを出す癖があったり、ひとり芸の追求を見せるのが怖いのかもしれないと自問する鹿島さんの演者自我が少し立体的になるような施しに感じました。ちなみにその中で論じられていましたが、マキタさんが自己言及している半分ピン芸人、半分コンビ芸人という性質。そしてそれが笑福亭鶴瓶さんと似ているという話はその芸風の根幹ごと類似していると思います。鶴瓶さんも落語や鶴瓶噺をよくよく聞くと批評性、思想性、哲学性を感じられ対象や世界に意味付けを施すトークを芸としています。

話が少し横道に逸れましたが、マキタさんを中心とするこの地点が鹿島さんの持つ野次馬精神や下世話的な観点に説得力を持たせて波及させる、密室性を座敷性に変換させているゾーンなのだと感じます。サンキュータツオさんのポジショニングも重要な立ち位置なので後で触れます。


第三領域

続いてその次、真ん中に位置する領域。
「額縁性」です。
メディア性と呼んでもいいのかもしれません。
それは現時点ではダースレイダーさんとのYouTube番組「ヒルカラナンデス」だと思います。

毎週金曜お昼に時事ネタを語るこのライブ配信では、鹿島さんのトークの面白さをある種分かりやすくパッケージングして過剰に打ち出しているバラエティ的な側面の最大沸点のひとつだと感じます。とにかく矢継ぎ早で被せ気味で畳み掛けてねじ伏せる時事ネタの波状攻撃を有無を言わさず味わえます。鹿島さんも自認していましたがダースさんがラッパーだからか言葉がどんどん乗ってくるというような感覚が独特のウィルビーイングを生んでいます。この事から捉えられるように鹿島さんの喋りの特性というかスタイル的なものが「ガヤ芸」である事もわかります。

この「ワニ」「ニシキヘビ」「怪鳥」「飛来」の流れとか最高ですね。

許可局で話が真面目になり過ぎた時のさり気ない笑いの挟み方くすぐり方とぼけ方にも鹿島さんの魅力はありますが、その外側からのアシスト技術を真ん中に持ってくるとここまでの求心力が生まれるんだと驚かされます。すなわちそれはタレントスキルとも呼べるしプチ鹿島という視点を通したひとつのマスコミニケーションとも言えると思います。野次馬精神や下世話的な観点を論調として強度を上げて波及させていた許可局と比べると、ヒルカラナンデスはそれをさらにポップ化キャッチー化させている場所ではないでしょうか。

ちなみにですが、鹿島さんの活動の中で過去似たような額縁性を感じたのは「電波少年」の派生番組「雷波少年」での熱狂的巨人ファンシリーズです。ペナントレースをテレビの前で応援し勝てば食事支給、負ければメシ抜きという生活を行う過酷な企画にかつて出演していました。これも鹿島さんは自認してよく言いますが「自分はいち視聴者である」「プロの野次馬である」という心持ちはこの番組に出た事も影響しているのではないかと思います。ヒルカラナンデスも雷波少年も何かを外側から観てガヤを入れている鹿島さんを我々視聴者が前から観るか、後ろから観るかの違いでしかないように思えます。


第四領域

そしてその次は「大衆性」です。
ここまで来るとかなり視界として開かれてきます。
なのでこの領域だと番組というより誰と対峙するかという感じになってきます。

ここの領域に居るのがサンキュータツオさんであると思います。タツオさんのジャンルである語学、落語、バスケ、アニメ、そして居島一平さんという存在を含めた米粒写経という漫才師としての活動は鹿島さんやマキタさんのそれより即自的です。もちろんタツオさんが対象にどう感じたかという主観でもっての批評性も発生している事は大前提ですが、その研究対象の選出とアプローチのし方が手数論から見ても理系のそれに感じます。学者芸人と名乗る演出も込みでそのシンボル感にある程度の公共性を求めているのではないでしょうか。マキタさんがタツオさんをいじる時言葉でもってそのキャラクターの因数分解を試みる中、鹿島さんはそれにヤジを含ませるかのように少し遠くから面白フレーズを投げていきます。

これは鹿島さんがプロレスラーや政治家、そして抽象化されたおじさん等の実在する対象の共同幻想部分にツッコむ時と割りかし同じ手法だと思います。三又又三さんや冷蔵庫マンさんとのエピソードトークもそうです。そのままそれを連打して漫談に仕立て上げたりモノマネに昇華したり最終的にタツオさんにそれらをツッコまれる事でベタ化させて大衆性に還元する所まで持ってゆきます。


第五領域

最終領域です。
「普遍性」です。
ここが一番パブリックな地点で、面白いことにここに到達する頃には鹿島さんの野次馬精神や下世話な観点はスタート地点のそれと風味がすっかり変わっていて、ある種の信憑性とともにひとつの情報として扱われ出します。

それが報道番組での鹿島さんです。

ただ鹿島さんの言っている事やスタンスは基本的には変わっていません。ですが受け手からの捉えられ方や扱われ方にあきらかに違いが発生しています。と言うかもっと言えばそれは視聴者からの見られ方が変容しているわけでもないかもしれません。その媒体自体の中での鹿島さんの野次馬精神や下世話な観点が市井の人の潜在的な総意であるというようなサンプルとしてそこにいる感じです。何かしらの民意のようなものをギリギリ芸人の与太話として提示しているというニュアンスでしょうか。コンビ芸で言えば爆笑問題の太田さんに似ていてピン芸だと松尾貴史さんに似ているライン上に立っていると思います。

