見出し画像

君と僕と質量保存の法則 4

 視界が広くなるだけで、気分はずいぶん違うものだ。いや、今の気分が軽いのは、およそ二年ぶりの散髪という、僕にとっては大きなハードルを越えることができたからだろう。
「保護猫が、ちゃんとした飼い主に引き取られたみたいだね」
 椅子に腰かけてこちらを見ながら千波が言う。僕はベッドの上に座った状態で頭へ手をやった。頭が軽く感じるだけではない。手で触れても伸びた髪が指に絡みついてこない。さっぱりとした短髪。可もなく不可もない髪型だと思っていたが、やはり手入れのされた髪はそれだけで気持ちのいいものだ。
「さて」
 千波がぽんと手を打つ。僕の背筋が反射的に伸びた。
「いい飼い主に引き取られたなら、いいご飯を食べてふっくらしないと」
「ふっくら?」
 僕は困惑して千波の言葉を繰り返した。この三年と五ヶ月でだいぶ痩せてしまったとはいえ、高校時代までの僕はごく平均的な体型だった。ふっくらと言える体型だったことはない。
「ふっくらは言い過ぎた。せめて二十代男子の平均くらいになろう。高校の時くらいにね」
 千波が肩をすくめて言い直す。
「ところで、気になってたんだけど」
「何?」
 言うべきか言わざるべきか、続く言葉に詰まる。
「何が気になるの?」
 千波の真っ直ぐな視線が刺さる。気恥ずかしさに喉の途中でつかえてしまった言葉を、腹に力を込めて押し出す。
「高校時代の僕、金山さんの中でそこまで印象あった?」
 僕の言葉に、千波は小さく首を傾げた。
 高校時代の千波と僕は、三年間同じクラスだったことを除けば接点がないに等しい。登校時のバスは同じでも、帰りは同じバスには乗らなかった。出席番号も男女別だったからずいぶん離れていたし、席が近くなったこともない。僕が三年間彼女に注目し、思いを寄せていたのは事実だ。しかしそれは僕の一方的な思いであって、一匹狼のようなところがあった千波の中にも僕に対する特別な感情があったとは思えない。幽霊になった彼女とこうして顔を突き合わせている今でさえ、こんな情けない僕をここまで気にかけてくれる理由がいまいちピンときていないのだ。
「文芸通信」
 長い間を置いて、千波が一言、ぽつりと漏らした。予想していなかった、しかし懐かしくてたまらない単語に、思わず唾を飲み込んだ。
「文芸通信、毎月読んでたよ。担当Iのぼやきコーナーも」
「ぼやきコーナーじゃなくて、『担当Iのこぼし話』」
 反射的に訂正すると、千波はくすりと笑った。
「ごめんごめん。その『担当Iのこぼし話』が一番楽しみで、月末になると真っ先に図書室まで取りに行ってたんだよ」
 「文芸通信」とは、高校時代に僕が所属していた文芸同好会が毎月月末に発行し、普段の活動場所である図書室の前にフリーペーパーのように置いていた紙面だ。A4版の紙面の中に、四人しかいない同好会のメンバーの小さなコーナーを連ねているだけの構成だ。それぞれのコーナーでは、その月に読んで気に入った本の感想や、ドラマ化や映画化されて話題になった本に関するちょっとした情報、その他文芸に関するごく小さなネタを載せていた。
 「文芸通信」の編集担当だった僕だけは、自分のコーナー以外に「担当Iのこぼし話」と題した、編集後記のようなコーナーを別に持っていた。しかしそれも、メンバーの減少で僕が入学した年に「文芸部」から格下げになったらしい文芸同好会の様子を面白味もない文章で書き綴ったものだ。話題が見つからない時には、僕を除いて三人しかいないのになかなか集まらない原稿に対するぼやきを書き殴ることもあった。いよいよ書くネタに困って、文芸同好会を離れて自分のクラスの出来事を載せた月もあった。
 毎月たった十部しか印刷しなかった「文芸通信」は、そのほとんどが翌月には僕のメモ用紙になった。一番減っていた月で半分ほど。一部しか減っていなかったことも一度や二度ではない。ほとんど誰も読まないと知りながらも、不定期に図書室へふらりとやってきては黙って読書をして帰っていくだけのメンバーに一生懸命原稿を催促して、部長でもないのに一生懸命紙面を作って発行していた。何か「部活らしさ」を感じられる活動をしていたかった、今思えばただそれだけの動機だった。そんな「文芸通信」を、まさか千波が毎月楽しみに読んでくれていたとは思いもしなかった。
「驚いた顔だね」
 悪戯っぽく千波が笑う。僕はぽかんと口を開けて黙り込んでしまっていた。適切なリアクションが思いつかないが、何か言わなければ。
「な、なんで」
 精一杯絞り出した割に自分でも驚くほどへなへなとした声が出て、千波はぷっと噴き出した。
「私の読書好きを甘く見てもらっちゃ困るよ。生きてる間に千冊は読んだ」
 自慢げに胸を張る千波。彼女が休み時間にいつも読書をしていたのはよく知っている。
「そんなに本が好きなら、文芸同好会に入ればよかったのに」
 そうすれば、僕はもっと千波を見ていられたのに。
