【思考実験】パートナーシップと家制度と夫婦別姓を分けて考えてみた
前回、「パートナーシップのアップデートには家制度からの脱却が必要」だと主張した。また、「夫婦別姓は家制度と家父長制に阻害されている」という仮説も立てた。ただし、「私自身がパートナーシップ3.0にたどり着けていない」とも書いた。
今回は私が何に対して引っ掛かりを覚えて、自分の中でも矛盾を感じている部分はどこか、整理したいと思う。
■論点整理したい理由
Twitterの140字ずつなんて正直議論も何もあったものじゃないと思っているが、だいたいこの「対等なパートナーシップ」「家制度」「夫婦別姓」が切り分けられないまま紛糾しているイメージがある。
ピケティも「21世紀の資本主義」の序盤に書いていたが、お互いの無知を指摘し誹謗し合う、揚げ足取りの議論には全く生産性がない。
論点を切り分けて個別に検証する必要があるのに、この問題については特に「機能的価値」と「情緒的価値」、さらに「人権(男女同権)」を混同してしまう人がまだまだ多いと思う。私もうっかり混同するので気をつけたい。
例えば、200万の時計を持つという事象に対して、
「誰でも200万円くらいの財産を持つべきだ」
「200万円で一生買い替える必要もないし正確に動き続けるので費用対効果が高い」
「いい時計を持つ男はデキる説」
などなどを混同すると、
「200万円あったら投資信託をやれ(機能的価値)」という人に対して
「時計を持ってないとマウントできないだろ(情緒的価値)」と反論してしまうことになる。明らかに論点が違うし、反論になっていない。
なにが言いたいのかというと、
「同姓にする手続きを負担すること(機能的価値)」
「どちらかの戸籍に入って家制度的価値観を再生産すること(情緒的価値)」
「男女が対等であること(人権)」
は確かに繋がっているが、混同すると議論が一生まとまらない恐れがある。今回はこれを別々に自分がどう感じているのか、整理したい。
⒈家制度について
1-1. 改めてパートナーシップ1.0の世界とは
パートナーシップ1.0の世界は、家同士の結びつきを目的としたパートナーシップであり、お見合い結婚の世界であり、家長たる男性が稼得役割を担い、女性はケア役割などの再生産労働に従事する世界だ。
だから「主人」「嫁(女+家)」「奥さん(家の奥にいる人)」という呼び方がある。ちなみに「亭主」「旦那」についてもあるじ、施しを与える人という意味がある。
※対等な表現があるとしたら上品だとは思わないが「連れ」「相方」、常用感はないが「配偶者」「パートナー」だろうか。「つま」は古来夫婦両方を指したが、もうとっくにそんな使い方はされていない。
家とは家産と呼ばれる固有の財産と、家名と呼ばれる固有の名前、そして、家産を用いて営まれる家業―の三点セットを、父から嫡男へと父系の線で先祖代々継承することによって、世代を超えての永続を目指す社会組織(https://yab.yomiuri.co.jp/adv/chuo/opinion/20130115.html#profile)
1-2. 結婚契約を結ぶ時のモヤモヤ(家制度に縛られている私)
論点:情緒的価値と人権
ここからは私が家制度の価値観から脱しきれていない事を前提に、その上で感じる違和感を整理する。ただし、先の家制度の定義や、家父長制とはあえて区別したい。「家の繋がり、血族の繋がりを重視する」というだけの意味で捉えていただきたい。
これは前回も少し書いたが、なぜ家の名前を残すのは男性が優先されるのだろうか?仮に「家」が最も大事なのであれば、長子が継子となることは男女の差に優先される。長女と次男の夫婦は長女の家を長女が継ぐし、姉妹が生まれた家は姉が家を継ぐ。
ところが現実はそうなっていない。
厚生労働省「第7回世帯動態調査」より報告書--『第7回世帯動態調査 現代日本の世帯変動』(2014年社会保障・人口問題基本調査)p.19 https://www.mhlw.go.jp/toukei/list/120-1.html
厚生労働省が出す最新の世帯動態調査によると、長女は60%、男兄弟不在の長女も23.9%である。未婚率も上がっているので、この全てが結婚しているわけでは当然ないが、それでも「家を継ぐべき子供」が女性しかいない家庭は大体5つあれば1家庭はあることになる。
ところが実際に姓を女性の家の名前にするカップルは4%しかいない。
多少の男性優位を考慮しても、家の名前を継ぐ女性がほとんどいないということは、「家の存続よりも男性が家長であることが優先される」ということを暗黙のうちに私たちは当然視していると言える。
つまり、跡継ぎ論は男性側の家を優先する口実であり、娘だけの家は「女性だから」という出生を理由に、跡継ぎを失う。
女性の家庭にはプレゼンスがデフォルトで認められていない、とまでは言わないが、近しい認識はあるのではないだろうか?例えば、結婚前後どちらも、夫側の親の意見が妻側の親の意見に優先されるという事象に、既視感はないだろうか?
