【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_17_小学生編 06
Y字の川が流れている山中埼。北東から南へと流れる、三渡川《みわたりがわ》はレジャー施設やキャンプ地、上流に行くと渓流釣りが出来るなど、上流から下流にかけてレジャースポットがたくさんある。
僕たちの通っている小学校は、六月に入ると三渡川のレジャースポットに遠足に行くのが恒例で、学園が上がるごとに上流の施設を利用し、六年になったら川下りで絞めるのが伝統だ。
なんでも、この川下りは、山中埼で古くから残っている風習の名残りらしい。
一年の時は下流付近でピクニック。二年の時は少し上まで軽めのハイキング。三年になると、ようやく川の中間あたりにある、アスレチック施設へ遠足だ。ただ単純に体を動かす内容から、一気にゲーム性が広がるのだ。僕も含めてクラス中が湧き立った。
「俊雄は蚊に刺されやすいから、虫よけのスプレーを忘れないでね。あと、重いかもしれないけど水筒は二本、それに」
「もういいよ、母さん」
母さんが僕のリュックを点検して、「あれがない。これがない」とごそごそと色んなものを詰め込んでいく。僕は学校のしおり通りにつめこんでいるのに、母はそれだけでは安心できないらしい。
保護者の連絡網から、他所のクラスメイト達まで熊谷のイジメに加担していることを母は知っていた。そして、僕が何度も助けたにも関わらず、彼女はいつまでも頑なに僕を拒絶していることもだ。
一年のピクニックの時、熊谷は白い水連がたくさん咲いている池に突き落とされて、救急車を呼ぶ事態となった。
二年のハイキングの時は、宇都木先生のちかくを地縛霊のようにキープして、事なきを得たと思ったら、先生ごと階段から突き落とされて、また救急車を呼んだ。さすがに、警察沙汰になりイジメの問題も解決するかと思ったら、宇都木先生が突き落とした生徒を庇ったことでなぁなぁに済まされてしまった。
今年はどうなるのか分からない。
宇都木先生がダメなら、僕たち四人に憑りつくかもしれない。なにせ、熊谷は五代くんに惚れているのだ。校長先生を筆頭とした教師たちは、イジメを認めないし、生徒たち――被害者も加害者も含めて、すでに見捨てられている。
杉藤家の方も、直接僕に被害が及んでいないから、父の方が解決したくても出来ない状態だ。バブルがはじけて、日本の景気全体が冷え込んだこともあるせいか、杉藤家の威光にも陰りが差し始めた。今まで、一を命令すれば十までやってくれたことが、今や五にも満たずに、空気すらも読めない。父はその状態が許せないらしい。
懐中電灯に救急キット、虫よけスプレー……っと、母の中では、僕が熊谷のイジメに巻き込まれて、遠足で遭難することが決定しているのだ。
隣の部屋で妹が泣いている声が聞こえるのだが、僕に構わず行った方がいいのではないか、下のリビングで、アンパンマンをみている弟も、そろそろ、バイキンマンが殴られるシーンに飽きて来る頃だろう。
母は僕の心配よりも、母を必要としているか弱い存在に手を伸ばしてほしい。そんな、雨が降りそうな日の傘みたいなジンクスをこめて、リュックの許容量をこえた荷物を詰め込むのは勘弁してもらいたい。
……まぁ、その懸念は当日的中してしまったのだが。
僕は僕で適度なバカになっていた。友達が出来て、子供らしい交流をしたことで、適度な愚かさを身に着けた結果だと思う。
風船のようにパンパンに膨らんだリュックサックを見て思った。
あ、これ修行になる。と。
小学校の僕が頭に思い浮かべたのは、ドラゴンボールの孫悟空が重たい武具をつけて修行をするシーンだ。強くなりたいと思っていた僕は、母の心遣いに煩わしさを覚えつつも、もしかしたら修行のチャンスだと思ってしまった。
ケンカの仕方も分からないし、大川くんの家の手伝いも断られた。そうなったら、自分が考えられる限りで自分を鍛えるしかない。
しおりに簡単に描かれていた、遠足に行くアスレチック施設の遊具も、なんだかマンガの修行シーンみたいでワクワクする。
