パートナーシップ3.0という考え方
※私自身は異性愛者のため、どうしても問題意識がそちらに寄ることをご容赦いただきたい。この「パートナーシップ3.0」は性的指向に左右されない概念であってほしいと思っていること、また1.0,2.0の価値観を選択する(≠他人に強いる)当事者を否定するものではないことを、はじめに断らせていただく。また、このnoteの内容自体も今後アップデートしていきたい。
と、大層な感じで始めてみたが、要は
全てのパートナーシップを祝福したい!
という思いだけで書きなぐっている。
この雑多な文は、私自身の思考の整理を目的として、以下の順番で書き進めている。
個人の状況→改姓についての悩み→改姓で女性が我慢する背景→家制度への言及→親世代と子世代の認識ギャップ→パートナーシップ3.0という提案
■私たちのパートナーシップの現状
私には大学時代からのパートナーがいる。
パートナーとは同じ大学、同じ部活で切磋琢磨し、勉強も怠らず、尊敬しあい、今も共にそれぞれの職場で頑張っている。
今まで私たちの間で「男だから奢るべき」「女だから家事をするべき」なんてことは一切なく、むしろお互いの価値観を一つ一つ確かめていくことで絆を深めてきた。これからだってそうするつもりだし、むしろ私の方が稼得役割を担う可能性も話し合っている。
お互い人生を共にすることを前提に関係を少しずつ進めているのだが、進めれば進めるほど私たちの関係性の邪魔をするものがある。
それは、家制度だ。
■改姓と家制度
語弊を恐れず言えば、内面化された男女差別がもたらす、対等で多様なパートナーシップの無力化と言ってもいい。
例えば、私たちは結婚したい(できれば一刻も早く)。信頼関係に保証を与え、将来のリスクヘッジをしながら、人生の無期限のパートナーとして契約締結をしたいと思っている。婚姻届と入籍をすれば国から正式にパートナーとして認められ、様々な保護が受けられるのでまあ実現すると思う。
だが、大きな壁にぶつかっている。私とパートナーは自分の名前を変えたくない。別姓の議論についてはサイボウズの青野社長が繰り返し発信されているので、興味を持って追いかけている。
あえて「私が」ではなく「私とパートナーが」としたのは理由がある。
まず、この点について私とパートナーは常に十分に議論を尽くしているし、全く感情を害することなく共感し合うことができている。
が、そもそも女性が名前を変えるものという前提で話を進めること自体が、男性が名前を変えることをリアルな問題として考えられていない、変えたいと思っていないことの証ではないか。だから、2人共がフラットに主張を認識しているということを表現したかった。
改姓に意識的なカップルならどちらの姓にするか話し合うかもしれない。しかし例えば口では「俺は変えてもいいけど」と言ってくれている男性がいるとして、現実はどうだろうか。
結局、96%が男性の姓に変えているという現実がある。「変えてもいいけど」というのは結果だけ見ればリップサービスに終わる可能性が非常に高い。法律婚をするとき、ほとんどの女性は何かしらの理由で自分が元いた家から戸籍上分離されるということだ。
これが意識的な差別だなんていうつもりはない。でもなんでだ!「妻の家名」には価値がないのか?これに関してはあとで検討したい。
ちなみにわずか4%の改姓した男性の本音は以下の記事が参考になった。
また、改姓の実利的・精神的なコストについてはこちらのnoteを参考にしてほしい。
上の記事において、2年経っても手続きが終わらない、会社員としても取引先とコミュニケーションに変化が生じる、話のネタになるなど色々あるが、1つ興味深い特徴があるのにお気づきだろうか。
そう、
親の意見である。
「両親には結婚の話をする流れで、『あ、それと結婚後は妻の姓にするから』と告げました。『えっ』と少し驚いてましたが、『何か不都合でも?』と言ったら『いや特にないけど…』ということでした。(中略)次男ですし、よく考えても特に何も支障はない。(中略)義母は私の両親のことを気にしていて『本当にそれでいいのかしら』と気にしていましたが、『何の問題もありません』と重ねて伝えたのでその後は特に何もありません」
「父親は激怒しましたね。長男が突然、結婚すると言い出し、名前まで妻の姓に変えると後から知らされたので、父親からは怒りのメールが届きました。『家を捨てるということか!』と。(中略)「しばらく放置しておいたら、『お前の気持ちはわかった。お前は新しい家族の家長として頑張れ』と諦めのメールが来ました(笑)。今では受け入れてくれています」
ここには2つの価値観が見て取れる。1つは家制度、もう1つは家父長制だ。
学術的な主張をするつもりはないので個人の見解を述べると、
①長子が家を継承するべきだ
②家長は男性であるべきだ
という2つのロジックが、親(や自分たち)に意識的・無意識的に浮かんでいるということである。
実に96%の妻が夫の姓に変えているという圧倒的数字を見ても、体験談を色々見聞きする中でも、男性側の親を気にして合わせたというカップルは多いのではないかと推測している。
さっき「妻の家名に価値はないのか」と書いたが、一度結婚を想定してどっちの姓にする?と話し合ったカップルは多少なりとも親と自分たちのこの価値観に気づくかもしれない。そういうものだからと一蹴するのは容易だが、後ろにある価値観と正面から向き合うことで、私たちの相互理解は深まった。私自身の中にも家制度が根を張っていることを自覚したりした。
■親世代のパートナーシップ
親が改姓議論に影響することはなんとなく察した。しかし、
冷静に、私たちの親世代ってそんなに言うほど保守的なんだろうか?