私は姉妹の長女だが、私が長男であれば当然、家の名前を継いで違和感はない。なぜ長子である私が当然のように自分の家の名前を継がないものだと周りに思われるのだろうか?それは私が女性だからだ。
家を継ぐことに興味もないし、本籍も生まれ育った土地ではないが、「家を継ぐ」ことを理由に姓を変えてくれと言われるのならば、私も同じ論理を主張していいはずだ、というのがモヤモヤである。(そりゃ家督を継ぐのは男だから、と言いたくなるが、その瞬間、男女の序列を内面化していることに気づくだろう。であれば「男だから」で潔く済ませていただきたい。それは家が理由ではないからだ。)
というか家制度なんて核家族化進んでもはや機能として全然残っていないのに、なぜ結婚の瞬間に突然拘るんだろう。
でもこれはしっぺ返し戦略的発想で、自分が家に固執しているのも古くさいし、これにモヤモヤしている自分は好きではない。
1-3. 家制度についての個人的な見解まとめ
【情緒的価値】
家を継ぐ、血縁を重視するからこそ、
自分の家族のプレゼンスがなくなることが辛い。
【男女同権】
家名を最重視するなら継子の女性が姓を変えるロジックはおかしい。
なので家を理由にしないでほしい。
【機能的価値】
自分の家を継ぐことには機能的メリットを感じない。
※ちなみに相続については、別に戸籍を抜けても
両親から相続権はなくならない。結婚相手の両親の相続人にもならない。
〈民法第887条第1項〉
被相続人の子は、相続人となる。
〈民法第890条〉
被相続人の配偶者は、常に相続人となる。この場合において、第887条又は前条の規定により相続人となるべき者があるときは、その者と同順位とする。
⒉夫婦別姓について
2-1. 会社・ブランド名の変更と人間の名前の変更
論点:機能的価値
別姓の議論は、家を継ぐことと敢えて切り分けて考えると、「名前を変えるかどうか」に尽きる。人的資本や社会的信用を一定築き上げたのち、名前を変えるという行為にどれほどのコストが発生するか、会社名、ブランド名で考えると理解しやすい。
社会人、特に営業職や経営者はどれだけ会社名や名前が変わることが重大か当事者意識を持っていると思う。この記事で挙げられたデメリットを社名→個人名にかえて考えた。
2-1-1. コミュニケーションコストが致命的
会社が名前を変えると、
⑵顧客に別の会社と思われる
⑶知名度の低下
⑷ブランドがなくなる可能性
⑻取引先への周知
自己同一性を失うことが、長期にわたって影響を及ぼしかねない。
顧客や昔の知人に別の人間だと思われたり、自分の名前で築き上げた実績が接続できなくなるリスクを負う。書類ごとに旧姓でいいものと戸籍名でないとならないものがあり、旧姓であっても工数がかかる。
2-1-2. 事務手続き、実費のかかる手続きが発生
会社が名前を変えることで、
⑹看板や名刺などの変更
⑺役所への手続きが必要
⑼名義変更などの手続きが煩雑
⑽コストがかかる
実際に時間(当然機会費用は発生する)や物理的な再発行物、手数料など、非常にコストがかかる。
2-1-3. 会社の社名変更に特有で特に関係ないもの(残り)
⑴会社が倒産したと思われる ⑸ロゴマークなどの変更によるイメージの変化 については会社特有であると思われる。
ただし、⑴に無理やりこじつけるなら、
「既に連絡先からいなくなった、退職した」と誤認されるリスクはある。
しかも性質の悪いことに、この手続きは姓を変える側にのみ発生するため、仮に社会人同士のカップルであれば、姓を変える側の従業員が所属する会社がこれらの費用を負担することになる。
研究者であればその業績が紐付けされなくなるリスクを負うことはキャリアにとっては致命的である。旧姓使用にしたって、結局手続きは発生する。
自分の名前を使って働く人間にとって、姓を変えることに実利はあまりない、もしくは見合わないかもしれない。下記の記事もとても参考になった。
中でも代表的なのが、論文や学会発表における著者名の問題だ。研究業界では例えば、「(旧姓) 著, 2019」の論文の次に「(新姓)著, 2020」の論文が出ても本人を知らない研究者からは同一人物による論文だとは分かってもらえない恐れが大きい。研究業界に限ることではないが、名前が前に出る仕事のキャリアを築くうえで、途中で仕事上の名前を変えることは、キャリアの事実上のリセットに繋がりかねない大きな出来事である。(1ページ目)
2-2. 夫婦別姓についての個人的な見解まとめ
【情緒的価値】
2人が一緒の姓になることで生まれる
感情的繋がり・ロマンチシズムは祝福するし肯定するが、
自分は自分の名前が変わることに快の感情を持てない。
【男女同権】
別姓でい続けることで2人とも自己同一性を保てるならばよい。
【機能的価値】
姓を変えることで自己同一性を証明するためのコストとリスクが発生する。コミュニケーションコストは勿論、
手続きに費やす時間と労力が大きいので、
そのコストとリスクを負いたくない。
⒊対等なパートナーシップについて
3-1. パートナーシップの概念を広げる
論点:人権
