見出し画像

ニューヨークの地下には巨大なアンチがいる


ニューヨーク嶋佐さんが炎上していました。



厳密に言えば、炎上とカウントできるような規模感では、微妙になかったと思いますが、「WBC早く負けろ」発言をしたと誤解をされたまま、それが拡散され、SNSとネットニュースを中心に話題になっていました。


それらを踏まえた上で、ニューヨークのお二人も、半分冗談、半分本気、ぐらいの温度感で、その炎上そのものをネタ化させ、面白おかしく語っていました。

タイミング的にも、NEWニューヨーク、ニューヨーク恋愛市場などの終了や、マジックミラーナイトから紗倉まなの卒業、キングオブコントの会への出演など、いろいろ転換してゆく過渡期と重なっていた事もあり、ニューヨーク本人やその周囲も、若干 混沌としながら渦の中を泳いで行っているような雰囲気を覚えました。


そして、この一連の騒動と振る舞いを見ていて、なんとなく感じたのは、

嶋佐さんの独特のスタンス

それが印象的だなぁ…という事でした。


なんか、すごく絶妙なおもしろさを、ずっと温存しながら喋っている感じ。

イベント司会者や、屋敷さんからのフリ、
ネットニュースの切り抜き、大元のスポーツ新聞社、
おぎやはぎのラジオ、、元ホームチーム檜山さんの記事、周囲の芸人の反応、
野球ファンからの批判、ニューヨークファンからの擁護、
そもそものWBCでの盛り上がり過剰な世間の風潮、

などの「言い返す(言及すべき)相手」が選択肢として多重的に絡み合っている中で、



「どこにいた記者さんだ?」

と、まずTwitter上で言及していることが、印象に残りました。

なんというか、あくまで対等な立場での距離感を守った上での、
言い回し、温度感、詰めるポイントとかが “ そこなんだ “ という感触。
そして、 “ たしかに “ という、着眼点だと、あとから気付いてく塩梅。
そんな取捨選択の匙加減を感じました。

「いじられながら、いじってる」

そんな技術を感じたのです。


思い返せば、ニューヨークというコンビの話題提供は、常に半分炎上気味で、この「いじられながら、いじっている」というような絶妙な露悪と共感を誘いながら、その輪を大きくさせていって、ここまで辿り着いていると感じます。


ニューヨークという芸人が語られる時に必ず付随してきた

いわゆる「悪意と偏見」

というポイントのことです。


最近は、その毒素のようなものの度合いや球種を、調整しながら提示しているとも感じます。

THE CONTEでの東京03飯塚さんからの「ニューヨークの最近のネタって、全部バカみたいなネタだよね!」という評価や、
鬼越トマホークチャンネルでの川瀬名人からの「ニューヨークLOVEおじさん計画」という分析、
渋谷直角さんからの「ニューヨークへのラブレター。」という記事、など

単純な「悪意と偏見」というおもしろさ、
とは形容できなくなっていると感じます。変容していってる。



ここで、ふと思うのは、

そもそも この「悪意と偏見」とは、なんだろう?

という事です。


なぜこの感覚が聴衆の前で吐露された瞬間に笑いが起きるのか?

実は、自分はあまり、よくわかっていません…

「ニューヨークは、悪意があるから面白い」「最近のニューヨークは昔の尖りがなくなってきた」「いや、悪意だと思われているけど、本当は純粋さからくる無垢な感性だ」「ニューヨークの陽キャの意地悪な視点、苦手…」「いや、ニューヨークは1.5軍の冷めた目線のアイロニーが面白いんだろ」などなど、

それらの意見は全部納得できるようで、全部きちんと飲み込めません…


なので今から、ニューヨークが語られるこの

「悪意と偏見」とは、そもそも何か?

