午前の保健室、ふたりの帰り道
高校受験は頑張ったと思う。10歳上の兄が卒業した憧れの高校に自分も入りたくて、頑張って勉強して、面接練習もして、学年トップで入学した。それがどうだ。2年生の夏休みが近づく今、私は立派な保健室登校の身だ。
他の生徒の登校時間を避けて保健室に潜り込み、それでもだんだん身体に鉛を詰め込まれていくような気分になって、母が持たせてくれた弁当も口にできず、昼休みが始まらないうちにとぼとぼと家路へ引き返す。これが、私の学校生活だ。
今日も、母も兄も仕事で留守の家にひとり帰る。こんなことを続けていたら、2年生は留年かな。そんなことを考える。
「ハヅキ!」
重い足取りで歩く私の背中に、弾んだ声。振り返ると、焦げ茶色のランドセルを背負ったボサボサの髪の小さな男の子が追いかけてきていた。
「ツバサ」
男の子、ツバサは私の隣に追い付いて、並んで歩き出す。私も、ツバサの歩幅に合わせて歩調を落とす。
「昨日貸した漫画、読んだ?」
「めっちゃ面白かったよ!もう読み終わった!」
目を輝かせて話すツバサはとても無邪気で、学校で詰め込まれた鉛が身体から出ていくような気分になる。
私とツバサは保健室登校仲間だ。出会ったのは今年の春。冬に一足先に保健室登校を始めた私の帰り道に、気が付いたらツバサがいつも現れるようになっていた。2年生で転校してきたツバサは、新しい小学校に馴染めなくて、保健室で午前中だけ勉強して帰るのだという。私はこの道を駅まで歩くが、ツバサはその途中の団地に住んでいる。ひょんな縁で帰りを共にするうちに、私とツバサは、漫画の貸し借りや他愛もない話で盛り上がる仲になった。
「じゃあ、明日漫画返すから、続き貸してね」
「いいよ。また明日」
団地の入口で手を振って別れる。駅まではこの先を5分ほど歩く。
電車で10分、駅から自転車で5分。家にたどり着いても誰もいない。部屋にこもって食べる母の弁当も味がしない。ひとりの午後、本棚に並ぶ、兄がもう読まないからと全巻譲ってくれた古い少年漫画を取り出して、ツバサの笑顔を想像するのが少しの心の潤いだ。
「先生」
「何?」
次の日、私はまた保健室にいて、ふと保健室の先生に問いかけてみた。先生はなにやら仕事をしながら返事をしてきた。
「私、なんでこんなになったんだろう」
「そうだねえ」
私と歳のそう離れていない若い女性である保健室の先生は、時々話しかければフランクに会話を交わしてくれる。しかしこの時は、少しの間を置いて、噛み締めるように言葉を返した。
「葉月ちゃんは、怖いんじゃない?」
「怖い?」
「ここの高校は、進学率も就職率もほぼ100%で、夢を叶えるならここって志望する子がたくさんいる。みんな、将来どうなりたいか夢を描いて来る。でも、葉月ちゃんは、お兄ちゃんと同じ高校に入りたかった。入学がゴールでその先がなかった。学校って、ただ勉強するだけの場所じゃないから、葉月ちゃんが躓いてるのはそこじゃないかな。行く先の見えない道なき道を、どこに向かってどう歩けばいいのかわからなくて、怖い」
「そっかあ…」
そうかもしれないな、と思った。私は兄への憧れだけで頑張ってここへ来た。だがいざ入学してみると、高い志を内に秘めてキラキラ輝いている同級生ばかりで、だんだんついていけなくなった。のかもしれない。
帰り道、先生の言葉を反芻しながらぼんやり歩いていた。
「ハヅキ!」
振り返ってツバサの姿を目視した時、あれ、と思った。ツバサは左足の膝下あたりに大きな絆創膏を貼り、少し足を引きずるようにしてこちらへ駆けてくる。表情にもいつもの元気がない。
「ツバサ、足どうしたの」
「ああ、これ?なんでもないよ」
なんでもないわけがないはずなのに、うまく突っ込んで聞き出すことが私にはできなかった。
「ハヅキごめん、今日、漫画持ってくるの忘れちゃった。うちにはあるから、明日持ってくる。待ってて」
「うん、いいけど。なんかあった?」
「なんにもないよ」
それきりツバサは自分のことには触れさせず、当たり障りのない話ばかりで団地に着いてしまった。
「また明日!」
あれだけ仲良くしていたはずなのに、嘘の元気で手を振ってみせるツバサがやけに気がかりで、ショックで、その日はなんだか気分が沈んだままだった。
「先生」
「ん?」
今日も保健室の先生は仕事の片手間に私の声に返事をする。
「私、ちょっとだけ、ほんのちょっとだけだけど、考えたんだ。道」
「どんな?」
先生が仕事の手を止めた。まっすぐこちらを見る黒い瞳が私の心の内を覗き込むようだ。
「小学生とかの小さい子がさ、この人は絶対味方だって思って、困った時に助けを求めてくれるような、そういう立場の大人になりたい。駆け込み寺みたいな」
私の言葉に先生は笑った。馬鹿にした笑いではない、嬉しそうな微笑みだ。
「ちょっとこっちおいで。葉月ちゃんに、これから行く道のヒントだけ見せてあげる」
先生が自分の机の左側を空け、傍らのパソコンをカチカチと操作し始めた。私は先生のそばへ向かっていきながら、停滞した人生の時間が動き出すのを感じた。
いただいたサポートて甘い物を買ってきてモリモリ書きます。脳には糖分がいいらしいので。