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【掌編小説】葡萄と月光

登場人物は「その男の物語」と同じです。
続きではなく1話完結のフルーツスピンオフです。
(フルーツスピンオフという謎の造語……)

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物語が降りてくるのを待っている
窓からは月の光が差し込んで
古い木の床をほのかに揺らす

ノートパソコンの真っ白な画面
わたしはそれを見つめ椅子に座ったまま背筋を伸ばす

温かいハーブティーから
湯気がたっている
鼻から息を吸い込んで目を瞑る

あの日の教会の景色が広がる
いまこの瞬間に月の光を感じながら
あの日ステンドグラスから漏れていた光を感じる

「先生、書けませんか?」
不意に彼の声が聞こえた。
わたしが目を開けて後ろを振り向くと、ソファーテーブルに美しいベネチアンガラスの皿に盛られた葡萄を彼が置くところだった。
「少し休憩しませんか」
ゆったりとした黒のカットソーに麻のパンツ姿、洗いざらしの髪はいつの間にか少し伸びて目にかかっている。
彼はソファーに腰掛けると、葡萄を一粒取ってわたしに見せた。
「絶対おいしいやつですよ、これ。巨峰かな」
そう言って、葡萄を口に含む。
瑞々しい音がして、唇から果汁があふれそうになるのを、慌てて手皿で受け止める。
わたしは椅子から立ち上がるとウエットティッシュを持ってきて彼に渡した。
「すみません、思ったよりジューシーだった」
彼はそう言うと、ティッシュを取り唇を拭った。葡萄の紫がティッシュにうつる。
「わたしも休憩するわ」と彼の隣に座って葡萄を一粒取る。
同じように手皿で受け止めるようにして葡萄を食べる。
「本当だ、すごいジューシーでおいしい」
二人でしばらく無言のまま葡萄を食べた。
わたしが一粒取ると、彼も一粒取る。
月の光は部屋の中をゆっくりと移動し、葡萄とそこに伸びる彼のしなやかな指を白く照らした。

「今日はあの絵画に喩えるやつ、言わないんですか」
全ての葡萄を食べ終わり、彼が少しふざけた様子で言う。
「今日は絵の気分じゃなくてドビュッシー」
「月の光ですか?」
「ベタでごめんね」
「嫌いじゃないですよ、先生が何言ったって結局好きなので」
少し目にかかる前髪と月光だけの部屋のせいで、表情が窺い知れない。

人はどれほどの情報を視覚から得ているのだろうと思う。
見えているものなんて、この世界のほんのひとかけらなのに。

「さてと、休憩終わり」彼はそう言うとソファーから立ち上がり、フルーツ皿を持って静かに部屋を出ていった。

月は部屋を移動しきっていた。
わたしは机に戻るとデスクライトのスイッチを入れ、すっかりぬるくなったハーブティーのカップを手に取る。
深呼吸をすると、鼻の奥にまだ甘い葡萄の香りがした。

そして深い夜と共に、物語がそっと降りてきた。

(おわり)

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