とはいえ。
「重い……」
背負うには、このままだと重すぎた。僕は母には内緒で、自分が歩ける重さになるまで荷物を減らして当日に臨んだ。
ラジカセやトランシーバーはいくら何でも重すぎる。
「お前バカだろ」
当然、僕の大荷物を見た大川くんは呆れて、五代くんと園生くんは「しゅぎょう」と言う単語に目を輝かせた。
「おい、バスまで時間があるから、荷物を適当にどこか置いとけ」
「えー」
不満そうな僕に、大川くんは腰に手を当てて盛大にため息をついた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
……数分前。
1993年6月5日(土曜日)
午前8時30分頃 山中埼市 黄坂区《きさかく》 黄坂駅前広場のバスロータリー
こうして考えると懐かしい。僕たちがまだ小学校のころは、日曜日しか休みがなかった。学校が土曜日も休みになったのは、高校あたりだったかな。
子供たちが保護者に連れられて、担任の宇都木《うつぎ》先生がいる集合場所にわらわら集まっていく。
園生くんは、叔父らしき猿顔の男に連れられて、駅の改札から広場に入り、大川くんは運送屋らしく、荷物のようにトラックの荷台から降ろされて、五代くんは赤い車に乗ってやってきた。
僕たちは五代くんが、車から降りてくるを見つけて、声をかけようとするが。
――どんっ!
え?
助手席から降りようとした五代くんの背中を、運転席にいる五代くんの母親が容赦なく背中を押した。
不意をつかれた五代くんは、受け身がうまくとれず、中途半端に体を庇った体勢のまま地面に打ち捨てられて、リュックの荷物がぐしゃりと潰れた音を立てる。
「……っ」
「ゴー!」
「五代くん!」
「公博!」
僕たちが慌てて駆け寄ると、僕たちの顔にかぶせるように排気ガスをふかして、赤い車が走り去った。排気ガスの匂いにまみれて、強い憎悪の匂いが僕たちに絡みつく。
「ごめん、私の母さんが、ごめん。兄さんの受験が近づいて、気が立っているんだ」
ゲホゲホ咽《む》せ返る僕たちに、五代くんは申し訳なさそうな顔で立ち上がった。見ていて痛々しい姿だった。
僕はリュックに入ってある救急セットを取り出して、五代くんの傷の手当てする。体を庇って擦りむいた肘《ひじ》から、赤い血が滴って今にも広場の地面に落ちそうだった。患部に消毒と塗り薬、そこに大きな絆創膏を貼るだけの手当て。……これだけじゃ足りない。体の傷じゃなくて肝心な部分が傷ついているのが分かるから。
「ゴーの母ちゃん、授業参観でも見たけど、自分の子供に対する態度じゃないよな」
「……だけど、僕はうらやましいよ。叔父さんは絶対来てくれないし、父さんも母さんも、忙しくて来れないもの。今日来てくれたのは、仕方がなかったからだし」
大川くんは赤い車が去った方向を睨みつけて、園生くんはいまだに苦しそうに咽ている。僕は五代くんを立たせて、遠巻きに見ているクラスメイト達に気付いた。まるで彼らは、動物園の動物を見るような眼で、僕たち四人をみていた。
自分たちには一切関係ない、だけど、のぞき込んで突きまわしたい――残酷な好奇心と、無関心な冷淡さが同居している眼差しだ。
クラスメイト達の中で、改めて僕たちは異物なのだと思い知った。自分たちの楽しみをいつも邪魔する異物なのだと。徐々に集まる視線は、毒矢のように悪意をまとわせている。彼らの悪意が、僕以外のほうに向かないことを、僕は切に願っている。
「なぁ、俊雄。このリュック、なんか大きい気がするんだけど。なにが入っているんだ?」
「あぁ、これは」
クラスメイト達の視線が、僕のリュックだと思った大川くんが、僕にたずねた。だから、素直に答えて先述の「お前バカだろ」に帰結した。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
「なんだか、静かだな」
五代くんがそう言うと、たしかにいつもより静かなことに気付いた。五代くんのことで頭がいっぱいだったから、指摘されるまで気づかなかった。
