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表現は自己表現ではない

こんばんは!

昨日はみんな月を見上げていましたねぇ。
わたしも少しだけ見たんですが、ぐわんぐわんしてしまって(頭痛と目眩と若干の吐き気)ダメでした。
そういう方も多かったんじゃないですか?結構しんどかったですよね。
でも、月は嫌いじゃないです。

ささ、今日は元気になったので、
昨日のブログの続きのようなお話を。

昨日のブログはこちら

なんかですね、Youtubeが李禹煥先生の動画をグイグイ勧めてくるので、今日は流しながら作業していたのですが、

「吉本隆明が言っていた”表現とは自己表現である”という発想があるけれど、”自己”を広い意味で捉えればそうだけど、自己をエゴと捉えると全くそうは思わなくて、筆や絵の具が共同で何かを作り上げる感覚がある」

って仰ってて、もう、私が昨日ブログに書いたやつじゃん!先生!みたいになって勝手に推しとシンクロ感じています。
(先生を推しと呼ぶな)

今年は「表現イヤーである」という言葉をよく聞きました。
もう今年も2ヶ月弱終わろうとしてますが(早くて震えるわね)
正直、この”表現イヤー”に苦しめられてしまった人も多いんじゃないかなと思います。
自分は何も表現するものがない、と。
いや、生きているだけで表現であると?そう言われても……と。
そう思ってしまうのは、この世界に、エゴが表出してしまった表現があまりに多いからな気がしています。
それに慣らされてしまって、自分も同じように自己表現しなくては!となってしまうのかなと(わたしもそうでした)。

自分の話をすると、いまゆるゆるとZineを作っているのですが、そこにQRコードを載せたりとかして購買のページに誘導しちゃおうかなー?とか考えてたんですよ、最初。
でも、なんかそれってものすごいエゴだということに気づいたんです。
売りたい!買ってほしい!というエゴ。
よく考えたらわたし、チラシ作ってるんじゃないんだよなぁって。
何がしたいって、純粋に物語を読んで楽しんでほしいだけだよなぁと。
で、今日、そのページをなしにすることにしました。

李禹煥先生の展覧会を観にいかなかったら、表現を誤解したままだったかもしれないです。
エゴによる表現は、その表現を消費してくれと相手に言っているようなもんです。
チラシにしてしまった瞬間に消費されるように。

こちらは今日見た動画です。
葛飾北斎にめっちゃダメ出ししてる!ドキドキする!と思ったら版画の刷り師や彫り師を褒めています(先生ちょっと毒舌なの、そこも推せるわー)。

版画のお話の中での言葉も貼っておきましょう。

同じものを大量に刷ることは意味のあることじゃない、ましてや現代では量を刷ることは自重しなくてはならない。

量を刷ることは自重しなくてはならない、ここにも”消費”との関係が見えてくるような気がします。
昨日マガジンコーナーに書いたんですが、展覧会のグッズ、種類と量が多すぎるのってどうなの?というところにも少し通じるような気がしました。

昨日に引き続き、表現について思うように書いてみました。

最後まで読んでくださり、ありがとうございます!
ではまた!

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