今までの話は全て、異性愛結婚契約における家の継承や姓の変更の話であり、厳密にはパートナーシップの一部でしかない。
パートナーシップ2.0の自己決定によるパートナー選択までは性愛関係を前提としていた。パートナーシップ3.0はそれも含めた、信頼関係に基づくパートナー選択を実現するための概念だ。
現在(2019/12/17pm)Googleで「信頼結婚」を検索しても、1ページ目には出てこないが、今後同義の言葉が出てくると素敵だなと思う。
パートナーシップ1.0の世界は「家」の存続によって生存が保障されていた。
パートナーシップ2.0の世界は異性愛法律婚によるユニットが夫婦として社会保障の恩恵を受けた。
ところが現在、未婚化・晩婚化・非婚化も進み、離婚率も3割に達した。これまで差別を受けていたLGBTQの権利が「知られる」ようになり(石川氏に倣って認めるとは書かないことにした)、婚外子やひとり親など社会保障の網から零れ落ちていた人々に照明が当たり始めている。
パートナーシップ3.0の世界は信頼と互恵関係に基づく全ての人間関係が等しく受け入れられる世界を目指す。
人生100年時代の今、職業は既に終身雇用の時代から人生で3-4回転職が当たり前になっているし、今後は3-4社で同時に働く人がもっと増えていくだろう。100年という時間を変化せずに生きていける企業も、人間も恐らくいない。価値観や生き方は変わっていくし、既に私たちも10年前と考え方が変わっているのを感じるだろう。ライフステージはこれまでの「教育→仕事→引退」という3段階では経済的にも難しくなる、とはこの元となったLIFE SHIFTで言及されており、ご存知の通りだと思うが、このなかでパートナーシップを常に同一状態で保つこともどれだけ難しいかも想像に難くない。形も変われば、場合によっては個人も変わる(もう3割の異性愛法律婚夫婦がそうなっている)。
変わりゆくライフステージを、信頼をよすがとして共に支え合う個人は紛れもなく「パートナー」であり、人生100年時代を生きる私たちに必要なパートナーシップの形ではないか。(当然、パートナーシップそれ自体は目的でないので、エマのようにself-partneredな個人もいて当然だ)
パートナーシップは、人生を共に支え合う個人の単位であり、必ずしも性愛を伴う必要はなく、信頼と互恵こそが関係性の本質にある。
これが「信頼結婚」の基本的なスタンスであり、私自身もまだ感覚的には不慣れだと感じる。(どうもまだ性愛関係を前提にしてしまいがち)
これはパートナーシップ全てに同等の保障を与えるべきだとかそういう話ではない。夫婦別姓の議論は機能的価値に基づいて認めないほうが社会の機能を損なうという議論だったが、パートナーシップ3.0は情緒的価値も機能的価値も人権思想も含んだもので、まずは私たちの認識を広げていこうということだ。
パートナーを、家の存続のための結合媒体ではなく、
男女の関係を固定する不可逆のシステムではなく、
信頼と互恵関係にある人間同士が共に生きていく、
その営みをパートナーと呼びたい。
それは誰のことも置き去りにしないということだ。
「パートナーシップはこうあるべき」を今より広げ、(流石に不信と搾取がパートナーシップの理想だとは私は思わないので、できる限り広義に捉えているつもりだ)それぞれのパートナーシップを目指すということだ。
人間が共に信頼し互恵関係を築く、パートナーシップの本質に立ち返るために、私たちは既成概念から改めて抜け出すことが必要だ。
3-2. パートナーシップについての個人的な見解まとめ
【情緒的価値】
異性愛法律婚のみを
正式に認められた人間の相互扶助の形として認めるのではなく、
信頼と互恵関係を築くことを目的としたパートナーシップを結ぶためには
概念のアップデートと、それが社会に認められることが必要。
【男女同権】
どちらかが性役割と規範意識を強制されるのではなく、
真に得意分野をフラットな視点で分配し、互恵関係を築くためには
人間と人間の関係と広義に捉えなおすべきだ。
【機能的価値】
家制度も異性愛法律婚も時代に合わないまま、
非婚・晩婚・離婚・少子化が進み、再生産のためのユニットとして
機能していない(少なくとも機能するまでに活用されない)。
時代に合わない狭き門を目指し続けるよりも、
人間が100年生きて社会全体で再生産していくための
広い枠組みを新たに作るべきだ。
■まとめ
長々と書いてきたが、こうしてみるとそれぞれの論点についてさらに議論が深められそうな気がするし、自分の考えに自信を持って整理がつけられる。的外れな反論は的外れだと判断できるし、自分の一部の考えが間違っていたとしても自分の考え全てを否定しなくてもいいことに気づく。
とにかく社会におけるパートナーシップの概念はアップデートすべきだ。そのために、色んな人が興味関心を持って議論や対話をあちこちで始めることがあっていいと思う。対話のない人間同士で、一体どうやってパートナーシップが結べるというんだろうか。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?