そうだ。いつも聞いていた筈の金切り声が聞こえない。男子が冷やかす声も、女子のくすくすとした笑い声も聞こえない。
なんともいえない静かな空気が、僕たちのクラス三年五組だけ流れた。他のクラスの生徒たちは、おとなしくしゃがんで先生の話を聞いているのに、宇都木先生だけが、どこか慌てた風に他の先生と話し合って、バタバタと駅の方に走っていく。
ややあって、もどってきた先生は言った。
「今日は、残念なことに熊谷さんはお休みです。みんな、熊谷さんの分まで今日は楽しみましょうね」
どうやら、駅で電話を借りてきたみたいだ。
生徒たちに説明する先生の顔は、いくぶんホッとした感じだった。
僕の隣にいる五代くんなんか、自分可哀そうアピールの熊谷によるウザがらみがないとわかって、ものすごく晴れやかな笑顔で、拳を作りガッツポーズをとっている。五代くんが元気を取り戻したことで、僕は生まれて初めて熊谷に感謝した。
休んでくれてありがとう。もう、ずっと休んでくれていいから。
二度と学校に来ないでね。
「えーっ、なんでー」
あからさまながっくりとした声に、先生は作り笑顔を浮かべながら言った。
宮ノ川《みやのがわ》小学校では、あまりクラス替えもしないし担任の先生も変えない。熊谷イジメに振り回された三年間は、宇都木先生の神経を図太くするのに一役買った。入学式に見せた狼狽ぶりに比べると、格段の成長と言えるだろう。……とはいえ、イジメ問題を放置している時点で、人間として終わっているのかもしれない。
「風邪をひいちゃったみたいなんだって、だから今日は熊谷さんは「お休み」なの。クラスのみんなは風邪に気を付けましょうね」
《お休み》の部分を幾分強調して言う先生は、不満そうなクラスメイト達に対して、どこか冷ややかに対応していた。
まぁ、一年や二年の時を振り返れば、熊谷が休みを言い出すのも分かる気がする。僕たちが遠足に行くアスレチックには、川に浮かべたイカダを飛び乗って向こう岸にいくヤツや、ネットの梯子を上る大きな滑り台があるのだ。
いつも彼女をイジメている男子たちの中では、この遠足で徹底的に彼女をイジメぬくつもりだったのだろう。だって、いつもとちがう熊谷を使った遊びができるのだ――自分より弱いものをイジメることが好きになったクラスメイト達、他所のクラスも含めて三年の全体、一学年三十名前後の五クラス、約150名にとって、今日という日がどれほど待ち望んでいたことか……僕は考えたくないなぁ。
僕たちは、一応熊谷を助けてきたから、クラスメイトたちからは当然浮いていた。そのせいで今回の遠足なんか、五、六人で一班の割り当てだったのに、僕たち四人に混ざろうなんてクラスメイトはいなかった。
子供時代って残酷だよね。成長すると、どうしてこんなことが出来たのか、何度も思い出して胸を痛めて後悔する。しかも、その後悔は被害者に対してなんの慰めにもならない――非生産的な後悔なんだ。
そんな意味もない後悔を、山のように積み重ねる子供時代ってなんなんだろう。返すことが出来ない借金のように積み重なって、清算したくても清算できない。というよりも、清算したいという気持ちそれ自体が、反省が足りない証拠なのかもしれない。
そう、僕は後悔している。熊谷に対してでは――決してない。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
遠足中は粛々と時間が消化された。
宙吊りにされた丸太を渡る橋で、大川くんが何度も足を滑らせそうになったり、園生くんが、イカダを飛び越えて向こう岸に行くアスレチックで一等賞をとったり、五代くんはいつもの調子を取り戻して、ターザンごっこを楽しんだり、僕も重たいリュックを背負いながらネットの梯子を上って修行ごっこに勤《いそ》しんだ。
アクシデントと言えば僕のリュックが重すぎて、途中で根を上げて、リュックの中身を五代くんと園生くんのリュックに詰めて重さを分散させたところだろうか。
いつもなら、熊谷をからかって毎日がパーティーのように騒いでいたクラスが、お通夜のように静かになって大人しく言うことを聞くものだから、宇都木先生も油断していたんだと思う。