「読書中は、誰にも邪魔されたくないの」
 千波が口を尖らせる。その言葉を聞いて、千波が本を開いている休み時間の、どこか自分の世界に入り込んでいるような雰囲気に納得がいく。
 突然、目の前にいる千波の姿が、映像の乱れたテレビ中継のように一瞬歪んで見えた。慌てて目を擦り、まばたきを繰り返して千波の姿を再び見つめる。なんだか急に視力が落ちてしまったかのように、千波の像がはっきりと見えない。
「どうかした?」
「いや、なんでもない」
 怪訝な顔で僕を見てくる千波の態度に変わった様子はない。今まで彷徨っていた間に誰ともチャンネルが合わなかったらしい千波だ。僕に見えているこの姿も、何かの拍子に見えなくなってしまう不安定さの上に立っているものなのかもしれない。
「そろそろお昼だよ」
 不意に千波が話題を変えた。言われて壁に掛かった時計を見やると、もうすぐ正午になるところだ。
「しっかり食べないと、力がつかないよ」
「何も食べたくない」
 母親のような口調の千波に、僕はうなだれて返してしまった。千波がふうと息を吐くのが聞こえた。
「朝ご飯も、いつも食べてないじゃん。三食しっかり食べる。そうじゃないと元気が出てこないよ」
 僕は思わず頭を抱えてしまう。食欲もないのに食べ物をお腹に入れたところで、吐き気で動けなくなってしまうに決まっている。もうずっと前のことだが、あまりの気持ち悪さに吐いてしまったこともある。そんな姿を千波に見られたくはない。
「仕方ない」
 これまでしつこいくらいに根気強く僕を動かそうとしてきた千波が、きっぱりと諦めたかと思った。顔を上げた瞬間、千波の強い目で射抜かれてしまった。息が止まる。
「お茶碗に、ご飯を半分。それだけ食べられたら、今日は合格にしよう」
 返事の代わりに深く息を吐くことしかできなかった。僕はまたも千波の強さに押されて、部屋を出て居間へ向かわされることになった。階段を下りていると、遠くに正午のサイレンが聞こえた。
 居間に入ると、背中を丸めて食事に箸をつけている母と目が合った。母は目を丸くして「龍平」と一言呟き、ぴたりと箸を止めた。
「ご飯」
「え?」
 ほとんど声にならなかった言葉を、母は片方の眉を上げて聞き返した。
「ご飯、お茶碗に半分、下さい」
「ああ、炊飯器に余ってるから、よそっていいよ」
 信じられないものを見るような目で、母はそう返した。
 居間から繋がる台所へ向かう足がぎこちなく動くのを感じる。炊飯器の蓋を開け、久しぶりに手に取る自分の茶碗に白米を半分ほどよそう。その手も自分のものでないように動きが悪い。居間へ戻って、食卓テーブルまでたどり着き、自分の本来の定位置である母の真向かいに着席するまでが異様に長い道のりに感じた。
 いただきますも言わずに、白米を一口分、恐る恐る箸で口へ運ぶ。正面に座る母が、お茶漬けを食べる手を止めて固唾を飲んでこちらを見ている。口に入れた白米をゆっくりと咀嚼する。冷えたご飯では風味も何もない。それ以前に、普段は母がストックしている食パンを三分の一ほど、それも両親が眠りについた深夜にかじっていればいい方だった僕が、母と向かい合って食事をとっている。たとえ炊きたてのご飯であっても、味などわかるわけがなかった。ごくりと飲み込んだ白米は、口に入れた量よりも大きな塊のように感じた。
「どうしたの、いきなり。昨日の床屋もそうだけど」
 引きこもりだった息子の急な変化に、母は戸惑っているようだった。先ほどから、母の手に持った箸がまったく動いていない。
「うん、まあ」
 僕は咄嗟にごまかした。死んだ高校の同級生が幽霊になって現れて、変わり果てた僕を高校時代の姿に戻そうとお尻を叩いている。そんなことを正直に言ってしまえば、いよいよ頭がおかしくなったと思われてかかりつけの精神科へ連れていかれるかもしれない。そうでなくても、母には見えないらしい千波の存在を打ち明けたところで、理解を得るのは難しい。
 母は少しの間僕を思案顔で見つめて、やがて止まっていた箸を再び動かした。
「龍平の気持ちが変わってきたんなら、なんでもいいわ」
 心なしか柔らかい口調だった。僕は必死に白米を胃へ流し込み、母は自分の茶碗が空になってもその様子をじっと眺めていた。
 突然落ちてきた食べ物を消化しようと、胃が一生懸命動いているのがわかった。最初はそれを不快に感じ、微かな吐き気を覚えたが、よく咀嚼してゆっくりと食べたのが良かったのか、危惧していたほど気分が悪くなることなく茶碗の中身を平らげることができた。
 茶碗を台所へ下げてからふと見ると、居間の壁際に置いているソファーにちょこんと腰かけた千波が笑顔でピースサインを作っていた。そのすぐ近くに立ってテレビにリモコンを向けている母には、やはりその姿を感知することはできないようだった。

いただいたサポートて甘い物を買ってきてモリモリ書きます。脳には糖分がいいらしいので。