という事を、ニューヨークの面白さを考えると共に、思い巡らせてみようと思います。


あくまで個人の勝手な感想であり、独り言でしかありません。ただ、なんとなく書いてみただけの文章ですが、それをご了承いただき、もしよかったらご一緒に思考を燻らせる時間がございましたら、お付き合いいただけると幸いです。


ニューヨークのネタ

では、まずは、ニューヨークのネタの面白さについて、考えてみることで「悪意と偏見」の正体を探ってみたいと思います。

ニューヨークのコント

自分が一番最初にニューヨークのネタを見たのは、たしか
2014年第35回ABCお笑いグランプリで披露していた「娘さんを僕に下さい」というコントだった記憶です。

ネタバレになってしまいますが

このネタは、娘さんの彼氏である嶋佐さんの顔面にタトゥーが刻まれてて、父親役である屋敷さんが、タトゥーを彫っている人への「偏見」をツッコミとしてぶちまけてゆく、という面白さがメインの設定でした。

ボケツッコミの関係性を言い訳にして、屋敷さん(が演じている父親)が、対象への差別心と呼べるような視点を、舞台上という公衆で晒して観客と一体となって共犯関係を築いて笑いにしてゆきます。

サラリと言いましたが、そうです。
これは「差別(のようなもの)」を笑いにしています。

差別(のようなもの)で笑っている、のではなく
差別(のようなもの)を笑っている、という基本設計になっています。

この時期で、似たような属性というか文化というか、そういう対象に向けて偏見でぶん殴るようなツッコミで笑いを取ってゆくコント「Dragon Ash」というネタも身も蓋もなくて好きです。

初期の頃のニューヨークは、特にこういった「不良性」のようなものに対してバッサリと切り捨てるような視点で、笑いをとっていたイメージが何となくあります。
それが別に、「元いじめられっ子」「文化系っぽい陰キャ」感があるようなタイプのキャラクターが復讐心を持っているかのような立ち位置で反逆者っぽく提示しているわけでなく、
時代が違えば2人とも「不良」的なスタンスになっていた可能性があるような雰囲気の人達が、それを実質否定しているようなスタイルで笑いを取っていってる事に、ある種の爽快感が、差別(のようなもの)を不思議なバランスで肯定しているかのように突き抜けてゆく快楽があったのです。

これはおそらく、かなり世代的なタイミングの妙が、含まれていて、
ニューヨークの2人くらいの年齢だと、単純に「ヤンキー」的な存在やファッションが、参加人口として減っていってて、ちょうどほぼ撲滅していた時代背景があると思います。
なので、弱者性を提示しながらも、風評加害的な「新しい暴力行為(とも呼べるかもしれないもの)」を行使しながらもエンターテイメントとして成立させる、そんなスリリングな面白さがニューヨークの最初の印象として、味わい深かった思い出です。


そこから変遷は細くあると思うのですが、
その「不良性」の定義が「ヤンキー」的な領域だけに留まらなくなってゆきます。

「ハマー」「大工の休憩中」などの、経済的強者や、

「シェアハウス」「フラッシュモブ」などの、自己肯定感の高そうな陽キャ文化、

「SNS」「路上喫煙」などの、キャンセルカルチャー的なものと複雑に絡み合ってる無敵の人、


などなど、
「不良性」をボケだと捉えた場合に、そこへ向けるツッコミに乗せた「偏見」を浴びせる対象を、かなり四方八方的に拡張してゆき、ほぼ全方位に毒を吐いている状況を、あくまでネタだとして、その中に鮮やかに組み込んでゆきます。綺麗に組み込んでゆけばゆくほど、差別のようなものは、差別そのものと肉薄してゆき、当事者意識に到達するほどに笑いにくくなってゆく、からこそ、めちゃくちゃ面白い、という中毒性に近いものを帯びていました。
観客全員の顔にタトゥーが入っていたら、ニューヨークのネタはウケないと思います。

と同時に、それらの「偏見」の剥き出し感は、コントの方が強い傾向にあると感じていて、その対象へのデフォルメを強めていけばいく程キャラクター造形が誇張されてゆき現実味から離れてゆきます。近年の「ヤクザ」「ウエディングプランナー」「女上司」などのネタは、そういう進化の果てに辿り着いた、中核の差別心を覆い尽くすミルフィーユ状の「偏見」コントだと思います。

