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アナスタシア伝説 ロマノフ王家の滅亡

今回は表題の通り、ロシア帝国の都市伝説のひとつアナスタシア伝説について紹介していく。ロシア皇女アナスタシアは処刑されたが、実はどこかで生きているという生存伝説が根強かった。偶然にもアナスタシアという名は「復活する者」を意味し......。そして、彼女本人を名乗る者がついに現れる。永遠の伝説の真相に迫る!

アナスタシアは、1918年7月17日にエカテリンブルクのイパチェフ館で臨時政府により裁判なしで処刑、家族及び従者と共に17歳の若さで銃殺された。その後、ニコライ2世一家の埋葬場所が分からず、それも相まって生存伝説が広く伝わった。また、偶然にもアナスタシアという名は「復活する者」を意味する。

ロマノフ王家ニコライ2世の第4皇女アナスタシア。1917年のロシア革命で臨時政府により一家と共に幽閉される。1918年にエカテリンブルクのイパチェフ館で家族と共に処刑されたが、彼女が生き延びているという噂が流れた。アナスタシア伝説として語り継がれ、その後、アナスタシアを名乗る人物が現れた。

ニコライ2世とアレクサンドラ皇妃。彼らの治世は最初から最悪なスタートを切った。戴冠式の数日後、祝賀会場での記念品配布が告知され、約50万人が訪れた。そこで将棋倒しの事故が起き、約1,400人が圧死。だが、夫妻は何事もなかったかのように祝賀行事に参加し、冷淡で国民に無関心と大反感を買った。

彼女の証言によると、イパチェフ館で臨時政府に銃撃されたものの、姉の背後にいたことから重症を負うも自分だけ死を免れたという。そして、一家の遺骸が地下室から運び出された際、ルーマニア人の兵士が自分を匿い、ロシアから脱出。その兵士と結婚して子どもも産んだが、その後、夫は戦死したそうだ。

ニコライ2世の一家。ニコライ2世、皇妃アレクサンドラ、第1皇女オリガ、第2皇女タチアナ、第3皇女マリア、第4皇女アナスタシア、第1皇子アレクセイ。アレクサンドラはドイツ生まれのイギリス育ちで、ヴィクトリア女王の孫娘だった。姉エリーザベトの結婚式の際にロシア皇太子のニコライ2世と出会った。

アナスタシアを名乗るその者は耳の形が似ている他、同じ足の奇形を持っていた。加えて、イパチェフ館で受けたと思われる銃創のような傷が身体にあった。また、ロマノフ王家のことに関して詳しく、質問にも流暢に受け答えした。だが、なぜかロシア語は話せず、ドイツ語で話すという不可解な点もあった。

ニコライ2世の子どもたち。当初アレクサンドラは祖母ヴィクトリア女王や、かつてのロシア女帝のように女性でも帝位を継承できると思っていた。だから皇女が続いても彼女は呑気だった。だが、法が既に変わっており、男性しか継承できなくなっていた。待望のアレクセイが生まれたが、彼は血友病だった。

事のカラクリはこうである。ベルリンの爆弾工場で出稼ぎ労働者として働いていた彼女は勤務中に誤って手榴弾を落とし、身体に傷を負った。事故のショックで精神不安定になり、飛び降り自殺を図って瀕死状態になっていたところを保護され、精神病棟に入れられた。その際、記憶喪失に陥っており、身元が判明しない状態になっていた。

アナスタシアを名乗った偽者アンナ・アンダーソン。彼女以外にもアナスタシアを名乗った人物は数多くおり、少なくとも30人は確認されている。そのほとんどがすぐに偽者と見破られた。だが、彼女には本人と信じる複数の支持者がおり、長らく決着がつかなかった。彼女はロマノフ王家の財産を狙った裁判を起こしているが、敗訴している。

身元不明の彼女を病棟の人間は面白がってロマノフ王家のアナスタシアなのではないかと噂した。記憶を喪失していた彼女は次第に周囲の話を鵜呑みにし、自分がアナスタシアだと思い出したと誤認識する。本人が最初からアナスタシアを自称したというより、真相は周囲に擬似記憶を植え付けられた形に近い。

ニコライ2世、皇妃アレクサンドラ、第2皇女タチアナ、ヴィクトリア女王、エドワード7世。ニコライ一家がヴィクトリア女王を訪問した際の一枚。ヴィクトリア女王はロシア嫌いでアレクサンドラとニコライの結婚に反対していた。だが、アレクサンドラは姉エリーザベトに背中を押されて結婚を押し切った。

身体の形の一部がアナスタシアに似ていたのは偶然にしても、銃創のような傷痕は爆弾工場の事故で負ったものであり、ロマノフ王家の知識やアナスタシア本人と思い込む誤認識は周囲の人間が植え付けたものだった。彼女の正体は、フランツィスカ・シャンツコフスカという名のポーランドの農家の娘だった。

第一次世界大戦時のアレクサンドラ、オリガ、タチアナ。従軍看護師として負傷兵の手当てに当たり、熱心な働きぶりからロシア国民の人気を得た。だが、アレクサンドラは心臓病、坐骨神経痛、顔面神経痛などを発症。身体的にも精神的にも不安定となり、怪僧ラスプーチンに依存して国政を破綻させていく。

20世紀末にアナスタシア本人の遺骨が発見されたことで、アナスタシア伝説には完全なる決着がついた。DNA鑑定の技術が発展したことにより、フランツィスカ・シャンツコフスカがロマノフ王家とは全く関係がない人物だったこともはっきりと証明された。では、なぜアナスタシア伝説は生まれたのだろうか?

ニコライ2世一家が処刑されたイパチェフ館の地下室。壁に幾つもの弾痕が見られる。イパチェフ館は、当初エカテリンブルクの商人の家だった。1977年に取り壊されており、現存しない。一家と従者は2階の6部屋に入れられ、ニコライ、アレクサンドラ、アレクセイの3人で一部屋、姉妹は4人で一部屋だった。

それは、人間の心理の奥底に隠れているのではないか。若き皇女を死に追いやってしまった国民たちは、彼女がどこかで生きていると思うことで、罪の意識を和らげたい心理があった。フランス革命のルイ17世の生存説が信じられた時と全く同じ構図である。罪の意識からの逃避が、伝説を生み出したのだった。


Shelk 🦋


13歳のアナスタシアの自撮り。1914年10月28日撮影。アナスタシアは鏡に写る自身を撮っており、カメラも映り込んでいることから、彼女がコダック社のブローニー写真機で撮影していたことが分かる。アナスタシアは自撮り写真を友人に送っていた。少女の自撮り文化はまだ珍しく、彼女はその先駆けだった。アナスタシアが手ぶれ防止のために椅子の腰掛け部分にブローニーを固定しているのが窺える。両脚の膝は椅子の上に乗せられている。ロマノフ王家が着用していたドレスや王族の部屋の内装が窺い知れる点でもこの一枚は興味深い。アナスタシアが現代に生きていたら、SNSを存分に楽しんでいたことだろう。

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