ハ調のワルツに両手をつけて

「翔太、お前に頼みたいことがあるんだけど」
朝一の講義が終わって早々に声をかけてきたのは、同期で中学校からの友人の春馬だった。
「何?」
「来ればわかる」
 僕は頭にクエスチョンマークを浮かべながら、春馬に連れられてサークル棟までやってきた。春馬が所属する軽音楽サークルの部室の前で、セミロングのまっすぐな黒髪に落ち着いた服装の見慣れない女子学生が不安そうに立っている。春馬が近づいたのに気付いた彼女は慌てた様子でこちらに身体を向けた。大きなショルダーバッグからノートとペンを取り出し、開いたページには「はじめまして。松川千尋といいます。耳が聞こえません。ノートテイクをしてくれる人を探しています」と書かれている。春馬が、わかるだろう?とでも言いたげな表情でこちらを見ながら黙っている。
「大丈夫、手話できるので」
 僕の方も事情を理解して、口に出すのと同じ言葉を手話でも伝えた。松川さんというらしい女子学生は、一瞬目を丸くしてからノートとペンをバッグにしまい込んで、手話で話し始めた。
“長谷川さんのお友達って聞きました。手話できるなんてびっくりしました”
「僕の妹が聞こえない人なんです」
“そうなんですか”
 進学に伴って年子の妹と離れて、ネイティブな手話に少しの間触れなかったせいか、少し手の動きがぎこちなかったかもしれない。それでも、幼い頃から慣れた言語でもある手話はきちんと身体に染み込んでいるようだ。
「一年生ですか?」
“いえ、聴講生です”
「そうなんですね」
“楽譜の勉強をしたくて”
「楽譜?」
 松川さんが、指揮棒を振る動作の後に四本の指で譜面を表す動きをしたのを、見間違いかと驚いた。
“聞こえないけど、楽譜が好きで”
「なるほど」
 ここは音楽大学で、僕と春馬(長谷川さんとは春馬のことだ)は作曲専攻だ。基本的に、耳の聞こえない人と学内で接することはない。なんだか手話が懐かしい一方で新鮮な気分だ。
「仲良くなった軽音の奴の知り合いで、今年度の一年間だけいるんだ。千尋ちゃん。俺らと同い年だよ。俺の友達に耳の聞こえない人に慣れてる奴がいるって言ったら紹介してくれって。俺も一緒にノートテイカーやるから、力貸してほしいんだ」
「うん、それはいいんだけど……」
「全部の講義じゃなくていいんだ。千尋ちゃんが聴講するのが作曲専攻の必修だからってだけだし」
「わかった」
松川さんが春馬の話していることを知りたそうだったので要約して伝えて、「ノートテイカーやらせてもらいます。よろしく」と手話を交えて言った。松川さんがはにかんで“ありがとうございます。よろしくお願いします”と言ったのを見て、ふと妹の面影が重なった。

こうして始まった、春馬と松川さんとの三人組で講義を受ける日々は、思いのほか楽しいものだった。僕と春馬は交代でパソコンを使って講義の内容を文字に起こした。春馬ははじめから、その昔チャットで鍛えたタイピングと頭の回転の速さを見せつけてきた。一方の僕は、パソコンに要約文をどんどん打ち込んでいくので精一杯だったが、松川さんが何か春馬に伝えたい時にいちいち筆談で伝えなくていいように通訳の役割を果たした。お互いを「千尋」「春馬」「翔太」と呼び合うようになってからは特に、僕達三人のチームワークはいい調子なのではないかと感じるようになっていた。ついでのようだが、ノートテイカーをしながら受けている講義の集中力と理解力が、そうでない講義よりも抜群に上がっている気もしていた。
春馬は少しずつ手話を覚え始めた。聾者の手話と僕の手話は少し違っているから、千尋と僕の両方から手話を教わっている春馬は戸惑うかと思ったが、夏休みが始まる頃には簡単な会話なら三人で手話を交えて話すことができるようになっていた。僕は小さな頃から妹を中心とした家族と手話で会話をしていたこともあり、普通に暮らしてきた人がどれくらいの期間で手話をマスターできるのかはよく知らない。それでも春馬の努力はすごいと純粋に思う。

