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3人姉弟の真ん中に生まれて、良かった?

私には、3つ上の姉と、4つ下の弟がいます。

今でこそ2人は私にとっての宝物。両親に、3人の子育てを頑張ってくれてありがとう、と心から言えます。

しかし、子どもの頃は全くそのようには思えず。むしろ苦しいことの方が多かったように思います。

「どうして真ん中に生まれてしまったんだろう」
「私1人くらい、いなくなったってきっと誰も悲しまないだろうな」

口には出さずとも、そんなことを考えている子どもでした。2人に挟まれているのに、心の中は孤独で、いつも何か満たされないものを抱えていました。


子どもが生まれてから、既に何人かの人に、「あと何人欲しいの?」などと質問されました。

その度に、モヤっとしたものを感じます。なんだろう、私自身は別に、兄弟は多ければ多いほど良い、とは考えていないのだと思います。

今日は子育てに対する自分のスタンスを見つめ直すべく、幼少期を振り返ってみたいと思います。



孤立しがちだった幼少期

無条件に可愛がられる末っ子と、私よりも周りがよく見えている姉。

2人に挟まれた私はいつも中途半端で、弟程には可愛くないし、だからと言って姉ほどには大人から頼りにされず、心許ない存在だと自分では思っていました。

そのうちに確立したのは、ひょうきんなキャラ。変なことをして明るいムードを作ってみたり、おどけてみせたり。心からそうしたかったわけではなく、ただ注目を浴びたかったのだと思います。本当に面白かったのかは謎ですが笑、周りの空気を和ませることができたときは嬉しかったなあ。


そして、私の人格形成にも影響を及ぼしたと思うのが、兄弟喧嘩をしたときのこと。

姉と2人だと口で負かされて勝てず、一方で、弟と2人で喧嘩していると、「弟が可哀想だから」と姉が弟を守りにきました。喧嘩の理由を聞いて仲裁してくれるわけでもなく、2対1の構図になることが日常茶飯事。姉と弟は見た目もどことなく似ていて、私だけなんか違うと思っていました。

つらくて母に助けを求めると、母はやさしく慰めてくれましたが、そのことで更に嫌味もいわれました。「大人にチクるのはよくないんだ」そんな風にも感じていた幼少期。

その頃から、「私はどうせ1人になる」「どうせ私のことなんか誰も理解してくれない」。敗北感、閉塞感、孤独、悲しみ。色んな感情があったけど、それらをうまく放出できず、部屋で1人、殻に閉じこもって耐えることで、つらい気持ちを乗り越えてきました。

家族のことは好きだったけど、自分の居場所ではない感じがずっとあって、大人になったら自立して早く家を出るんだ!そう思っていました。


どうして3人産んだの?の答えに母は…

学校は、楽しい瞬間もあるけど、年々課されることが増えていくので、何となくしんどいな、と思っていました。さらに女子は、小学校高学年くらいから、誰かを仲間外れにしたりいじめたり、グループ化するようになって、学校の中でもポジション取りが重要と感じるようになっていきました。

中学校が1番、何をするにも女子の目線を気にしながら生きていたように思います。家で既に孤独感を味わってきたので、学校でまで1人ぼっちにはなりたくなかった。ただ、「明日は我が身」と思いながら教室で過ごすのは、全く楽しくなかったです。


そんな頃、ふと母に聞いてみたことがあります。
「どうして3人産んだの?」

母は言いました。

「3人どころか、本当は4人欲しかったのよ。」

母は、子どもは数が多いほど楽しい家庭になる、と思っていたようです。もちろん、それはある意味間違っていないと思うし、一つの考え方だと尊重します。

しかし、当時の私は、生きるのはこんなにつらくて苦しいことばかりなのに、母は子どもたちを数でしかみていないの?産んだらもう満足なの?そう思ってしまいました。

そんなことを聞いてどうしたの?とか、あなたは3人姉弟の真ん中に生まれてどうだった?など、母がもっと興味を持って問うてくれていたら、もう少し納得感が得られる何かがあったかもしれないと、今になって思います。

ちなみに母からは、私が1人目を妊娠中のときも、「よかったね!これで2人目以降も心配ないわね」といわれました。まだ1人も産んでいないのに…どうしてそんなに数を欲しがるんだろう、とやはり感じてしまいました。


生きる希望を与えてくれた祖父の存在

将来の夢も特段なく、毎日ただ姉弟や友達や上下の人間関係に揉まれて生きるのもしんどい…。そんな私がなぜ今まで生きてこられたのかというと、祖父の存在が大きいと思っています。

