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名画モノマネ




「マラーの死」


 耳慣れない言葉が、タイルの壁に反響する。「マラー?なにそれ」
 エリは額の水滴を掻きはらい、バスタブのふちに腕を置いた。
「や、知ってるはず。頭にタオル巻いた男がさ、風呂入ったまんま死んでる絵。書きかけの手紙を持ってこんな風に」

 エリは身体を大きく傾け、眉間にしわを寄せて瞼を閉じる。つけっぱなしのネックレスが、鎖骨の上でじゃりっと音を立てた。ドンキホーテで同じものを見た気がする。
「うまいな、名画モノマネ」
「つぎアンタの番」
 真っ赤なペディキュアの足指がふくらはぎをひっかいてきた。急に言うもんだから困る。湯気にかすんだ天井を眺めていると、じゅー、きゅー、はぁーち…と理不尽なカウントダウンが始まった。エリの赤い親指が、太ももをなぞりながら脚の付け根に向かってにじり寄ってくる。こいつ、こういう駆け引きは得意なくせに、彼氏と縁を切るのが絶望的にヘタだ。初対面の女を下の名前で呼んで、笑うと目の下にナメクジみたいなしわが寄って、語尾の上がり方がキモくて、男同士の集まりでは異様に猫背で、でも爪の形はいつも整えられている、そんな彼氏と。
 ドボン!
 しぶきが派手に上がった。エリは目を丸くして、湯船に沈んだこぶしとわたしの顔を交互に見る。衝動的な行動にどう説明を付けたらいいかわからなかった。

「『神奈川沖浪裏』?」

 エリは、古典の授業であてられたときと全く同じ声色で言った。

「・・・・・・・・・・・・・正解」


 天井から間抜けな水滴がひとつ落ちる。私たちはでっかく口を開けて笑った。狭い浴室だから、耳の奥がじんじんと痛んだ。