そうではない、というのが私の今の考えだ。
私は現在20代前半、いわゆる「さとり」だの「Z世代」だのに分類される世代だ。親は50代半ば、1960年代に生まれ、1980年代後半に就職した世代だ。
つまり、親の世代はドンピシャで均等法*施行前後に就職、結婚をしている。
1975年から10年間、国際連合がもうけた「国連婦人の10年」があり、女子差別撤廃条約、85年には就職差別を禁じる男女雇用機会均等法*、またそれまでの父系血統主義を父母両系血統主義に改めた国籍法の改正など、当時は国内外で女性の権利を認め、社会進出と家父長制からの緩やかな脱却が図られていた。当時既に社会にいた人にとっては相当ドラスティックだったのではないだろうか。
女性が社会進出をして、結婚退職勧告や30歳で定年の不文律があった時代、自分が専業主婦でない時期を引き伸ばし、職場の改姓や通称(旧姓)使用をしながらキャリアを続けてきた世代だ。まさに結婚「適齢期」当事者として、両親の世代はパートナーシップのあり方が変わっていくのを見てきているはずだ。
ここからは私の持論だが、親世代のパートナーシップの形は古くない。むしろ均等法以前の世代が切り拓いた細い道を広げ、その中でパートナーシップに対する外圧を経験し、既に1度、パートナーシップの概念をアップデートしている世代ではないか。
だがそれゆえに、一部の親世代は自らを十分アップデートされたと思ってしまい、一部のZ世代、ミレニアル世代が要求するアップデートを「過度」だと感じるのではないだろうか?或いはどこかで「自分の子供には無難でいてほしい」と思っていないだろうか?今のままで十分回ってるじゃんと。旧姓使用とか親頼るとか、やりようはあるじゃんと。
そうではないことは先に挙げた記事を確認いただきたい。
また、生産性が下がっているのに事業にテコ入れしない企業がありえないように、これだけ離婚率が上がっているのにパートナーシップの最適化を試みないというのはありえない。
■パートナーシップ3.0
ここでようやく本題に入れる。
長々と不満や見解を並べてきてなんだが、私は世代間対立を煽りたくはない。私の周りの親世代の方は本当に尊敬すべき素晴らしい方ばかりだし、私の思いを否定せずに聞いてフィードバックをくれるので、彼らを否定すべきでないと思う。
というか、今から提案するパートナーシップ3.0の域には私でさえ到達していない。
あくまで、
子「おい親!古臭いんだよ!」
親「何を言ってるんだ、私たちも革新してきた、十分尊重しているだろ!」
という相互理解不足による悲劇を少しでも減らすために、親世代がパートナーシップを1度アップデートしたことと、これから向かうべきパートナーシップの捉え方を整理したいだけである。
まずは超ガバガバな分類を見ていただきたい。これが私の現時点での思考である。
ガバガバにも程が有る・・・
少し整理したい。
①パートナーシップ1.0(1898年〜1960年代前半)
江戸時代に武家に特徴的だった「家制度」が明治時代の幕開けと共に、国家によって保護され、庶民にまで広げられたのがパートナーシップ1.0の価値観だ。以下の記事がとても参考になった。
夫は外で仕事、妻は家事と育児という夫婦役割分担制
妻の経済的自立と自由がなく、女性にとって結婚とは生きるための就職のような位置づけ
個人の恋愛感情より、家と家という2つの共同体を結びつけるための機能が優先される
大きくこの3点がパートナーシップ1.0の特徴であると考えている。
今ではドラマでしかお目にかからないような、お見合い結婚が当たり前だった時代の話だ。
②パートナーシップ2.0(1960年代後半〜現在)
大きく変わったのが60年代、自由恋愛による結婚がお見合い結婚を上回った。そしてマイナーアップグレードされたのが80年代、女性の社会進出により夫婦の共働きが増加した。離婚率も増加した。
大きくアップデートされたのは2点、
⑴結婚相手は自分で選ぶもの(ただし、親の承諾は基本的に必要)
⑵妻も働き、共に家計を支えることがある→産後復帰率、継続率の向上