戦時中を生き抜き、仕事で海外に行ったこともある祖父。世界は広いということを教えてくれました。

会えばいつも広島の原爆や戦争体験、あと1年終戦が遅れていたら出兵していただろう話をする祖父は、恐らく会話下手な方ではあり、姉も弟も「じいちゃんの話はつまらない」と感じていたようですが。

「そうか、戦争はそんなに悲惨なものなんだ」「今も世の中では紛争で苦しんでいる人がいるんだ」「じいちゃんが海外に行けたなら私にもできるかもしれない」

学ぶ意欲は高かった私は、じいちゃんが自分にはない視点を持っていることが新鮮。話すのが楽しくて、いつしかじいちゃんの話から将来の夢を考えるようになりました。

それから祖父は常に安定した精神で孫たちのことを受け入れてくれたということも大きいです。両親も大切に育ててくれたことはすごく感謝しているけれど、存在が近すぎて心のアップダウンはよく見えたし、たまたま虫の居所が悪かったから余計に怒られる、といったこともありました。一方で、祖父は、いつでも丸ごと受け入れてくれる安心感がありました。「祖父が私の未来を期待してくれるなら、もう少し頑張ってみようかな…」そんな気持ちにもなりました。


子どもはギフトである

大人になってから、姉弟と「子ども時代につらかったこと」について話す機会が増えました。3人ともそれぞれの視点で、比較されることに理不尽さを感じながら生きてきたこと、それでも同じ家で育ってきた3人のことは特別に思っていること。

そんな話をしながら、「私は家族という社会で揉まれて生きてきたけど、そうでなければまた別の社会で揉まれるだけ。みんなそうやって生きていくのか。」そう達観できたように思います。

そして見えてきた私の価値観。

子どもはギフトである。
子どもが生まれるのは奇跡。一人一人が特別な存在。この地球で授かった大切な生命であり、人類の宝なんだ。

書いてみると少し大袈裟かもしれないけど、1人目を授かるのに時間がかかったことも影響しているかもしれないです。目の前にいる一人一人を大切にしたい。「一人っ子だから」とか、そういう子どもの数に関する周囲の言葉よりも、今自分が愛情いっぱいに育てている事実の方に価値があると信じたい。

そして、こういうシンプルな魔法の言葉があれば、いつか我が子が自分に暴言を吐いたりしても、正気を保てる気がします笑。


それから、母である私が我が子と相性が合わない可能性も、人間だからあり得ること。たとえうまく行かなくても、我が子が「私にとっての祖父」みたいな存在を見つけてくれればそれで良いのかも、と思えました。そのためにできること、人との出逢いの機会などはできるだけ作ってあげられたらと思う。

誰か1人でも大切にしてくれる人がいると、生きてゆける。そして、それは必ずしも近親者とは限らない。

だからこそ、人の支援をしたいと思うようになったかもしれない


忘れられない祖父の涙

最近は、つい2週間ほど前に祖父とテレビ電話をしました。祖父は96歳。先月、もうあと2-3ヶ月の命かもしれないと、医者から告げられています。当初はそれを知ってショックを受けたそうですが、今は納得しているといいます。この歳まで生かしてもらえて感謝している。祖父の母は97歳を迎えてすぐに亡くなったので、自分も同じ運命なんだと思う、と。

祖父にひ孫を見せるのは、ビデオ越しで2回目でした。私にとっては他愛もない、夫と生後5ヶ月の我が子との3人の日常。しかし祖父は、それを見て感激した、と泣いていました。思いがけなかった、あまりにもきれいな涙に、私も目頭が熱くなりました。

次があるかわからない。これで最後かもしれない。
そんな思いもあったかもしれません。ただただ元気に暮らしている孫とひ孫の存在。それだけのことが嬉しかったみたいだよ、とあとで母から聞きました。

祖父は私の生きる希望となっていただけではなく、祖父にとっては私が生きる希望となっていたのかもしれない、そう思えた瞬間でした。


今まで、兄弟の真ん中で育った環境ゆえ、負けず嫌いの可愛くない性格になってしまった。自分と似た環境を子どもには与えたくない。と、特に学生の頃はずっと自分の至らなさを出自のせいにしていたけれど、祖父を見ていると、生まれてきたことに感謝することから全ては始まるのだ、と気付かされます。

幼少期の環境は確かに性格形成に影響するけれど、親が一生懸命に考えていたって、思いもしなかったことで傷ついたりするのが子どもなのかもしれない。そう思うと、親が望んで作った環境が、子どもにとっても望ましいものなのかどうかは、誰にもわからないんだな、と改めて思いました。


20年以上の歳月を経て、我が子が生まれてきてよかったと思ってくれたら、それでもう全て良しなのかもしれない。周囲の声に惑わされず、ただ生まれてきてくれた我が子のことを心から大切にする。それでいい、きっとそれこそが私にできる唯一のことなんだと思いました。



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