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李孝石『蕎麦の花咲く頃』

調べ物をしていて、ひょんなことから、李孝石(イ・ヒョソク)の『蕎麦の花の咲く頃』という短編小説を読みました。

韓国では知らない人はいない、という名作だそうで、教科書に載ったりもしているそうです。
タイトルになぜか心惹かれて、気楽な気持ちで青空文庫にあるものを読みました。

行商をしている3人が驢馬に乗って次の市が立つ場所(大和テファ)へ夜通し移動している、というシーンです。抜粋しますね。

大和(テファ)までは七里の道のりで、二つの峠を越え一つの川を渡り、後は原っぱや山路を通らなければならなかったが、道は丁度長いなだらかな山腹にかかっていた。
真夜中をすぎた頃おいらしく、静謐しずけさのさなかで生きもののような月の息づかいが手にとるように聞え、大豆やとうもろこしの葉っぱが、ひときわ青く透かされた。
山腹は一面蕎麦そばの畑で、咲きはじめたばかりの白い花が、塩をふりかけたように月にむせた。
赤い茎の層が初々しく匂い、驢馬の足どりも軽い。狭い路みちは一人のほか通さないので、三人は驢馬に乗り、一列に歩いた。
鈴の音が颯爽と蕎麦畑の方へ流れてゆく。

李孝石『蕎麦の花咲く頃』

久しぶりに、小説の描写で鳥肌が立ちました。
こんなにも五感に訴えてくることってある?久しくあった?という感じ。あぁ、こういう文章に飢えていたのかもしれないなぁ、と。

少し話が逸れるかもしれないのですが、物語(漫画や絵本なども含む)には必ず奇抜なものが必要なんでしょうかね。
起承転結、と言いますし、もちろんそれを意識してお話を書くこともあるけれど、あまりにも”転”が体操の大車輪みたいにグルングルンに回っちゃってもなぁ、みたいな。
別の言い方をすると、「え?事件多くね?コナンくんなの?」みたいな。
もちろん、ミステリーを書くぞ、って思ってならいいんだけど。そうじゃない作品にまでミステリーみを入れなくても良いんじゃないのかな?と思うんです。

私が最近の小説をあまり読まないので、そうじゃないかもしれないけど。
なんとなく、物語に刺激を求めすぎてるのかなと思って。
でも、そういうのばかりになってしまうと、それはそれでつまらないような。

自分もその場所で同じ月を見ていたような錯覚に陥るまでの美しい文章というのには、そんなに出会えないですよね。
その新鮮な驚きは、物語の中で事件に出逢う驚きよりも、心に数百倍もの栄養になる気がするんです。

最近、CMでもYoutubeの動画やSNSでも、些細なことを「重大発表」と言ってみたり、薄っぺらいものに大仰な名前がついていたり。そういうものばかりに接していると、心の感度が下がっていく気がしています。

一編の詩でいい、物語の中の数フレーズでいい、絵本の一ページ、美術館で見た絵画の隅に見つけた二羽の小鳥でもいい、ささやかだけれど心が震えるようなものに、私は触れていたいと思う。

そういう意味では、最近購入したハン・ジョンウォンの『詩と散策』というエッセイはとてもおすすめです。

良かったら読んでみてください。(急な宣伝、誰よw)

ではまた!

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