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小説 | 記号として語られた、ありふれた男の話

 銃を片手に冷たい廊下を歩く。
 コツ、コツと皮靴の奏でる足音だけが辺りに響き渡る。考えの纏まらない熱っぽい頭も、この場の雰囲気さえもが夢の最中さなかにあるような気がした。私はこれから、人生で初めてとなる殺人を犯す。そしておそらく、その後の人生においては数えきれないほど……。
 上官に命じられ、父の命を奪った独裁者の秘書として仕えて一年が経とうとしている。クーデターによって成り上がった軍事政権。独裁者による統治。発展途上の地域の国としてはありふれた話。そして独裁者を排除しようとする動きもまた、長い歴史の中ではありふれた出来事でしかない。たとえそれが私にとって初めての殺人であっても……。
 張り巡らせた考えも覚束ないまま、通り慣れた通路を亀のようにノロノロと進む。それでも私の頭はこの空気のように冷える事はなく、とうとう彼の居る部屋の前まで来てしまった。私は自分の中の迷いを断ち切れないでいる。しかし、タイムリミットだ。たとえ迷いが断ち切れていなかろうと、今は熱に浮かされたまま上官の命令に従うのみ。扉を前にして、大きく深呼吸をする。
 さぁ、覚悟を決めろ、独裁者を殺すのだと。
 銃を構え、半ば体当たりするように大袈裟な音を立てて司令室の扉を開く。彼はその机に向かうでもなく、国を一望できる窓の前に立っていた。私が開いた扉にも、私の出現にも何ら反応を示す事なく、ただ窓の外を眺めていた。そんな彼の様子に戸惑いながらも、予定通りの言葉を口にする。
「抵抗しないでいただけるとありがたい」
 抑揚のない声で、機械的に。気を抜くと情けない声が出そうだった。やや間をおいて、彼は両手を上げながらこちらを振り返った。
「ああ、君かね。無論、抵抗する気はないさ」
 銃口を向けられているにも関わらず、彼は至って穏やかな様子だった。予想だにしていなかった反応に対して思いつくのはただ一つ。そもそもおかしいのだ。この部屋に辿り着くまでに、護衛を一人も見なかった。その事実が指し示すことは。
「……私が敵の手の内にあると知りながら何故、何もしなかったのですか」
 この人は私が軍部の敵対勢力と通じていることを知っていた。なのに護衛をつけることすらせずに、ただこの場に留まっていたのだ。殺されると、分かっていながら!
 彼は私の言葉に返答しなかった。自らの保身のために命乞いをするでもなく、こともなげに言い放った。
「民は私の首を要求しているのだろう。さぁ、私の首を持っていくといい」
 私に下された命令は一つだけ、問答無用で殺せ。だと言うのに、私はそれすらも出来ずにいる。私の意志に反して、堰を切ったように言葉が溢れ出す。
「貴方ならば逃亡する事も、栄誉ある自決を選ぶことも出来た筈だ! 何故……!」
 声が震える。声だけではない、手も、身体も、空気すらも。何故、何故、何故! この単語だけが頭の中をぐるぐると駆け巡る。何故この人は不名誉な死に直面しながらこんな言葉が紡げる!? 生に、尊厳のある死にすら縋り付かないのか、理解できない。保身のために、地位のために他人を手にかけようとする私には。
「なに、私はこの椅子に座るのに疲れただけさ。この椅子に座ったという過去にね。老い先短い身だ、どうせなら誰かにくれてやろうと思ってね」
 笑いながら、そう笑いながら! 私よりも一回りか二回り歳が上の彼はそう言った。その表情は私が彼の元に居たどの時よりも穏やかに見えた。まるで重責から解放されたかのような笑顔だった。いつも眉間に皺を寄せていた暴君ではなく、ただの老人がそこに居た。
「君はこの椅子に座るために椅子取りゲームをしに来たのだろう。ゲームなぞしなくともこんなもの譲ってやろうと言ってやりたいのだが、この命と共に奪いとってくれなくては困るのだ」
 彼は政治的な駆け引きも、ゲームだとこともなげに言い放つ。
 子供の頃に興じた遊び。音楽が止まった瞬間に参加者は椅子を奪い合う。椅子の数は参加者より少ない。椅子の数は減り続け、最後には一つになる。私はこのゲームが嫌いだった。必ず誰かがあぶれ、多数の敗者が発生するゲーム。そもそもゲームの目的が分からない。座れそうな椅子に座ろうとして、誰かに押しのけられて転んだ。泣きながら先生にゲームの意味を問うた。ルールを守って遊ぶことと、勝敗のつくゲームに慣れるためだと言った。私にはそれが理解できなかった。誰かを押しのけてまで椅子に座りたいと思ったことはない。その教室で勝っていたのは、常に体の大きな男子生徒だった。
 どれほどそのゲームを嫌っていても、大人になった今も、その遊戯から逃れられない。先生上官の言うことは絶対。音楽は時流。音楽が止まるのを見計らって、椅子に座ることが義務付けられている。今回のゲームは権力者が座る椅子。数はひとつ。大人にあってはルールなどない、問答無用で奪うのみ。
 もっとも私は無理矢理座らされるにすぎない。座らなければ妻子の命が危うい。全てをお膳立てされ、拒んでも無理矢理肩を掴まれ、その椅子に座らされる。そしていつの日か、銃口を突きつけられ、椅子を奪われることがしている。
 私にとってこの椅子は処刑台のようなものだ。首を吊るための、踏み台と変わらない。