夏休み、集中講義のない期間に合わせて、僕は春馬と連れ立って実家に帰省した。春馬は学生寮では奇遇にも隣の部屋に住んでいるが、実家はというと少し遠い。聾学校に通う妹にも会ったことが数回あったかどうかだ。実家が個人商店の春馬は、休み中は店の手伝いをさせられるようだが、僕はのんびりすることにした。同じく夏休み中の妹は小姑のような目でそんな僕を見ている。
“お兄ちゃん、だらしないよ”
 いつもながら、妹は声つきならぬ手つきが鋭い。
「うるさいな」
“大学で好きな人いるの?”
ソファーに寝転んでいた僕はがばりと起き上がった。
「何言ってんの?」
“いや、好きな人くらいできたかなと思って”
「なんだ」
また横になった僕を覗き見て、“いるの?”と聞いてくる妹に、僕は「いないよ」とだけ返して寝たふりをした。
恋愛は苦手だ。高校に入りたての頃、クラスで一番人気のあった女子に告白されて、そんなことは初めてだったからわけもわからず付き合い出したものの、無口でいつも五線譜にばかり噛り付いていて、吹奏楽部でトランペットを吹いている時だけが唯一輝いているとよく言われていた僕は周りからやたらとからかわれることになった。僕も彼女もそれが恥ずかしくて、すぐに別れてしまい、二年生でクラスが変わってからはとうとう関わりすらなくなってしまった。それが唯一の恋愛経験である僕に、妹は何のつもりかよく恋愛の話を振ってくる。その手の話の時には僕のことを見下しているような気がしなくもないが、兄としてそんな目線に屈しないようにしている。
学生寮に戻る前日の夕食時に、ふと思った。妹は少しギャルのような趣味があるし、気が短くて多少まくし立てるような手話を使うが、千尋はぞの真逆だ。一緒にいて、落ち着いて話ができる。気性も大人しい。そして何より、表情が与える印象がやわらかい。恋愛と一緒に妹以外の女子も少し苦手になってしまったかと思った僕だが、千尋には自然に接することができているだろうか。もしできているなら、千尋の人柄と、いつも一緒にいる春馬のおかげだ。

秋になり、春馬は「親に怒られるから」とアルバイトを始めた。一方の僕はアルバイトを何かしようと思いつつもまだどこにも面接に行っておらず、自然と千尋のいる時間を春馬抜きで過ごすことが増えた。いくら慣れてきた千尋が相手でも、女子と二人で何を話せばいいのかわからなくて、千尋がいる空き時間にはいつも練習室でピアノを弾いて、恐らくめちゃくちゃだと鼻で笑われるような曲を作っては楽譜に書き起こしていた。千尋は講義の復習なのかわからないがパソコンに向かっているか、僕の様子を興味深そうに見ているだけで、特に話は広がらない。
そんなことで、気付けば年が暮れようとしていた。
「翔太、最近千尋とどうよ?」
偶然会った学生寮の廊下で突然春馬に問われ、僕は首を傾げた。
「何が?」
「何がって、もしかして付き合ってるとかないのかよ。お前バカか?俺がなんでバイト始めたと思ってんだよ」
呆れたと言わんばかりに顔を背ける春馬。
「親が怒るとかじゃなかったっけ」
「いやいや、それは確かにある。あるけどそうじゃなくて」
「なんだよ」
春馬は大げさに溜め息をついた。
「千尋の気持ち、わかってやれよ。お前いくつだ?ってかお前も好きだろ、千尋のこと」
「何なんだよ。好きとかよくわかんねえよ」
春馬ががっしりと僕の両肩に手をかけた。僕の背筋が伸びる。
「春休みに入ったら、もう千尋には会えないぞ。いいのかよ。良くないだろ」
今年度しか在籍しない聴講生の千尋は、来年の春にはいない。春休みに入ればノートテイカーの役割も終わりだ。忘れていた。しかし春馬は僕にどうしろというのだ。千尋に恋愛感情を持った覚えはない。それ以前に、そんな感情がそもそもよくわからない。僕は、春馬と二人で千尋の代わりに講義を聴き取ったり、合間にくだらない話をしたり、そんなことが楽しいだけだった。
春馬と別れて部屋に戻ってから、千尋のことが好きなのか、と自分に問うてみる。それはまあ、友人として好きではある。気の置けない大切な存在でもある。しかし、それ以上の感情を持っているのかと考えた時、果たしてそれはどうだろうか。確かに、春休みに入って会えなくなるのは寂しい。意識した途端に急激に寂しくなってきた。とはいえ、それは千尋に恋愛感情があるからであるという証明にはならない。親しくしていた人と会えなくなるのは寂しく思えて当然だろう。
「わかんないなあ……」
独りごちる言葉は妙に部屋に反響したような気がした。

