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楽しい集まり

わたしには好きな街がいくつかあります。
以前は観光で行っていたけれど、最近はそこを拠点に活動していたり、集う人が好きだったりして行っています。
先日もそんな街の一つで行われたイベントに参加してきました。

ミサキドーナツ鎌倉店さんで行われた「一箱古本市」です。

あいにくの雨でしたが、主催の雨の実さんのお知り合いの方や、ドーナツを買いに来た人、ふらっと入って来た人、本当に色々な方が来店して、それはそれは楽しいイベントでした。

わたしもドーナツ食べたり、おしゃべりしたり、ドーナツ食べたりして(本はあまり売っていない)楽しく過ごしました(年中ドーナツ食べてる!)。
打ち上げではミサキドーナツのお二人がとっても美味しいお料理を振舞ってくれて、これまた楽しく満腹なひととき!

主催の雨の実一族の皆さん、会場のミサキドーナツさま、一緒に出店した皆さん、ご来場のみなさま、ありがとうございました!

さてと、楽しいイベントの話をした後だけど、今日は少し真面目な話をしようと思います。

今年初めに亡くなった祖母がよく戦争の話をしてくれました。
聞いていて一番怖かったのは東京大空襲から生き延びた話ですが、違う怖さを感じたのは、「これが法律だから」とまともな人を逮捕していった憲兵の話でした。

法律を必要以上に歪曲して捉え、まともな感覚を持った人を糾弾していったのです。そして、その恐ろしさに震えた人たちは、一斉に憲兵と同じ側に回りました。
「あそこのAさんは非国民だ」
昨日まで仲良くしていた人が手のひらを返す。
昨日まで一緒に外国の歌を歌っていた人が手のひらを返す。
手のひらを返さないまでも、自分の身に火の粉がかかることは怖いので、Aさんとはもう付き合わないようにしようと、そっと距離を取っていく。

わたしが怖いと思ったのは、その昨日まで仲良くしていた人たちが、一斉に声の大きな人の言うことに従って手のひらを返したことなんです。
そこに自分の考えはあったのか?
もちろん彼らを支配していたのは<恐怖>でしょう。
だとしても、その声の大きな人の言うことは本当に正しいのか、自分の信念や楽しさを捨ててまで従うことなのか?きちんと考えることをしたのか?

<最後通告>であるとか<従わないと罰せられる>であるとか<大切な人に迷惑がかかる>そういう恐怖から発せられた言葉を大きな声で、時にささやくような声で市井の人々に吹き込んでいく。
これは恐怖を元にした洗脳です。

でね、戦時中だったから仕方ないとか言う人もいるでしょう?
でもこれ、現代でもよくあることなんです。
考える力を人から奪うのって結構簡単。人って結構簡単に他人の言葉に洗脳されて、傷つけられて、意見を変えさせられるんですよ。

なんのことかは詳しくは言いませんけど、昨日起こったある出来事を見ていて、一番最初に思い浮かんだのは、この、祖母から聞いた「憲兵とそれに手のひらを返したように従う人たち」のことでした。

前回の「寛容であること」にも少し書いたんですけど、正しさを恐怖から発信する人には気をつけたほうがいいです。それが正しいとされることだとしてもです。
より明るい方を見ていてほしい。

言葉は本当はこうあるべきだと思う、大好きな詩を貼っておきますね。

「緋の言葉」
言葉は 争いの
道具ではなく
人間の心を守る
見えない護符

若松英輔「幸福論」より


あー、また真面目に書いちゃった!やっちまったぜ!

でも、傷ついている誰かに届いたら嬉しいなって思っています。
わたしは糾弾するためじゃなくて、優しさを届けるために言葉を使いたい。
そしてまた、楽しく集まれますように!それがリアルであれバーチャルであれね!

最後まで読んでくれて、ありがとう!
では、また!



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