そして、ニューヨークは、漫才も行います。


ニューヨークの漫才

ニューヨークの漫才を初めて見たのも2014年くらいの時期で、たしか爆笑レッドカーペットだった気がします。非常にぼんやりとした記憶なのですが、何か特定のブランドを弄ってた気がします。ネタ後に今田耕司さんが、それをさり気なくフォローしていたような…そんな印象です。なんだか尖ってる漫才師だなぁ…と思ったのを覚えています。

ニューヨークの漫才は、コントと基本的な面白さのポイントは似たような領域で展開されていると思います。ただ、役柄を設定し演じている、というコントの特性と違って、漫才は素の2人が立ち話を即興でしているという“てい”を取るために、ツッコミとして放たれる偏見の「その言葉選びをする理由」が薄くなっていると感じます。

差別(のようなもの)を、笑っている、という状態は変わらず当事者性だけは若干強まっています。なので、その切り口が毒舌的なキャラ化を孕んでゆき、対象への具体性が増していってると思います。つまり直接的。これは、「悪意」の方に主軸があると感じます。

なので、感じる傾向を簡単に言ってしまえば、コントより固有名詞がよく出てくる印象です。
偏見を向ける対象への射程距離が短くなってる。

観客に「これは、あの人の事を言っている…」と思わせる笑いの取り方。

もしくは、対象が人物でなくなっていってても、その事象というか、
「このボケを“おもしろい“と思っている事そのもの」を“ボケ“として扱って提示したりしてきます。

ベタな笑いを、“あえて“ するような「悪意」

2020年のM1決勝でのエピソードトークを話す漫才や、最近ENGEIグランドスラムで披露した嶋佐さんが嫌な上司を演じてゆく漫才なども、その題材をあえて扱う事そのもの、をボケとし、そこへのツッコミを生じさせている状況自体を面白がっている、という提示になっています。
観客との共犯というよりは、ニューヨーク側が完全に罪悪を背負うような運動。

ただ、だからこそ道徳心や倫理観への問いかけにも偶発的になっていて、その取り上げる対象や切り口が「ダセェ」「ムカつく」「終わってる」などの最小単位の批評性を舌触りとしては確かに生んでいるので、妙な納得感と共にお笑いとしては強度なあるあるネタとして脳処理をしてしまう仕上がりになっているのです。
狭いけど確実にメッセージ性がある。

これもまた、ニューヨークの2人が世代的にネットの浸透以後に売れた芸人であることが関与していると思います。

いわゆるネットリンチ的な炎上という現象の世間的な周知が、芸人としての知名度を獲得してゆく過程と同時進行的に広まっていったような感触があるため、コンプライアンス的な意識と、前時代的なトリックスターとしての芸人のあり方と、その狭間で、ギリギリはみ出すかはみ出さないか(のように見せること含めて)の綱渡り芸が、体幹的に染み付いているように感じる瞬間が多々あります。さらに言えば、見る側の炎上の琴線も年々高まっていっているとも感じます。より些細な事で、燃え上がる事が増えている印象。ニューヨークは、それを把握した上で、移り変わる勘所に狙いを定めて笑いにしているのではないでしょうか。

そんな「悪意」を料理せず素材のまま皿に乗せるので、
その美味しいトロの部分の、希少性と濃厚さが際立っている。
そういった舌触りのある漫才師だと思います。


ここまでで、ニューヨークのネタを考えてみることで、

コントにおける「偏見」
漫才 における「悪意」

の面白さの比重が、何となく自分の中で整理が付いて腑に落ちてきました。

ですが、これだけだと表層をなぞったに過ぎず、「悪意と偏見」の核心には触れれていない気がします。

ここからは、ネタよりさらに内側、ニューヨークを見ていて感じる、個々人の内面的な部分を掘り下げていこうと思います。


ニューヨークのコンビバランス

嶋佐さんのおもしろさ

まずは、嶋佐さんから。

嶋佐さんがよく評されている部分は「演技力」だと思います。

憑依芸と呼ばれるそれは、コントでキャラクターに入った時に真価が発揮されています。
本当に、そういう人に見える、かつ、どこか滑稽さを根深く感じさせる、そんな人物模写の超絶技巧を、さも当たり前かのように繰り出しています。