春休みがいよいよ迫ってきた。春馬から「千尋のこと好きだろ」などと言われてからも僕と千尋の仲は特に変わらなかった。今日も、僕は相変わらず練習室でピアノと五線譜を行ったり来たりしているし、千尋はそんな僕をいつもと同じく眺めている。今日は僕の頭の中に作曲のアイデアがよく浮かぶ日で、ついいつもより熱中して出来上がった音楽を譜面に起こしていた。気付くと、千尋が身を乗り出して僕の手元を覗き込んでいる。
「気になる?」
手話を交えて聞いてみると、千尋ははっと身体を引っ込めて笑った。
“どんな曲書いてるのかなと思って”
「めちゃくちゃだよ。ゼミの先輩とか先生に見せたら笑われる」
“そうなの?”
「うん。でも、僕は綺麗な曲だと思って書いてる」
“へえ”
手話で話すために一度置いたペンを持ち直して続きを書こうとした時、ふと今更ながら気になったことがあって再びペンを置いた。
「そういえば」
“何?”
「千尋はなんで楽譜の勉強がしたいと思ったの?」
“なんだ、やっと聞いてくれるんだ”
千尋はくすくすと笑った。
“私のお母さんがピアノの先生で、音楽に興味があったの”
「ピアノの先生?」
“そう。でも、私が聞こえないから悪いと思ってるみたいで、あんまり音楽の話してくれなくて”
「ふうん」
“私、お母さんの見てる楽譜を覗き見しながらピアノに手をくっつけて振動を聞くのが好きだったんだ”
こうやって、というように千尋はアップライトピアノの隣に立って、右側の面に両手をぴたりとつけた。
”ピアノに触りながら楽譜を見てると、音楽が聴こえるような気がしてくるの“
「そうなんだ」
妹は全く音楽に親しまないから、聞こえない人と音楽の話は僕には興味深く思えた。
“音楽に関わる仕事がしたいと思ったけど、みんな反対した。生まれつき聞こえないのに、できるわけないって”
「うん」
“でも、みんなが知らないだけで、どこかに私も関われる分野があると思ったの。それで、ここに来たんだ。楽譜なら、目に見えるから”
「何か見つけた?できること」
少し悲しそうな目をして千尋が首を横に振る。
“もういいんだ。私、この一年楽しかった。この先音楽に関われなくても、もう十分だと思う。本当だよ”
「諦めるって意味?」
なんだか、千尋の手話を読みながらつらくなってしまって出た言葉だった。
“諦める。でも、悲しくないよ。私にもできることが絶対あるって信じてる”
ただ素直に、千尋は強いと思った。彼女が悲しくないと言うなら、僕も暗い気持ちになっている場合ではないだろう。
“その曲、弾いてみて”
千尋が僕の書きかけの譜面を指して催促する。そして、その手がピアノの側面に触れる。
「まだ途中だよ」
いいの、と言わんばかりの目で頷く千尋の意図はわかりかねる。しかし、弾けと言われて断る理由はない。恥ずかしがるのも今更だ。そう思い、少し緊張して鍵盤に指を置いた。
ハ長調のワルツ。テンポはアンダンテ。ゆったりと踊る女性のスカートがふわふわ揺れるイメージで書いた曲だ。弾いているうちに、まだ書いていなかった終結部分のアイデアが浮かび、最後は即興で弾いた。
「どう?」
ノートテイカーを引き受けた時を思い出させる表情の千尋は、結局感想を教えてはくれなかった。

