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生きるってなに?幸せってなに?なんて「ありきたりなこと」は言いたくないけれど
大自然に囲まれたところで生活したい、自分の畑を持っていろんなものを育ててみたい、オーガニック・旬なものを堪能し、自然と調和が取れた生活がしたい、人は少ないけれどみんな親しく挨拶を交わし、手伝い合ったり、お互いの食べ物を分かち合ったりする生活を送ってみたい…
すごく都会で育ってきたわけではないけれど、そんな生活がしたいとずっと思ってきた。これが自分が幸せになる道で、魂が喜ぶことだと。
そして、もう一人の自分もいた。自然が好きだからこそ、環境問題に興味を持ち、次第にはそれが途上国の人権問題と繋がっていることも知り、政治、歴史、資源の争い…を知った。 なぜ? なぜ犠牲の上にしか幸せは成り立たないの? なぜ一部の人が権力と財力を握り、それでも満足できずに沢山の人を被害に巻き込むの? そんな人間の醜さを受け入れられず、それに対抗する道を選んだ。ボランティアとして弱者を救い、様々な社会問題に声をあげ、エシカルな生活を目指した。
しかしこの道もまた、犠牲が生じていないか?分裂が生じていないか?
「善人はこの世で多くの害をなす。彼らのなす最大の害は、人びとを善人と悪人を分けてしまうことだ。」 ーオスカー・ワイルド
何が正解なのかわからない。何が本当の善で、何が本当の幸せで、何が生きることなのか…
考えすぎなのかもしれない。欲張りなのかもしれない。この世の中は全て両面性で、何かを選べば何かを捨てなければならない。正解なんてものはなく、すべてはトライ&エラーで、よりbetterな生き方を探すしかない。すべてが変わりゆく中で、The bestな生き方なんてない。だから、対立がなくなることもなければ、本当の平和も、平等も、すべて映画の世界。そして私は、自分の幸せに従って「生きてるフリ」をするか、社会の構造に従って誰かの為に「生きてるフリ」をするか。どっちかしかないと思った。
そんな時、ある人に「本当はどっちも存在しないんだよ」、「すべては脳の観点の結果物だよ」っと言われた。 いや、そんなの分かってる。物事は捉え方次第で意味は変わるし、自分が選んだものを正解だと思い込めってことでしょ!って思った。
でも、違った。その人は、「すべて」といった。すべてが繋がったワンネスを越えて、それすら存在しないと言った。自分と自分の宇宙がないと。そして、その「ない(=心/無想)」を共有できることが平和への唯一の道だと。
人間からみる世界、犬や猫からみる世界、虫からる世界などすべては違うのに、人間は人間がみた世界を絶対だと思い、その中でも分離断絶、対立、争いが絶えない。脳で生き、目でこの世界を見る限り、観点の争いは続く。その観点が作り出される仕組みを知った時、今まで自分が悩んできたことがほーんの小さな点にすらみえた。あーーー苦しかった。
そして私は、この哲学と科学技術、物理学さえも融合させた、新しい技術「nTech(認識技術)」を身に着けることが、本当の生きることであり、人類が幸せに向かう道だと確信した。
「生」でもなく、「反」でもなく、「合」で生きることが。
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