と同時に、その一般的な評価は、果たして的確なのか? とも思います。

なんと言うか、嶋佐さんの「演技力」って、
いわゆる生粋の舞台俳優や、テレビドラマの中で目にするような
「型」としての強靭さ、を
そこまで濃ゆく覚えません。

もちろん、役者さんの専門職としてのそれと、芸人さんがネタの中で披露する演技は、根本的に違う代物だと思うのですが、だとしてそれを踏まえても、なんか感触として「演技感」が、実はそもそも薄いんじゃないか…?という気がするのです。


なんか、「モノマネ感」が強いんです。

モノマネの技術論で、演技力と評されるまで到達させてる、と言いますか…
モノマネ芸、として見たら 演技力がある、と言う状態な気がします。

三四郎の相田さんのモノマネ感、と近いんじゃないでしょうか?

最低限の声真似を軸に、その周辺部分を形成してゆく手法は、肉体全部を隈なくコントロールする俳優的な演技力とは異なり、その中心点である本人の自我が色濃く残っているからこそ、“ニセモノ” として笑える、という均衡になっていると感じてやみません。

その上で、嶋佐さんのモノマネ芸が「演技力」と評される理由は、相田さんのそれより対象との距離が離れているから、なのではないでしょうか?

これはまた、別の観点なのですが、
嶋佐さんを見ていると、時折バナナマン設楽さんの雰囲気と近いもの、を感じる時があります。

なんか「露悪的」な感触があるのです。「悪おもしろい」感じ。

特に、初期の頃のバナナマンのコントでの設楽さんと、
まだここまで可愛げが出る前の嶋佐さんが、似てると感じる瞬間があって

言い表し方が難しいのですが、自身の “絶対領域” を守ったまま、対峙する相手への攻撃的防御を行なっている感じ。

設楽さんも、嶋佐さんも、自己像のプロデュースが最小単位で洗練されてて、その上でそのブランディング強化に周囲をちょっと参加させている心理的運動を感じるんです。

これによって生まれるのは
「この人の事は、ここまでしか、いじっちゃいけない」という近隣の思い込み。

そのミクロな洗脳技術で、逆に「自分が相手をいじっていい範囲」を広範囲に拡張できているのではないでしょうか。

2人とも、誰かが全員にいじられている時に、ドサクサに紛れて重めのパンチラインを打ってゆく瞬間が、時たま目立ちます。
児嶋さんが松本さんにいじられてる時に「このクオリティだよ!」と言う設楽さん
平子さんが屋敷さんにいじられてる時に「これ以上売れない」と言ってる嶋佐さん
対象を深くエグっていると同時に、このノリ“自体“や、この場“自体“をも若干客観化してしまっていると思います。

この対象との距離感を絶妙に保ちながら繰り出す露悪的な言動、行動をボケとして放つフォームが、両者、閉鎖的なコミニティでの笑いに向いているのだと感じるのです。
回転寿司屋で醤油をペロペロするような、コンビニおでんをツンツンしているような、そんな種類の仲間内での不良性に原型は近いおもしろさ。実際そういう行為を行わない事はもちろんですが、そういう事をしている存在に“なってしまう”という俯瞰的な「悪意」を、ものすごく感じる。“なってしまう”事で、いじってる。という感じ。

いわば、こういう設楽さん的な「露悪」を、相田さん的な「モノマネ」に乗せて、嶋佐さんの「悪意」は発露されているから、結果、演技力が高いと評されているのだと思います。
対象へのデフォルメに、絶妙ないじり視点がきめ細かく残ってて、観衆はそこに敏感に反応している。
モノマネ芸人が、対象を小馬鹿にしながらする誇張を「リスペクトしているから」と言い訳をしているのに似ています。

また、嶋佐さんの、その悪意は近年、自意識的なゾーンに向けて放たれていると感じていて、いわば「“自分”で“自分”をいじっている」状態に持っていく事で、悪意を保持したまま可愛げを抽出しているのだと感じます。(と並列して、同属性や、その外側の構造ごと、いじっているとも言える。前述のWBCの件で「どこにいた記者さんだ?」とTwitter上で言及しているのは、まさしくその形状。)