「民の政府に対する、私に対する憎悪はあぶくのように膨れ上がっている。いつ破裂してもおかしくないほどに。それが破裂してしまえば、この国は他国に攻め込まれるだろう。民は私が自ら総裁の座を降りたとしても納得しない。内乱が起きれば他国の内政への介入に正当性を持たせてしまう。内乱が起きる前にを倒し、国を団結させる必要がある。君の上司は自身の傀儡国家を作るためだと言うだろうが、国益を考えれば私の死は必要不可欠だ」
 この一年、彼のやることを見ていた。彼自身が国民を弾圧したことなど、一度もない。軍部がやったことの責任を全て引き受けているだけだった。彼は独裁者の謗りを受けながら、他国に付け入れらる隙を一つずつ潰し、国民の憎悪を一身に受け団結させた。彼が居なければこの国は諸外国に食い潰され、地図から消えてしまっていたことだろう。つまり父の命を奪ったのも彼ではなく——。だからと言ってこの任を降りる訳にはいかなかった。妻子の命が懸かっている私に、選択肢などない。
 そう、彼はあまりに有能過ぎたのだ。私にしいすることを命じた上官が取って変わるには、あまりにも。上官がその椅子に座るには、一度無能に挿げ替える必要がある。
 上官の描いたシナリオはこうだ。ある日秘書は独裁者が新たな虐殺の計画を立てていることに気付く。義憤に駆られた秘書は怒りに我を忘れ——恐れすらも! 総統の頭を撃ち抜く。そうして一人の英雄の勇敢な行動により、独裁者はその生を終える。国民を弾圧していた為政者が消えて、国民は英雄を支持する。軍部も国民の支持を得るために彼を支持するだろう。だが英雄はあまりに——短絡的すぎた。まつりごとを行うにはあまりに短気で、単純で、気まぐれだった。新たな独裁者となる萌芽が見え隠れしていた。
 このまま任せてはおけない。そう感じた上官は国民の支持を得て、暗君と化した英雄を射殺する。そして満を辞して、上官はこの椅子に座る。堂々と。我々よりも長く、長くこの国に君臨することだろう。
「ただ、君のことが心配だよ。いつだって君は優秀な秘書だった。家族でも人質に取られていたのだろう? 私に対する敵意を隠し、大したものだった」
 彼の目には全てお見通しだった訳だ。それなのに今日までこうして傍に置き、自らの命まで差し出そうとしている。死を前にしても彼は、私の心配をしている。自分ではなく!
 無理だ。彼の代わりにこの椅子に座るなど。一人の命を奪うのにすら躊躇う私がこの椅子に座るなど。彼以上に国民を殺すと分かっている上官をこの椅子に座らせるなど! あっていいはずがない。この国のためになるはずがない。彼以上にこの国を憂いている者など存在しないのに!
「私にしてやれることはこれくらいしかないが……。私のようになるなよ。君だって、いつまでも傀儡でいるつもりはないだろう? 私の代では成し得なかったが……。いつでも椅子を降りて、幸せな余生を送れるような祖国にしておくれ」
 彼は私の震える手を握る。まるで外交相手に握手を求めるように。震えて照準が定まらず、引き金を引けずにいる私の指にその指を重ね、彼は自らの手で引き金を引いた。
 パン、と破裂音がして彼の脳天に穴が空く。衝撃で尻餅をつく形で後ろに倒れ込む。重たいものが床に落ちる音がしたのは、彼の意識がもう遠いところに逝ってしまったからだろう。
 ああ、なんて。彼らしい最期だろう。椅子も譲り、独裁者を殺したという手柄も譲り、名誉もなく。一体彼は何を得たと言うのか。私は英雄などではない。この期に及んで、やるべきことはやったと言う体で、彼の暗殺に失敗したと報告するつもりでいたのだ。そのつもりでいたのに、彼を殺したことで妻子の命を長らえたことに安堵してしまった、小心者の自分に腑が煮え繰り返る。真に英雄の称号が相応しいのは、彼だけだったのに!
 やがて朝日が私の罪を明らかにする。人々はそれを罪とは呼ばず、彼には贖いが必要だったと称えるだろう。内政を安定させ、味方のいない国際社会で上手く立ち回らなければ、彼と同じ道を辿るだろう。いつの日か彼と同じ道を進む私の額にも銃口が突きつけられるだろう。
 幸せな余生というものを想像する。一線を退いた一国の主はどこへ向かうだろう。司令室の椅子を退いた後にも座る椅子があるといい。たとえば南国の砂浜に置かれたデッキチェア。グラスには結露ができている。冷たい飲み物を飲み下し、沈みゆく夕日を眺めながら目を閉じる。彼に本当に相応しい椅子は、きっとそんな椅子だった。だが、そうはならなかった。彼はこのゲームに敗れ、この椅子から転げ落ちて生を終えた。
 司令部の椅子に座る。足元に彼の遺体が転がっている。きっとこの椅子は無数の屍の上に成り立っているのだろう。自身がそれらの上に立つに相応しいとは、到底思えなかった。それでも、椅子は私に回ってきてしまった。この椅子の上に座っている間にするべきことは何だ。独裁者となり得る上官に明け渡す前にできることは。国民のためにできることは。
 彼の汚名を雪ぐことができるのは、私だけだ。いつか無数の屍のひとつに成り果てるまで。座らされた椅子で銃口を突きつけられたまま、抗い続けよう。いずれ暗君として歴史に刻まれるとしても。いつか彼のように、真の英雄となれるまで。
 記号として語られた、ありふれた男の話。どこにでもある、政権転覆前夜の話だ。

ー了ー

エブリスタ超妄想コンテスト「○○前夜」大賞受賞作

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