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銭湯回顧録 -Back to 90's-

東京の銭湯が始まったのは江戸時代まで遡る。江戸っ子といえば熱湯が好き、というのは自分にはあてはまらないけど、子供の頃から続けている習慣の一つに銭湯通いがある。最近はめっきりサウナの話ばかりしてしまうけれど、結局それも銭湯通いの延長線上の話だ。

サウナ中には日々色々なことを考える。忙しいときは、デザインのアイデアを整理したり、サイトの構成、クライアントのアイデンティティ、提案のシュミレーション、コンセプトやキャッチコピーなどを頭の中で整理し、帰ってから資料にまとめるということをやることもある。モニターの前で粘るより、短時間でまとめられる気がする。

この頭の中にある文章や妄想を、そのままタイピングしてくれる機械があったら、自分は既に10冊以上本を出しているインディーコラムニストor 小説家にでもなっているのではないかと思ってしまうくらい、色々なアウトプットが頭の中で生まれ、帰る頃には忘れている。その中の一つ、初めて銭湯に行った時のことを書いてみることにした。


1990年台の初め(幼稚園〜小学校低学年の頃)、まだ千葉の松戸のとある団地に住んでいた頃、月に一度ほど、東京の爺ちゃんの家に泊まりに行っていた。
土曜日午前中に学校がおわり、バスと常磐線を乗り継いで夕方に浅草に着く。妻に先立たれた爺ちゃんはいつも2階の居間で湯豆腐と瓶ビールと枝豆を食べながらTVを見ていて、一緒に買ってきた夕飯を食べ終わると、タオルを持って合羽橋本通りの西浅草側、今では駐車場になっているところにある銭湯に向かう。

“寿湯”と言う名の宮造り銭湯。
曖昧だけど暖簾をくぐると下駄箱があり、左側が男湯、右側が女湯に分かれていると記憶している。
引き戸を開けると男湯と女湯を分ける壁の真ん中にある、番台のおじさんに料金を払う。確かその頃は350円くらいだったかな。おじさんは目の前のTVをずっと見ているけど、番台の横には何も遮るものがないので、おじさんの位置からは女湯の脱衣所も見れるという、今では考えられない作りだ。

水色のロッカーに服を入れて、鍵を手首にかける。脱衣所の奥に浴室への入口があり、浴室につながっていない左側に縁側があり、そこには大きな鯉が泳いでいた。
水色の壁、天井の高い浴室の中に入ると、黄色い桶と椅子を取り、赤い丸いレバーのついた固定式のシャワーの前で並んで体を洗う。
土地柄スキンヘッドのおじさんが多く、頭から足の指の先まで全て石鹸で洗っている。背中に描かれた龍や風神など仰々しい絵が描いている人もちらほらいた。千葉ではそんなものを見ることもなく、刺青というものを知ったのもこの頃だ。怖くてずっと見ないようにしていたし、それがなんなのか、どういう人がそれをしているのかも、父親にも聞けなかった。

寿湯はとてもシンプルな銭湯で、深い熱いお湯と、普通の温度のお湯、水風呂の3つがあった。熱湯は深くて入れなかったし、水風呂なんて何で入るんだろうって思いながら、交互浴をしているおじさん達をみていた。
風呂から出るとシャビかメロンの形をしたアイスか、真ん中で折れるラムネ味のアイスのどれかを買ってもらい、それを食べながら帰る。
アイスを食べながら"タモリは音楽が世界だ"を見て、畳の部屋にひかれた布団に入り寝る。そんな週末を過ごしていた。松戸の団地のガス式の風呂に入っていた毎日よりも、少し刺激的な体験だ。

寿湯がいつなくなったのは覚えていない。今検索しても出てこないし、10歳の時に東京に引っ越してきたときには、多分まだあったと思うけれど、高校生になる頃にはなくなっていたような気がする。(気になって図書館で古い地図を調べてみたら、2000年の地図には存在していたが、翌年なくなっていた。)