屋敷さんのおもしろさ

続いて、屋敷さん。

屋敷さんが評されている部分でよく耳にするのは、「ツッコミ」能力と、それに伴う 相手の魅力を引き出すMC力です。

その場に置いての全員が必要としている一言を、瞬時に吐き出せる言語選択。
気持ちの良い関西弁の突き放しによって生まれる会話のグルーヴで、普段は言わないであろう話や見せないであろう一面を、屋敷さんの前だとついポロリと零れさせてしまう、そんな人身掌握術が屋敷さんの魅力です。

と同時に、これもまた、その一般評価は、100%正解なのか?とも思います。

屋敷さんはもちろん「ツッコミ」「回し」的なスキルが高く、そしてそれを自覚し使いこなしている客観能力、またはお笑いオタク的な側面を活かした芸人情報力も優れてて、その面も支持されていると思うのですが、

それら全部を包み込むような「天然」感、も強く感じます。

いわゆる「おバカキャラ」的な「天然」とは、少しばかり具合も違うのですが、なんだか根幹的な部分に、ものすごく分厚い「無自覚」性を覚えるんです。


屋敷さんみたいなタイプの人が

”お笑い芸人”を選んでいる事の「天然」感、と言いますか。

人生規模の天然感、無自覚性が前提として地面深くに突き刺さってる感じがします。


当然それは、相方である嶋佐さんも、他の全芸人さんも、もしくは我々お笑い好きの視聴者、そうでなくとも社会に生きる全ての人の自意識の中に「人生の主人公」である自分という存在の理解が、客観視の隙間を縫うように、無自覚な天然性を誰もが等しく飼い慣らしているのだと思います。

ただ、屋敷さんは、一箇所ものすごく捻れて歪になってるポイントが、

「そういう天然性のある自意識」をツッコんで笑いにしている存在だというところ。

ここが、めちゃくちゃ グニャッ ってしてる。

嶋佐さんがコントでそういうキャラクターを演じる事含めて、ツッコまれ役を背負ってゆくために、屋敷さんは必然的にそういう視線から逃れられている設計になっていて、さらにニューヨークの特色が、前述したような差別(のようなもの)を笑いにしているため、そのツッコミを放つ瞬間は、自分の事を棚に上げなければ成立しないため、屋敷さんの無自覚性は、コンビとして知名度を獲得してゆけばゆく程、共同幻想的に膨らんで見るものを巻き込んでゆきます。観衆は屋敷さんという共感装置を経由して、己の無自覚から身を守りながら、他者の無自覚を面白がれているのだと思います。

解散危機エピソードの、嶋佐さんがブチギレた時に屋敷さんが笑っていた、という話がそれを象徴的に表していると感じます。

キレポイントである“服がダサい”という嶋佐さんの指摘の滑稽さも含めて、その言及への当事者意識の低さと、笑顔から滲み出る無自覚な差別心(のようなもの)の中に、屋敷さんの色気と変態さと可愛げが詰まっていると感じてやみません。

そういう意味では、屋敷さんのツッコミは、「偏見ツッコミ」と称されていますが、それと同時に、それが笑えるのは、大衆の「偏見」を、まず矢面で浴びているのが、屋敷さんだから、だとも思います。

「この人(屋敷さん)は、そういう偏見を持ってそう…」

と、見ている人の偏見に晒されているから、それがツッコミとして発された時に笑いが起きるのだとも思います。本気で思ってそうだから。

また、そういうツッコミに「共感」を乗せて、そのままそれをキャラクター化させるような構築方法は、南海キャンディーズの山里さんや、いとうせいこうさんと近いかなと感じます。山里さんは「妬み」いとうさんは「インテリ」的なものを背負い、そしてそれを背負い過ぎるようなワーカーホリック的な側面が、本人達の天然性とともにキャラと実存のズレが大きくなって降りれなくなる。そんな現象を両者語っているのを聞いたことがあります。屋敷さんもバチバチエレキテるの頃は、今よりも鋭利な感じを背負っていた記憶です。