僕も草が焼ける匂いを感じていた。匂いの発生源はクラスメイト達だ。彼らは身勝手に、イジメられない不満をくすぶらせていた。
彼らはずっと想像していた。この瞬間に、熊谷を川へ突き飛ばしたらどうなるか。ターザンごっこの着地地点で殴りかかったら、どんな反応をするのか。ネットの梯子から蹴って突き落としたら、どんな風に落ちていくのか。
現実では監視員さんがいるから、イジメをしようにも事前に止められると思うのだが、想像だけだと誰にも止めることが出来ない。
ありえたはずの悲鳴と金切り声、暴力の感触と反応、汚く流される血と涙と排せつ物。
肥大化する邪悪な想像力が、本来向けられるハズの獲物が不在で、怒り狂ってのたうち回っている。
わかっていた。だけど、大したことではないとたかを括ってしまった。それが、僕の後悔の一つだ。
まさか遠足の帰り道、山道から帰りのバスまでの短い距離で、道にはぐれるなんて思わなかった。おそらく、熊谷に仕掛けようとしたイタズラの一つだ。
一学年五クラスの中で三年五組であるうちのクラスは、当たり前のように、学校行事で最後列にまわされている。そこで、浮いている僕たちを最後尾にして、前列の班は少しづつ方角をずらしながら道に迷うように誘導するのだ。単純な分、とても悪質な。
「ごめん、本当にごめん。オレが甘く見ていた」
「いいよ。大川くんが悪いわけじゃないし」
責任を感じて謝り続ける大川くんに、僕は慌てて彼を宥めた。
五代くんは、その場にリュックをおろして、使えそうなの物がないかと、ごそごそ中身を確認し、園生くんは不安げにきょろきょとろ辺りを見回している。
前を歩くクラスメイトの背中を追っていたはずなのに、どうしてここまで迷ってしまったんだろう。林道は同じ景色がずっと続くから方向感覚が狂ってしまうのかな。と、最初は思いこんでいた。
だがそれが、仕組まれていたのだとしたら?
クラスメイト達を見失ったタイミングで、都合よく現れた黄色いテープ。
なにかの目印らしき、木の幹に巻き付けられた黄色のテープを見つけて、僕たちは助かったと思ってしまった。日が落ち始めた山の中で、いやでも目に入る蛍光色の黄色いテープだ。木の幹に巻き付けられて、隣の木へロープのように張り巡らされたテープを見た僕たちは、テープに沿って歩けば施設か道路に出ると思い込んだ。それが現実では舗装された道を外れて、すっかり山の中に入り込むという笑えない展開。
僕たちを熊谷に置き換えると、容易に想像できて寒気を覚えた。一歩間違えれば殺人だけど、今までのイジメも下手をしたら熊谷がいつ死ぬか分からなかった。クラスメイトも教師も僕たちも、そんな当たり前なことを考えられなくなるほど、彼女を軽んじて、同時に自分自身すらも軽んじていたのだ。
宇都木先生は、僕たちがいないことに気付いているだろうか。
父や母はどうしているだろう。まだ幼い弟と妹は寝ている時間だろうか。その寝顔が無性に見たい。とても無性に……。
「大丈夫、大丈夫、六月に入ったんだ。ここら辺の山は山開きの時期になると、お坊さんが山に修行にくるんだ。僕たちをきっと見つけてくれる」
半分自分の言いきかせるように、呟くように言う園生くんは、暗闇の中でも顔が青くなっているのが分かった。
「その話、詳しく聞かせてくれ」
五代くんが訊くと、園生くんは話し始めた。
「えっとね、杉藤家が修験者《しゅげんしゃ》だって話は、ここらへんで有名でしょ。だから、ここら辺の山には、とてもすごい力があるってことで、六月になるとお坊さんとかが修行にくるんだ。それで、山のゴミを拾ってくれたり、川でおぼれた人を助けてくれたり、遭難した人を探してくれたり、とにかくいろいろやってくれているんだ」
「あー、なるほど。この時期に配達で見かける、白い着物のオッサンたちって修行してたんだ」
「……緑の言う通りだとするなら、拠点にしている寺とか施設が山にあるのかもな」