その中で放たれる開示された情報を繋ぎ合わせる事で浮かび上がってくる嘘か本当か分からないけどそれを含めて面白さ興味深さのレベルが高い半信半疑話の数々はこの情報化社会の泳ぎ方のひとつの視座になっていると感じます。オバマ大統領への寿司の話や、東スポの見出しいじり、オウム事件の時の世の空気とその報道の話など、全て開示された情報から出来上がっているトークですが何故か情報の密売人のような感触を味わえる鹿島さんにしか出来ない話芸です。

なので鹿島さんはピン芸人ですがその核は「いじり芸」の人だと思います。あらゆる開示された情報を繋ぎ合わせて自己解釈で対象への面白みを固めてゆきネタとして昇華する。表現自我のあり方が何かに依存しているようでいてその対象への関わり方は表層的な部分をなぞり続ける事のみに留まろうとする事から自己追求的でもあります。元々野坂さんと組んでいた「俺のバカ」というコンビ名からもいじりの対象が自我化している現象のようなものが伺えます。


ただそこまでプチ鹿島という芸人を捉えようとした時にはたと気付くのは、それが「自己と世界への関わり合い方」そのものであるという事です。我々は自分が見ている世界を世界の全てだとしか捉える事は出来ないのです。そして人間社会とはその「自己と世界への関わり合い方」の個人個人の総体です。

プチ鹿島と「自己と世界への関わり方」

鹿島さんの自己と「自己と世界への関わり合い方の個人個人の総体」への関わり合い方は、それこそ我々がプチ鹿島という芸人を観ているその視点にも含まれているし、その事実が逆説的にプチ鹿島という芸人の存在を「自己と世界への関わり合い方の個人個人の総体」として我々の自己は関わっているわけです。これはなんでしょうか?よくわからなくなってきました。


ここで話は少し飛びますが鹿島さんは元々学生時代に知人の誘いでYellow Monkey Clewというラップグループに参加していて1992年に行われたCheck Your Mikeというコンテストで優勝しています。

この記事にあるように「リーダーに隣で「よいしょ!」とか「あ、それ!」と煽ってくれるだけでいい」と言われた」という話は今までの鹿島さんの芸風の個人的な捉え方と合わせるとなかなか面白いものがあると思います。かなり雑な見立てですが、鹿島さんのあの軽妙で快活で小刻み良いご陽気な雰囲気と対象や開示された情報すなわち自己が捉えた世界に対してその周辺から内側に投げるように言葉を放ってゆく芸の根幹のようものがほのかに感じ取れます。

ちなみにこれはかなり感覚的なのですが
鹿島さんの喋り、ガヤ、モノマネ等でその場を包むノリを生む気質に
「音楽性」を感じ

マキタスポーツさんのものの見方とそれを組み立て展開させてゆく作家的な分析力には
「言語性」を感じ

サンキュータツオさんのキャラクター設定と進行やツッコミコメントでそれをナチュラルに提示できる演技体系は
「プロレス性」を感じます。

つまり東京ポッド許可局のトリオバランスはこの3人の語っている内容の得意ジャンルとそのコミュニケーション方法がそれぞれで隣にひとつずつズレているところにフォーメーションの妙があり、それが絶妙な知的交差を飽和させているのではないでしょうか。

このそれぞれの配置に置いてやはり鹿島さんは外側にポジショニングを取っていると感じるのです。マキタさんがその批評眼でもって皆が漠然と抱いている感覚を言葉にし概念化させ、タツオさんはそれをあくまで学術的な立場から様々なデータを元に解析し体系化させ、それらの流動の中で鹿島さんがあくまで個人的な観点や経験から素朴な投げかけによって平均化させる、庶民化と言ってもいいかもしれません。この美しき循環によって3人は論を延々と構築し続けるのです。その中で特に庶民化というフラットな目線を使いこなす鹿島さんはやはりとても重要な存在だと思います。いい意味で難しくさせ過ぎないのです。ちょっとどうでもよくさせる、噛み砕きつつもしょうもなくさせる、身近に感じさせる、その技術が半端なく上手い。その記憶力の良さやアウトプットの瞬発力は天才のそれだと感じます。

そしてこの対象の一番外側から投げかける個人的で素朴な意識こそが、鹿島さんの持つ

「そこはかとなくずっと面白いけどその正体のとりとめがない感じ」

そのものなのだと思います。


プチ鹿島とその外側

学生時代ラッパーとして横から入れていた煽りも、報道番組での情報に半信半疑の話を持ち込む視座も、プロレスラーや政治家に対してのいじりやツッコミやヤジの入れ方も、ヒルカラナンデスの矢継ぎ早に畳み掛ける時事ネタの応酬も、東京ポッド許可局での説得力を帯びる論調も、キックスでの野次馬精神と下世話な観点溢れる面白さも

全てのその対象の外側に居る、それ以外という存在である我々のとりとめない庶民感覚そのものなのではないでしょうか。鹿島さんはそんな誰しもが持つ下世話な好奇心を、さりげなく力強くそして優しくバカバカしく肯定してくれます。


プチ鹿島がその外側からちょっと対象に近付いた時、

我々の心もプチ鹿島という対象物に外側からちょっとだけ近付いているのだと思います。

野次馬を見る野次馬

そんな東スポの見出しのようなガヤが 遠くから聞こえてきそうです。



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