自身が浴びている偏見に、無自覚だからこそ、天然感を土台にしながら、偏見ツッコミを放って笑いに出来るのかもしれません。(ただ、最初の入口はそうだった可能性が高いけど、それを芸風という名の状態化にまで持っていけているという事は、もちろん計算も働いているはずです。例えば、今回のWBCの炎上の件は、屋敷さんの逃げ方の上手さによって引き起こった事象でもあると思います。)


ニューヨークのフォーメーション

さて、ここまでで、ニューヨークのネタ、嶋佐さん、屋敷さん、と個々の面白さについて考えてきました。

コントにおける「偏見」 漫才 における「悪意」
嶋佐さんが保持している「悪意」屋敷さんが纏っている「偏見」

こうして見てみると、ひとまとまりだった「悪意と偏見」は、それぞれで別々の領域に分かれている、そういう感触だという事が確認できてきました。

悪意を「ボケ」として、偏見で「ツッコミ」を入れているようなコンビバランス。

こういったフォーメーションの組み合わせって、他にいますでしょうか?

パッと思い付くのは、やはりロンドンブーツ1号2号という人も多いのではないでしょうか。淳さんの直接的な「悪意」と、亮さんの「偏見」とは違いますが土台の天然性、そのバランスとパブリックイメージは近いような感じがします。

ですが、それはポジショニング的な近さの、似ている率が高い というだけな気もします。

先ほどの例で上げると、設楽さんと山里さんの組み合わせ

ゴッドタンでの魁設楽塾のフォーメーションとかは、ニューヨークのコントのようなバランス感がありました。
設楽さんの露骨なドSキャラでの「悪意」、山里さんのフリップ芸で炸裂していた「偏見」ツッコミ、それぞれのキャラクターは違いますが、嶋佐さんと屋敷さんの特色と近い感触がありました。

また、ウケている層がおそらく全然違うのですが、役割分担的なポイントで見ると、

春とヒコーキとかも、意外と近い気がします。
バキバキ童貞として認知度が高いぐんぴぃさんは「偏見」に晒されながらも、その位置からしか出来ないツッコミを放っているし、相方の土岡さんも元ニートという出自を活かしたサイコパスなボケ方で、自虐込みの他虐を「悪意」とともにバラ撒いていきます。

ご本人達が言及していた上で、実はフォーメーションが似ているのは、ランジャタイだとも思います。これはボケツッコミの役割が逆転しているのですが、フリートークでのバランス等で見ると、嶋佐さんが伊藤さんで、屋敷さんが国崎さんの立ち位置にいるのがわかります。伊藤さんはツッコミという名の傍観によって、相方の異常性をある種際立たせている「悪意」があるとも捉えられるし、国崎さんはボケの範疇を越えたキテレツな言動行動で、「偏見」の視線のど真ん中に飛び込む自殺行為自体が一周回って誰よりもそういう対象を笑っている事を露呈させるやり方を好んでます。ニューヨークが何千回と遺伝子組み換えされたらランジャタイになると思います。

あと、これは本当に群を抜いて感覚的過ぎるので伝わらなくても構わないのですが、菊池成孔さんがUAさんのラジオにゲスト出演されていた時の対談が、ニューヨークのバランスっぽいなと感じた事があります。本当に、なんとなくなので、だからなんだという話ですが…

色々書きましたが、そろそろまとめてみようと思います。

ここまでに、似ていると漠然と感じているコンビを並べて「悪意と偏見」を照らし合わせてみましたが、しっくり来るような来ないような…むしろニューヨークとの分離感が目立った気もします。

なぜでしょうか?