僕は杉藤家が産んだ、思わぬ副産物に感心しつつ天を仰いだ。日が没した山の中は完全に闇に閉ざされて、鬱蒼とした木々と枝が天井となっているせいで星も月も見えない。方角を確認できる材料がどこにもないのだ。方位磁石をリュックから抜いたことを、今更ながら後悔した。
「そうなると、ここで待っているのと、施設を探して移動するのと、どっちがいいんだろう? 移動している途中で、僕たちを探している大人たちが見つけてくれるかもしれないし、その逆もある」
出来れば施設を探したいのが僕の本音だが、三人の安全を優先するなら待つ方が得策だ。
「ぼ、ぼく、移動したい。こわい、クマがでる。クマが出るよー」
「落ち着けって、ソノ。お前が一番ビビるなよ。つーか、クマが出るのかよ。なら、落ち着けって、騒いだらこっちにクマが来るぞ」
「そうだぞ、緑。私とお前は貴子さんから「死ね」と言われたんだ。それぐらい、将来ヤバい罪を犯す前に死ぬなんてことはない」
「いやああああ」
五代くんを見ていると。あなたは神を信じますかー。というフレーズが蘇ってくる。自信満々に杉藤貴子の予知を語る五代くんと、ビビりすぎて泣き出す寸前の園生くん。
「直人くーん」
「あー、よしよし。男が泣くな」
大川くんに頭をなでなでされる園生くんは、大川くんのお腹に頭をグリグリさせて抱きついている。なんとなくわかる。大川くんの身体って太っているんじゃないけど、良い感じに大きいからクマのぬいぐるみみたいなんだよね。
そして小学生の僕は五代くんがしたように、自分のリュックサックから使えそうなものを物色する。母は僕が遭難すること前提で、リュックにいろいろ詰め込んだんだから、使えそうなものが入っていないと困る。
「あ、これなんか」
僕がリュックから取り出したのは、母が入れた懐中電灯だった。子供の手でも持ちやすい小サイズだったおかげで、ラジカセのように抜かれることなく、リュックサックに入れられたままになっていた。
しかし、電池は普通に入っているのだろうか。僕は、やや不安になりながらもスイッチを入れると、「カッ」という音とともに、円筒形の光が夜闇に閉ざされた森を貫いた。
「わっ」
思わぬ光の出力に声を出す。怖くなってスイッチを切り、懐中電灯を地面に落としそうになる。
「びっくりした」
そんなに驚いた顔をしていないのに、五代くんは僕の懐中電灯に視線をおとす。
「ね、杉藤君。明かりつけて、怖い」
怯えた園生くんの瞳が、不安定に揺れて僕に懐中電灯のスイッチを入れるのをせがんだ。たしかに、怖い。強烈な光を見たせいなのか、僕たちを包む闇がさらに濃くなった気がしてきた。僕たちの身体から漂う匂いが、軽いものから重苦しい煙の臭いに変わっていき、僕たちの間でそわそわとした空気が流れる。はやく、行動方針を決めないと、ただ目的もなく暗闇の中を彷徨いそうだった。
「懐中電灯もあることだし、移動するか? それとも、ここで待つか? 懐中電灯の明かりを適当に振りまわせば、大人たちがオレたちを見つけてくれると思うんだけど」
「移動したい人、いる?」
すっかり闇に包まれた中で、僕はみんなに尋ねる。
「はい」
すかさず園生くんが返事をする。が、声は一人だけだ。
「このままここで待機して、懐中電灯を振り回したい人……はい」
「ハイ」
「オレも賛成」
と、三対一の可決となった。
「えぇ、えええぇ……」
「緑、状況をよく考えろ」
「大丈夫だ。ソノ、オレ達がついているから。な?」
不満げな園生くんの声に、五代くんと大川くんが優しく声をかけるも、有無を言わせないものがあった。二人とも、本当はここで待つのが苦痛なのだ。だけど、怯える園生くんを見て自制心が働いた。下手に行動して全滅なんてまっぴらだ。
僕も怖いと思いつつ、どこか事態を楽観視していた。大川くんのリュックにはまだポカリのストックがあるし、僕のリュックには非常食がぼちぼちと入っている。一晩ここで夜を明かせば、朝になって太陽が昇れば、何とかなると思っていた。
だけど、僕たちは本当に子どもだったんだ。
