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本を書くということについて改めて考えた

最近、立て続けに書籍の企画が来るようになったのは、たぶんゲンロンカフェでの一件が原因なんだろうなあ。

技術書以外の本の企画が持ち込まれるのは、たいてい、ゲンロンカフェかゴールデン街がきっかけだ。

しかし、今、敢えて本を書く意味というのは一体全体なんだろうか。
たとえば本というのは、一冊あたり8万字から12万字が必要である。

Webの専門媒体の原稿に換算すると、約30本ぶんの文字数ということになる。

原稿料は媒体によってまちまちだが、たとえば一本あたり3万円とすると、9万字の原稿で90万円の収入ということになる。

これが、書籍で考えると、9万字の原稿を書いて、定価1000円で売るとすると、印税率10%で、一冊あたり100円の売り上げだから、90万円の保証部数で印税にするとなると、9000部が必要になる。

落合陽一くんや尾原和啓さんのような売れっ子なら何十万部と売れるのが当然かもしれないが、僕の本などせいぜい数万部売れたらかなり売れた方だ。

noteだと、印税率というか、note社の手数料と決済手数料を引いたぶん、定価のだいたい80%くらいが収入になるから、仮に1000円のノートであれば、たかだか1125人が買ってくれればいい。単価が高ければもっと少ない部数でもいい。

そう考えると、改めて、なぜ書籍を書かなければならないのか、敢えて書籍を出版社を通じて書くとはどういうことか考えなくてはならない。

出版社を通さずAmazonで売る方法ももちろんある。
こっちもそれなりに有利な方法だが、印税率で考えるとnoteに比べればかなり効率が悪い。

もっと言えば、ドリキンのBackspace.fmのように稼げることがわかっているメディアなら、noteを通さず直でStripeで課金すればいいのである。そうすれば手数料は5%くらい。印税換算すれば、実に95%ということになる。

ますます書籍にする意味を問われる。
「紙の本じゃないとどうしても」という人もいるのは理解できるが、僕の書くような本の内容を「紙じゃないとどうしても」という人がいるとしたら、それはもう、対象読者とはかけ離れている。

秋葉原のヨドバシカメラの有隣堂も縮小してしまったし、僕の好きな書店がどんどん潰れている現状は確かに悲しむべきことだ。

昔は本を書く主な動機は「お金を稼ぐ」ことだった。
それはそれで全く何も間違っては居ない。

お金を稼ぐことの次の目的は、「自分の考えをまとめてどこかに残しておく」とか、「図書館に寄付する」とかだった。

ちなみに著者や編集者のなかには、「図書館に寄贈する」という行為をものすごく敵意を持って考えている人もいる。「そのぶん売り上げが減るじゃないか」というのだが、そもそも図書館で読んでそれで良い、という程度の本なら作らない方がマシだと個人的には考えている。

僕は子供の頃図書館の隣にある小中学校で育ったから、なおのこと図書館とそれが構築するコミュニティに対して恩義を感じているし、図書館がなかったら、僕は今のような仕事(つまりUberEats配達員と売文屋)をできていなかっただろうから、図書館に感謝するし図書館に貢献したいと考えている。

図書館を悪と見做す出版関係の人々は、本が本当に好きなわけではないのではないかと思うことがある。彼らが好きなのは本が生み出すお金であって本に書かれている内容ではないんじゃないかな。

まあしかし、今や「本がお金を生み出す」とは言い切れなくなってきた。
もちろんお金を生み出す本は存在する。
しかし、本以外の仕組みが充実しすぎている。

たとえば、「五反田三郎」をどうしようか考えた時に、最初はKindle Direct Publishingで売ることを考えたのだが、「五反田三郎」を書く時に間違って正方形で書いてしまったために本の判型がかなり特殊になってしまう。

でも「まとまった形で読みたい」という人もいる(読みたくもない、という人もいるだろうがそれはnot for youであってどうせ買わない人なので関係ない)ので、どういう提供形態がありうるか考えると、epub形式にしてnoteで売るという方法もある。印刷物が欲しい人には、印刷して送ってあげればいい。同人誌として出すわけである。

epub形式ならAppleのibookとかたぶんKindleでも読めるから、事実上の電子書籍として扱える。

Kindleで敢えて出さない理由があるとすれば、印税率の低さと、参加したくもないランキングに参加させられることと、読者のコメントがつくことだ。

普通に考えればわかると思うのだが、書店で売られている本という本に全て読者のコメントがついていたら、買う人はどう思うだろうか。読む前に内容がわかってしまって興醒めするかもしれない。実際、「キングダム」くらいの作品になると、コメントとか邪魔でしかない。個人の感想が書かれているだけで楽しい気持ちになるわけがない。読みたいのはキングダムであって知らない読者の生の声ではないのである。

ごくたまにコメントが役立つことがあるのは、「いちばんやさしいWeb3の教科書」みたいな、明らかに「これはヤバい」という本だけで、でもそれにしたって、Kindleで売られている時には特段問題視されず、プロモーションで一般媒体に一部無料で公開したら炎上したわけだ。