年月が経つのは早いものだ。大学を出た僕は作曲家の道に進まず、まあ進めなかったとも言うが、それはともかく無難に大手の楽器店で働いている。
「翔太!これ読めよ!」
大学時代にアルバイトで働いていた書店でそのまま正社員になった春馬が、ある日突然僕のアパートに押しかけてきたかと思えば、一冊の文芸誌を無理矢理に手渡してきた。それがなんなのか理解が追い付かず、表紙をめくろうとすると、読めと言った言葉と裏腹に春馬がそれを制した。
「時間かけて、ゆっくり読めよ。じゃ、俺の用事はそれだけ」
嵐のように去っていった春馬を呆然と見送って、部屋に引っ込む。座椅子に腰を下ろして最初のページを開くと、普段は楽譜が印刷された冊子ばかり相手にしている僕にはずいぶん久々に思える縦書きの文章が連なっている。パラパラとページをめくっていくと、途中のページに春馬の勤務先の書店名が書かれた栞が挟まっていた。それは、この文芸誌の新人賞に入選したらしい作品のページだった。
「これを読めってことか……?」
ぶつくさと口に出たのも構わず、あまり深く考えることなく最初の一行を目で追ってみる。ところが、気が付いた時には夢中になって最後まで読み終えていた。
春馬が読ませたかったのは、ある聾者の私小説のようなものだった。生まれつき聞こえない女性が、ピアノ講師の母親とそのピアノが奏でる音楽への強い憧れに突き動かされ、反対を押し切って聴講生として音楽大学に乗り込む。音楽を学んでいく中での喜び、挫折。講義の聴講を助けてくれるノートテイカーとの楽しい交流。聞こえる音大生と聞こえない聴講生との無視できない壁。女性はやがて音楽の道に見切りをつけるが、それまでの経験を書き残しておこうと一念発起して筆を執る。そういった物語だった。
僕にはこの私小説の著者が何者かすぐにわかった。だからこそ春馬はこれを押しつけてきたのだ。

“耳の聞こえない聴講生に最初から手話で話しかけてきて、ずっと何の疑問も抱かずそばにいる、まるで私の人生にはじめから用意されていたかのようなノートテイカー。一方で、めちゃくちゃで笑われると言いながら熱心に譜面とピアノに向かう彼は、手を触れるのも躊躇うほど眩しかった。”
“冬の練習室、西日の差す中で初めて触れた彼の音楽。それは両手を伝って穏やかに身体に響いた。音楽の化身が乗り移ったような彼の運指が、走り書きの譜面のどこをなぞっているのか、音を知らない耳にもわかるようだった。途中から書きかけの譜面の続きを即興で弾いていたことを指摘するのも忘れるほどに、あの時、私は音楽とともにあった。”
“私は彼を特別に思っていた。その分、自分の人生から彼が姿を消すのが怖かった。日に日に強くなるその感情の正体を、たとえば恋愛と表すのか、音楽の神様のように思っていた彼への憧れに過ぎないのか、答えは今も出ていない。確かなことは、あの日の両手の振動を、私は今でも鮮明に思い出すことができるということだ。”
僕があれから千尋のことを忘れてしまっていたかと問われれば、答えはノーだ。千尋への思いをどう表すのが正しいのかはやはりわからない。それでも、僕も未だにあの日をよく覚えている。あのワルツでイメージする美しく踊る女性が、どうしてもいつも千尋の姿をしていることを、春馬に伝えたらなんと言うだろう。

いただいたサポートて甘い物を買ってきてモリモリ書きます。脳には糖分がいいらしいので。