彼は、ずっと「怖い怖い」と言っていたのに、いざとなったら爆発的な行動力を起こすことを分かっていたのに、非常事態だったせいで、そのことをすっかり忘れてしまった。
内情をばらしたり、自ら標識によじ登ってカギを取ってきたり、脅されたからと言って、普通の子供はそこまで自主的に行動力を発揮しない。思考が停止して、脅した側の要求にそのつど従うのがせいぜいなのだ。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
季節はまだ六月とはいえ、山の中ではやぶ蚊が出た。虫よけスプレーをお互いに吹きかけ、ビスケットの携帯食で腹を満たし、大川くんが余分に持ってきたポカリで喉の渇きを癒した。
「大川くん。次、お願い」
「よっしゃ、かーめーはーめー波ーっ!」
「おお、すごい、それっぽい」
「……うぅ。誰か、はやく助けに来てよぉ」
大川くんがマンガの技名を叫びながら、懐中電灯を振り回し、僕たちはふざけ合いながら、僕たちは自分たちを守る繭を作る。僕たち四人で完結する世界。その世界で僕たちは中心に座り、周囲の理不尽からひたすら目を背けるのだ。
僕たちは待っている。暗闇の中で、声を頼りに互いの存在を確認し、順々に懐中電灯をつけて消して、旗のように振り回しながら、大人たちに発見されるのをひたすら待っている。
僕は恐怖心が薄れるにつれて、皆と自分が暗闇が溶けたような不思議な安心と喜びを覚えていた。青白い月光も差さない暗闇の中で、僕は大川くんで園生くんで五代くんだった。全身がたっぷりのお湯につかったような、そんな安らかな気持ちだったのに。
「……なぁ、ソノ、寝ちゃった? さっきから、大人しいけど」
いつも大川くんが気づいてくれるんだ。誰よりも、優しいから。
「今、懐中電灯を持っているのは誰だ」
「僕だけど」
「すぐつけてくれ。確かめたい」
「う、うん」
懐中電灯をつけて周囲を照らす。
その場にいたのは、僕と大川くんと五代くん、あと。
「アイツっ! 馬鹿野郎が」
……自分のリュックを残して、園生くんが姿を消していた。
◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆
どうしよう、どうしよう、どうしよう……。
僕はかつてないほどのパニックに襲われた。自分が傷つけられることよりも、公民館で大川くんに殴られそうになった時も、母と心中未遂をした時も、骨壺を盗んだ時だって、落ち着いていたと思う。
頭の中の思考が散り散りになり、全身の毛穴からどっと汗が出る。風が木々を揺らす音や、鳥の鳴き声、さらに聞き覚えのない動物の鳴き声まで聞こえてきて、それらがすべて園生くんに襲い掛かっているような想像が頭を支配して、口から荒い息を吐く。
僕のせいだ。熊谷がいないことを、もっと重く受けとるべきだったんだ。クラスメイトの苛立ちの矛先が僕に向くことを、母が一番危惧していたではないか。この遭難は僕のせいであることを、もっと深刻にとらえて、巻き込まれた三人に対して安心させるように、恐怖と不安が幼い心を脅かさないように、フォローやケアを優先するべきだった。
「アイツ、勝手にトイレに行ったのか? それとも逃げたのか? あぁ。もう、どっちだ」
僕たちに気付かれず、音もたてずに消えた園生くんは、いまどこにいるのだろう。どんな気持ちでこの場を去ったのだろう。
「リュックがあるってことは、戻ってくるつもりなのかもしれないけど」
「戻ってこれるか?」
「分からない。……緑を探したい人、はい」
「ハイ!」
「当たり前だろ」
「それじゃあ、三人で固まって探そう。こんな暗闇でバラバラに探しにいったら、それこそ危ない」
五代くんはそう言って、懐中電灯を脇に挟みリュックを背負う。落ち着いた声なのに、どこか重たくて絞り出すような、ざらりとした響きがある。五代くんも不安なんだ。そして、大川くんもとても不安なんだろう。
僕たちは迷わないように互いの手を繋ぎながら、山の中を彷徨うことになった。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?