なんか、根本的な事なのですが、ニューヨークの形容って「悪意と偏見」で正しいのかなぁ…?と感じてきました。
いや、おそらく、この観点も、一周回った「純粋と無垢」さが、結果として「悪意と偏見」だと捉えられている、的な言説として今までも多く語られてきたのだと感じます。ピュアゆえに…みたいな。

ただ、それだけでは説明があんまり付いていないような気がします。
やはりこの話は、お笑いの本質的な「差別」という概念に関わっているのだと思います。


「悪意と偏見」とニューヨーク

結論から言うと、
我々は「悪意と偏見」そのものを、「差別」しているのだと思います。

嘲笑、侮蔑、暴力、揶揄、そういったものも、もちろん差別なのですが、
好意、愛情、救済、応援、それらも、等しく差別なのです。

自己を中心として、その基準値で対象の価値や属性を区切ってゆく、人間の情報処理能力それ自体が万物に対して「差別」を常に行い続けています。

「いじり」とは対象との距離の測り方であり、
「ツッコミ」とは自己の天然性の棚上げであるとするならば、

「いじりとツッコミ」を差別している視点が、
「悪意と偏見」であると、捉えられるのではないでしょうか。

ニューヨークという芸人は基本的に、ずっとこの「いじりとツッコミ」の芸をしていると思うのです。パンツマンの時も、M-1での「最悪や」の時も、嶋佐さんが服のダサさにキレて、屋敷さんがそれを笑っていたという解散危機エピソードの時も、かなり雑に大きく括れば、やっていることは全部一緒だと思います。「いじりとツッコミ」。それをどの立場の人に向けるのかの違い、自己と他者をどう捉えるかの違い、だと感じています。

そして、その矛先は、
皆が等しく持つ「自意識」を経由し、共有したのちに個々の「自意識」へと戻って、それぞれの内心へと突き刺さってゆきます。常に循環するように「いじりとツッコミ」が、社会生活という名の差別連鎖の永久機関の中で、今この瞬間も目まぐるしく飛び交っているのです。

ニューヨークの「悪意と偏見」は、他ならぬ自分自身の「自意識」を差別してゆく事で、お笑いとして形を成しているのだと思います。

まず、自分自身を心の中で「いじってツッコんでいる」からこそ、提示できる視座と振る舞いがあるのだと感じています。

もちろん「差別」「悪意」「偏見」それらは人を傷付ける事のあるものです。
ただ、常に身近に、そこかしこに存在しているものでもあると思います。

自意識の内側で膨らんだ差別心が、自らを傷つけてしまう事もあるでしょうし、だからこそ人の痛みを理解する事もあるのでしょうし、個々の自意識の総体が我々の社会意識そのものであるわけなので、ニューヨークのネタを見て笑っている幾重の目線が、互いを「いじってるしいじられてるし、ツッコんでるしツッコまれている」のだと、街の喧騒を聞き眺めながら、ぼんやり思いました。

これが、とりあえずの結論です。

「悪意と偏見」とは、「いじりとツッコミ」への差別心

ニューヨークへの、批判も、擁護も、アンチも、ファンも、それらは等しく我々の抱える自意識が創り出した共同幻想

都市伝説的な、荒唐無稽で、曖昧模糊な、有象無象の人々の自意識が、絡み合ったり解けたりしながら、今日も誰かに何かを思い、その他者のイメージ共有との相対で、自己の評価、立ち位置、振る舞い、自我を延々と形成してゆく…

カッコつけたり、仲良しぶったり、オシャレぶったり、有能ぶったり、それらを俯瞰して鼻で笑ったり、そのポジションでいる事のダサさ、みっともなさ、惨めさ、恥ずかしさに気付いていないフリをしたり、心の奥の底の方に沈殿していった下水道のような場所でそれらの澱みは、時に他者へをも牙をむけてしまう事もあるのかもしれませんが、それは他ならぬ自分自身への嫌悪感でもあり、そんな気の遠くなるような自意識の経済的、政治的、格差的、な運動の終わらない渦の中心で、嶋佐さんと屋敷さんは、悪意と偏見で汚らしくも美しく、今見ている世界を少しだけ肯定してくれているのかもしれません。

…少々、ポエティックな仕上がりに、書き手の自意識の暴走が隠しきれていませんが、

最後に


1930年代〜1990年代まで活躍したアメリカのエンターティナー、生粋のニューヨーカーでもある フランク・シナトラの名言を置いて終わりにしたいと思います。


「人生で大切なのは、 ビビらないことさ」


この言葉を胸に、ニューヨークの2人をこれからも見ていたいなと思います。



「ダセェ」とも、思いながら



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?