という点だと思う。
ただし、先に述べたように、家制度的価値観や男系主義的価値観は残った。つまり入り口は変わったが、結婚の求めるパートナーシップの根幹は変わっていない。ポスト家制度とも言えるかもしれない。(ポストの使い方あってるのか・・・)
③パートナーシップ3.0(令和の幕開け…であってほしい)
今や技術も働き方も価値観も、日々移り変わっている。大学進学率も女性は微増し男性との差を縮めており、80年代から10年代までの30年間で女性の働き方、獲得地位が男性に近づき、また男性1人に稼ぎを期待できない経済停滞期を経験し、パートナーシップ2.0が革新的だった時代よりも個人が責任と自由を負う時代になった。
女性はもう男性と結婚しなくても最低限生きていけるし、LGBTQなどマイノリティの人権についても議論されるようになりはじめた。もうパートナーシップ2.0を目指すことは、人生の正解ではなくなっている。
出典:平成30年版厚生労働白書 資料編7 雇用均等・児童福祉(https://www.mhlw.go.jp/wp/hakusyo/kousei/18-2/)
人生100年時代、少子高齢化による結婚「適齢期」の人口の縮小、低成長時代の期待生涯稼得額の低さ、価値観の多様化による結婚のメリットの相対的低下、離婚率3割など、恋愛結婚×家制度というパートナーシップ2.0はもはや若者が目指すには現実的でも魅力的でもなくなっているのではないか。
明治民法が制定されるまでの日本人庶民の結婚とは、限りなくお互いが精神的にも経済的にも自立したうえでのパートナー的な経済共同体という形に近かったわけです。別の見方をすれば自由でもあり、夫婦の関係は対等でした。(https://toyokeizai.net/articles/-/202863?page=2)
この側面だけを切り取れば、パートナーシップ3.0はルネサンス的とも言える。
しかしもっと言えば、別にパートナーは異性愛者の同性同士でも、兄弟でも、複数でも0人でもいい。当事者と利害関係者の合意が取れているならば。
現在進行形で男女両方を生きづらくしている家制度の呪いから解き放たれ、個々人が自立と信頼に基づき、パートナーシップを結んでいくこと、これが実現するのがパートナーシップ3.0である。
■まとめ
色々考えすぎて常に空中分解しかけているが、絞ると、
①改姓に際して親への忖度が絡み、結果的に96%が男性側に変えている。背景には内面化された家制度と家父長制の価値観がある。(パートナーシップ1.0の名残)
②一方で親世代もパートナーシップのあり方が劇的に変わっていく時代の当事者だった。1度価値観はアップデートされている。(パートナーシップ2.0)
③今はさらに社会構造も価値観も新しくなり続けている。私たちは家制度と決別し、個人の信頼関係に基づいたパートナーシップを認め、同じようにアップデートするべきだ。(パートナーシップ3.0)
この3点になるかと思う。
繰り返すが先人が革新してきたことを全て古いと一括りにするのではなく、彼らの功績には敬意を表し、そこからさらにアップデートすべきだという立場を取りたい。過去の全否定からは何も生まれない。
私たち自身がより生きやすく、安心して、対等で多様なパートナーシップを祝福しあえる社会にしていきたいと願っている。
■補足・今後整理し直したいこと
・パートナーシップ2.0に拘るあまり、私たちの社会はもしかすると潜在カップルだけでなく、潜在的なビジネスチャンス、あるいは潜在コストを見逃している可能性すらある。これについては別の機会に熟考してまとめたい。
・ここでは論点がずれるので書かなかったが、やっぱり、長子同士の結婚で長男の家が優先されるって、長女だけじゃなく娘を産んだ親や娘に連なる家系のプレゼンスが認められていないということな気がして、、家制度を認めるにしてもモヤモヤするのだ。
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