「4」という数字への感覚に関する考察
(※こちらTogetterで2023年4月17日に掲載させていただいた まとめ記事の加筆・修正したものになります。)
4という数字への感覚に関する考察
なぜ人は4に惹かれるのか?
4という数字になぜ惹かれるのか考えてみたのですが、
4は1が無くても成立するからじゃないでしょうか。
1って完全体過ぎて数字感が無い。
4から1の要素が無くなってて複数を個とする感覚が強まってる。
上手く言えないけど、
4から「この感じ永久に続きそう」
な気がするんです。
4って1っぽいんです。
なに言ってるかわからんかもしれませんが…
次の段階に進んでる1っぽい。
逆に言えば、3は0っぽい。
1で絶対的な感じが、
2で相対的になって、
3で総体的と化すみたいな…
「グー」「チョキ」「パー」で、
"あいこ" になっちゃう感じ。
4コママンガが、
それで「1作品」
って感じがするのは、そういう理由な気がします。
「コンビ」「トリオ」「カルテット」への印象論
4コママンガの作品感の強さって、
やはりこの「4」という数字の持つ「1っぽさ」が要因だと改めて感じています。
例えば、
ピン芸、コンビ芸、トリオ芸、まではお笑いの活動形態でよく見るけど、カルテット芸、からは、なんか違う段階に進んでいる感じがします。
明確に何かが違う。
ぼる塾って3+1だからカルテットとして理解しやすい気がします。
お笑いに置ける4人組って、あんまり居ない気がするのはそういう理由な気がします(コンビ×コンビのユニットはよく見るけど)。
5人組以上になると、例えばドリフターズとかプラン9、ダウ90000みたいな集団としての「しっくり感」がある。
4人組はバンドとかの方がよく見ます。
それも ぼる塾と同じように、中心的なボーカルやシンボリックアイコン的な分離ポジションが引き起こりがち(1+3)なバランスに感じます。
お笑いで言えば「3段オチ」とかもありますが、
実際問題「フリ」→「オチ」(→ツッコミorもうひと展開)で成立するものなので、4まで必要あるのか?という感じなんじゃないでしょうか。
雅楽の舞楽の「序破急」
茶道や武道の「守破離」
のように、基本的に3で完成してる。
そういう意味では4は継続性が強いのかも。
4の「夢オチ」っぽさ
なんか4って「夢オチ」っぽい。
4の俯瞰性、継続性に着目するのなら、やはり2との類似が目立ってしまうわけですが(単純に言えば4は2の二番煎じ)
ただ、2は1に対しての俯瞰性、継続性であって、それはどちらかと言うと分裂的な行為なのだと思います。
2は1の二番煎じ、そこから3を経て状態化したところでの、もうひと段階が4。経営目線。
なんかこんな感じ
明らかに3までは想定範囲内、
むしろ黄金比的な完成美は3でとっくに到達してる。
4の段階に進んだ時にそれが破壊を持って創造を余儀なくされています。
8で一周してるけど、4がこの世界を終わらせた事で始まってる輪廻と言いますか…
4が死を連想させるのは、破滅によって循環させているからだと思います。
継続的出発点としての4
たぶん4という数字の特異性は、
「俯瞰構造の状態化」「客観視の主観化」みたいな作用によって発生している感覚的概念なんだと思います。
夢オチも4コマ漫画の普及も、これで説明出来そう。継続的出発点、みたいな感じ。
0から1はもちろんの事、1から2までは創生と分裂が意味として強いんだけど、2から3でそれが継続した事により無限性みたいなものが担保されてて、そこである種の完結が訪れてる。
「数」という概念のピークは3。その後に4は出てきてる。それによって「数」を越えて「数字」という概念の扉が開いてる。
これが非常に「夢オチ」っぽい。
4以降の、終わらない現実感。
4は、終わりの始まり。
4コマ漫画の浸透は、継続への連結を含んだパッケージングだから。
冒頭での4は1が無くても成立するは事実だけど、2も3も無くても成立する事を意味してる。
4次元空間は私達の俯瞰視点領域。
我々は、4に生きてる。
(元記事)4という数字への感覚に関する考察
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