爺ちゃんが他界し、父親が実家を建て直し東京に引っ越してきたのは94年の夏、小学校5年生の時だ。小学校の高学年になると多少遅い時間でも出かけるようになり、友達とよく行っていたのは今でも稲荷町にある寿湯だ。
こちらも同じ寿湯という名前で紛らわしい。毎週木曜日に公園で野球の練習があって、それが終わってご飯を食べると銭湯に集合、みんなで素っ裸で風呂に入ってで風呂上がりには牛乳の一気飲み大会をしていた。
寿湯は今ではサウナがとても有名で、露天風呂もあるけど昔は露天風呂もなく、シンプルな宮造り銭湯だった。
ポカポカと暖まった体で浴びる夜風が気持ちよかったのはなんとなく覚えている。

そして、もう一つよく行っていたのは浅草にあった名湯、蛇骨湯だった。
田原町にあった蛇骨長屋に由来するといわれる仰々しい名前が、すごく通っぽくてカッコよかった。こういう江戸文化が残っているところが東東京の面白いところでもある。
野球少年だった僕はよく肩を痛めていたので、接骨院の電気を当てるように、蛇骨湯の電気風呂に入って自分の体をケアしていた。浅草のど真ん中、家から歩いてすぐのところに天然温泉があると言う事は何よりも喜びだった。
黒湯と言う概念を知る以前から、蛇骨湯の黒いお湯に入るととても肌がツルツルできれいになるのを感じていたし、番台のおばさんもすごく優しかった。以後、高校生や大学生、社会人になっても蛇骨湯には気が向くと通うようになり、水を入れるなと怒られ、その筋の人にもたくさん遭遇した。

蛇骨湯は広くないけど露天スペースがあり、鯉がいる小さな池と水風呂とぬる湯があった。簡易的な外気浴ができたので、丸太に座りながらそこでぼーっと池の鯉を見ながら体を冷まし、あー明日も頑張るかーっとなんとなく前向きな気持ちを抱えて風呂から上がる。なんかしんどい、良いことがあった、肩こりやばい、親と喧嘩した、親父が亡くなって寂しい、彼女と別れた、面接落ちた、やりたい仕事ができない、クライアントから怒られた、蛇骨湯の湯はいつもそこにあり色んな感情を流してくれた。

東京銭湯のレポートの写真がとてもわかりやすい。

子供の頃からある場所が変わらずにそこにあるということが、この歳になると珍しくなる。変わらずにそこにある場所を維持するということが、地価の高い東京という街では何よりも難しいことを思い知らされる。それはコロナで一層みんなが感じたことだ。

江戸時代から続いてきたそんな蛇骨湯も3年前、2019年に周辺の再開発の波に飲まれなくなってしまった。
最終日にはもちろん行き、完全芋洗い状態、ほんとに密集した浴室で最後の入浴を楽しんだ。知らないおじさんと別れを惜しむように写真を取り合い、大好きなライブハウスがなくなってしまうようなそんな1日だった。

蛇骨湯最後の日

銭湯が好きなのは街の声がなんとなくそこに凝縮されているような気がするからだ。
訪れる人はどちらかと言えば年齢の高い人が多く、子供もたくさんいる。目黒や世田谷の銭湯には洒落た叔父さんがいるし、下町の銭湯にはずーっと独り言を言ってるような人もいるし、街によって客層が違うのも面白い。子供も学生も社会人も全身総和柄の人もの風呂の中では平等である。肩書きや役割を脱ぎ捨てて一個人として同じ湯船に入り、社会を学んでいる。そんなところは他にない。
そして過剰な情報の海を毎日受け続けるストレスフルな現代社会において、家の風呂では味わえない莫大な水量が何かを流してくれるような気がする。ストレスなのか疲れなのか、それとも心のモヤモヤなのか。体を温めると言うシンプルな行為がそういう気分にさせてくれる。少し前向きな気持ちと共に牛乳を飲み干し、夜風に当たりながら家に帰る。

ルーティンが続く生活の中で、時々誰も知らない街に行ってみたくなることがある。ふと知らない街に行っても、銭湯に行けばその街の住人に少しだけなった気がして、温まった帰り道の足取りはとても軽い。あまり縁がなかった品川や蒲田、中野あたりの銭湯にも最近足を伸ばしてみて、改めてそう思った。
今日はこの辺で。

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