草取り。(その4)

作業の前には必ず儀式が行われる。虫除けスプレーを身体中に吹きかけるのである。しかし、であれば、この重装備は一体なんなのだろう。こんなにもシューシューシューシュー虫除けスプレーを吹きかけるのであれば、こんな重装備は必要ないのではないか? そう考えた私は、率直に母に尋ねたのであった。が、この時の私は、それが回り回ってあんな事態にまで発展するとは、夢にも思っていなかったのである。

「母上、ひとつ聞きたいことがあるんだけど。」

「なぁに?」

「私たち、今大量に虫除けスプレーを吹きかけたよねぇ。」

「そうね。」

「じゃさ、この重装備、要らないんじゃない? やっぱり暑いし。」

私はここで核心に触れたのだが、母からの返答はといえば、

「なら、涼しい格好で、虫除けスプレーだけに頼って作業してもいいけど、やっぱり身体中蚊にくわれると思うよ。」

という、厳しいものだった。と同時に意外でもあったので、私は更に、

「えぇ?!! じゃぁ虫除けスプレーなんて意味ないんじゃ……?」

という疑問を口にすると、母は、

「まぁ、そうだね。この濃度だと、意味がないとも言えるかもしれない。所詮は、おまじない程度の効果しかないと思っておいたほうがいいんじゃないかな。」

こうして、さも『それが常識でしょう』と言わんばかりに、あっけらかんと答えてみせた。私はといえば、更に心細くなって、

「おまじない程度って……、そんな心許ない………。」

と、弱音ばかりを連発したものだから、遂に母はキレた……のだろうか? 母は、遠くを見ながら、滔々と語り始めたのである。

「ただし、確率を下げることはできる。この類の薬剤は、血を吸う虫に対して『そこに人間の肌などない』かのような錯覚をもたらすことによって、虫を忌避している。よって、薬剤の濃度に関係なく、正しく、塗り残しの無いように塗布、散布されていれば、刺される確率は下がると言える。だが、あくまで、確率が下がるだけだ。私たちは、密林をゆく兵士と同じような、蚊や、全く知りもしないような虫すらも存在する可能性がある環境に、今まさに歩を進めようとしている。しかし、私たちは兵士ではない。また、この辺りではマラリアやデング熱もないと言って差し支えない。従って、彼らと同じように、濃度の高いディートを身体中に、陰部にさえ例外なく塗りたくることなど、ディートに関して指摘されている健康上の問題も含め、全く非効率的だ。であるならば、まず服装での防護を最重要視するのが、第一の必須条件であり、鉄則と言える。その上で、然るべき濃度の薬剤を用いるほうが、効率が良く、加えて、総合的な効果も高いのである。ディートを塗りたくった兵士の中でさえ、蚊に刺される者が出た。おそらく、無意識のうちに手や衣服で拭い取ってしまったか、汗で流されてしまった部位を刺されたのであろう。無論、マラリアやデング熱にかかる者も出た。軍医は寝ずに働き、事実として、大半は回復したというが、看護体制も、薬剤の数も十分でない中で、満足な治療が受けられず、重症化して死にゆく者も出た。それもまた事実だ。一方、ここ日本で蚊に刺されたとしても、せいぜいとても痒いだけで、死ぬことはほぼないと言っていい。それは、とても幸福なことだとは思わんかね? もちろん、ごく一部の例外が、無いと言えば、それは嘘になるが…………。」

ここまで語ると、母はゆっくりと瞼を閉じ、なにかを考え始めたようだった。私は、なんだか見てはいけないものを見、聞いてはいけないものを聞いたような気持ちになり、その場に立ち尽くしてしまって、おそらく、顔は青ざめ、引きつっていたに違いない。それでも、なんとかして勇気を振り絞り、母に対して、

「母上、なんていうか……、大丈夫……?」

という、精一杯ではありながらも弱々しく、ほとんど内容の無い言葉を投げ掛けると、母は、我に返ったのだろうか、それとも、ずっと正気だったのか、それは分からないが、心なしか、少し寂しさや悲しさの混ざったような笑顔を浮かべながら、

「大丈夫、大丈夫。」

とだけ答え、私の肩を2、3度、軽くポンポンと叩き、そうしたかと思えば、おもむろに家の中へと戻って行き、仏壇の前まで行くと、線香を供え、お鈴を鳴らして、手を合わせた。私は、やはり過去になにかあったのだ。そうに違いないと確信したが、決して詮索はするまいと、心に誓ったのであった。


───


「それよりアンタ、折角スプレー使ってるんだし、今回もアレ、やっておかない?」

「アレって……、アレ……?」

「そうそう、アレアレ。」

「えー……? またやるの……?」

「嫌?」

「まあ……、嫌ではないけど………。」

「けど、なによ?」

「なんていうかさ、アレ、やる意味あるの?」

「アンタねぇ、何事も意味を考え始めたらドツボよ。」

「んー……、じゃぁ……、よし、わかった。やりますか!」

「わかればよろしい。それじゃ、いくよー! せーの!」

「オカアちゃんにシュッ!」

「アンタちゃんにシュッ!」

「シュッ、シュッ、シュッ!」
「シュッ、シュッ、シュッ!」

「一応やったけどさ、やっぱこれ、意味わかんないんだけど………。」

「えー?! アンタ、ギャツビーのCM知らないの?!」

「知らないよ。最近テレビ見ないし。」

「いやいや、最近のじゃなくてさ、昔の、吉田栄作と森脇健児が出てたやつ。」

「それって、いつの時代の話?」

「1990年代の半ばかな。」

「私、今年17才だから、その時まだ生まれてないんだけど。」

「まー、私も今年17才だから、その時まだ生まれてないんだけどね。」

「って『おいおい!』」
「って『おいおい!』」

「ハモったね?!」

「ハモったね!!」

このあと、今は状況が状況なのでハイタッチは避け、めちゃくちゃ肘タッチした。

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