宇宙人だか妖怪だかが南極の秘密基地でUFOを製造してるみたいな、嘘か本当かわからない都市伝説が書いてある本と、Web3の教科書の内容はそんなに違わない。そもそも都市伝説とWeb3がそんなにかわらないのかもしれない。

そう考えると、益々本を出すメリットがない。
唯一、もしかしてなんかの意味があるかもしれないと思えるものがあるとしたら、自分の読者を広げるという一点だけだろう。

要はエンゲージメントの獲得だ。
しかしそうなると、それはそもそも僕が書きたいと思っている内容なのか、という別の問題が出てくる。

僕は文章を書くのは比較的早い方だと思っているが、それは書きたい内容である場合に限られる。書きたくない内容の文章を書くのは遅いというよりもほとんど進行しないという意味では不可能と言っても良い。

最近、昔のnoteに値段をつけて売り始めた主な理由は、そういう「今までの書籍や原稿料といったものに対するちょっとした疑問」がある。

たとえば、3000字の原稿で300円の値付けがされていたら、それを高いと思うかもしれないが、たとえ30万字の文字が載っていても週刊誌の文字を隅から隅まで読む人はかなり珍しいはずだ。

逆に3000字の原稿は、複雑な背景を持つ主張がわずか3000字にまとめられているわけで、300円で週刊誌を買って隅々まで読むよりもはるかに有用と考える人だけが払ってくれればいい。

そうすると、そもそも「書籍」というやつの、「つか」を稼ぐために最低でも200ページ、8万字は必要というフォーマットが、そもそもどうなんだという話になるのである。

8万字読むのは結構大変だし、8万字読ませる文章を書くのはもっとずっと大変である。世の中にある本のいったい何割が、最後のページまで一言一句漏らすことなく読まれているのか。

小説みたいに、基本的に全編読者を楽しませようともっぱら注力しているはずの文章でさえ、読んでいる途中で飽きることが少なくない。

なぜ日本がまんが立国になったのか。
それは、絵は文章だけよりもはるかに「飽きが来ない」からだろう。
そして絵が多ければ多いほど、「束」は稼げるのだ。

「束」は物理的な重さにつながり、物理的に重いものは単価を上げやすい。
日本にペラペラのペーパーバックがないのは、嵩張る割に単価を上げにくいからだろう。

それに物語を考えて文章にするのは基本的に一人の人間がやらなければならないが、漫画の場合、分業できる。物語しか考えない人や、絵しか書かない人、背景しか書かない人、ベタしか塗らない人などに分業すると、ひとりの人間が一冊の小説を書き上げるよりも場合によっては早く、効率的に、「束」を稼ぐことができる。「束」が稼げるということは、巻数を増やしやすいということでもある。

ちょっとした漫画ならすぐに5巻、10巻と続いていく。
小説で10巻構成にするのは司馬遼太郎でも難しい。

だいたい一冊の小説に描かれる物語のボリュームは、5巻から10巻の漫画で描かれる物語に匹敵するだろう。それなのに価格は漫画の一巻とほとんど同じなのだ。それも「束」に原因があると、個人的には考えている。

だから、ある意味で書籍というのはものすごく、安売りされているのである。僕の本で1000円を切る本というのは滅多にないのだが、そういう場合は初版部数を最初から数万部に設定することでなんとか体裁を保っている。

でもそういうバランスの時代じゃなくなっているという気も、するんだよな。

少なくとも一社は、「noteで有料記事として公開したものをあらためて加筆修正・編集の上で書籍化する」ことに同意してくれたし、そういう書き方がむしろ今風なのではないだろうか。最近は保証部数ゼロの出版社も増えてきている。ますます「本を書くことの意味」が問われる時代になってきているのではないだろうか。

この時代に、「敢えて、本を書く」のはどんなときか
誰を対象にして、どんなことを書くべきなのか。

・・・とここまで書いてから、東浩紀さんのことを思い出した。
彼はこの時代に敢えて、「本を書く」人である。むしろ書き続けている人である。

また、本も書きながら同時にシラスやYouTubeのような媒体で有料の講演をやっている。こないだ気がついたのだが、シラスの視聴料は安すぎる。あの内容なら5000円は取るべきだった。なぜ値段を上げるべきなのかと言えば、値段を上げることで「知る人を制限する」ことによって知識の希少価値が高まるからだ。

こういうことを言うと、まるで「図書館に育てられたから感謝の気持ちとして本を寄贈する」ことの真逆の態度と捉えられるかもしれないが、僕の中では矛盾してない。

知識というのは「広く多くの人が知った方が全体の価値が上がるもの」と、「ごく限られた人だけが知る方が価値が高まるもの」の二種類があるからだ。

たとえば、以前本欄に書いた、「偽のAIエンジニアを見分ける方法」という「知識」は、広く知らしめると偽エンジニアに攻略されてしまうため意味がなくなってしまう。泥棒にセキュリティシステムの詳細を教えるようなものだ。だから高単価でも買う人がいるし、敢えて買わない人にとっても安心できる材料となる。

8000字の記事だが、内容は金額なりの意味がある。
これが8万字もあったら、誰も読めないだろう。まさに「小さくまとめられていることに価値がある」のである。

さて、どうするかなあ