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【マルチ投稿】アステリアの鎖_第八話【人間】

「ライラにクロノス商会ですか」

 ファウストは声のトーンを落として、快楽にのたうち回るコハクを見た。
 興味深げに、そして複雑な光を宿した翠色すいしょくの瞳を細めて、疲れたように眉間を揉む。

 見たところ三十代後半あたり、ライラが滅ぼされたときは十代あたりか?

 その頃のファウストはまだ幼く、イーダスを通してでしか25年前のテロとライラの悲劇を知ることが出来なかった。
 テロの主犯を捕まえた救国の英雄。オルテを500年以上も、陰から支えてきた由緒正しき宮廷魔導士ロイヤルウィザードの家系。
 
 一見すると華やかな経歴であるにも関わらず、時折見せたイーダスの苦り切った表情の意味を、ファウストが理解するには幼すぎた。

 純血の人間種として、自分の行動が原因で、同胞ともいえる純血の人間種が住んでいた【ライラ】が滅ぼされた。
 一瞬で難民となったライラの民は、純血の人間種が住む国に保護を求めたものの【アダムス】や【リリン】【アベル】は受け入れを拒否し、正義の名のもとに人喰いの餌食となった。

 ライラの民はオルテを憎んだだろう。
 理不尽に生活圏を奪われて、肉食の野獣が群がる荒野に放り出されたあげく、生き残った者たちが食い殺されていくのをただ黙って見ているしかできない。

 こうしてライラが唱えていた【ブラッドネストゥール薄汚い化け物】と【混血排除主義者イレイザーヘッド】の思想は暴力的な形で排除されてたものの、一部の人間が未だに支持していることで、遺恨はポーロスタンポポの根のように根深く残ったのだ。

 そこで混血種のポジティブな意味として【混血晶マーブル】という造語が生まれたが、世間はポジティブな単語よりもネガティブな単語を好んで使いたがる。

 そして【混血排除主義者イレイザーヘッド】に【混血晶マーブル】と続いて誕生したのが【純血主義者トランスペアレント】――人間に限らず、純血種は保護すべきという考えだ。だが、当初かかげていた保護が差別と排除に形を変えて、さらに過激化するのは、結局、世の常である。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 その当時のイーダスからしたら、かなり難しい立場に立たされた状況だ。最初は青バラを咲かせる王家と婚姻を結ぶ栄誉を固辞して、王女たちの教育係につく折衷案で落ち着いたものの、結局、生家ウェルギリウス家と大勢のの圧力に屈する形で望まない婚姻を強いられて、ティアが生まれた青いバラを咲かせた

 イーダスにとって大きな救いだったのが、ティアを愛することが出来たことなのだろう、と、ファウストは考える。

「ファウスト、聞いてくれ! うちの娘がすごくかわいいんだ。赤ん坊なんてみな同じだと思っていたのに、見ているだけでこんなに幸せな気持ちになれるなんて思わなかった。まるで自分が浄化されたような気がして」

 記憶の中のイーダスは、世界中の幸せを独り占めしたかのように、輝くような笑顔で笑うのだ。
 救われた安堵と絶望の深さが輝きにさいを与えるかのように、まるで金剛石ダイヤモンドのような輝きを放つ一点の曇りもない笑顔。
 父親となったことで、イーダス・ウェルギリウスが救われたという証明。

 だから、もし、彼女が生まれてこなかったら……。
 イーダスの心が、実父と同様に壊れていた可能性に想像が及ぶぐらいには、ファウストも年齢を重ねてきた。

「あなたは純血主義者トランスペアレントなのですか?」

 ファウストはコハクの瞳を真っすぐ見て尋ねる。ティアに洗脳されかけている霞がかったアンバーの瞳に、若干の意思の揺らぎを見せて、分厚い唇が言葉を漏らした。

「ちがう」
「ではなぜ、わたしたちを襲ったのですか?」

 この時、ティアの質問に対してコハクの瞳から靄が消えた。
 純粋な怒りのままに形相を歪ませて、アンバーの瞳が獰猛にぎらつき、動かない腕を振り上げようとした。

「ちくしょうがっ!」 

 悪態をつきながら、なんとか動かそうとする腕に、青白い血管が葉脈のように無数に浮く。やがて諦めたかと思ったら、次はアスファルトに爪を立てて、指先に血を滲ませて爪の先端が砕けるほどに、怒りをこめて歯ぎしりをする。
 痛みが快楽に変換する状態であるというのに、コハクは尊厳を取り戻そうと、痛み自分を取り戻そうとしていた。

「自傷行為はー―」
「人間を舐めるなああぁっ!!!」

 やめなさい。と、ティアが命令する前に、コハクは絶叫して自分の身体を殴り始めた。

 何度も、
 何度も、
 拳を打ち付ける。
 皮膚が破れ、
 肉が見えても、
 構わずに殴る。
 骨の軋む音が聞こえるまで殴った後で、
 
 ようやく彼は動きを止める。

 彼なりの痛みを手に入れたのか、堀の深い顔がどこか清々しくも禍々しい。

「私はそんなこと、本当にどうでもいい。純血主義者トランスペアレントだろうとも混血排除主義者イレイザーヘッドだろうとも、ただただこの国が憎い。青いバラだと自称している【ブラネッツ薄汚い化け物】どもが、平然と生きていることがおぞましいし、私の家族を友人を世界を平然と奪って、世界の守護者面をしているのが我慢できない。お前の父親が、お前の母親がっ、全部奪ったんだっ! 分かるか、全部だっ! 返せよ、返してくれよ、みんな、全部、全部っ」

 コハクの独白には血を吐くような悲痛さがあった。
 喉を潰すほどに声を荒げて、すべてを失った荒野で一人絶望し、慟哭の雄たけびをあげた被害者。
 25年の時を経た今は復讐に憑りつかれた加害者として、加害者の間に生まれた子供を襲った。

「……このっ」

 ティアは抗弁を試みようとしたが、コハクの言葉から迫ってくる圧力に声が出てこなくなり、喉元まででかかった言葉を飲み込むしかなかった。

 だからレオナ姉さんを殺したのかっ!
 ヘルメス教授を殺したのかっ!
 さらにわたしから、大切な人たちを奪おうとしたのかっ!!!

 叫びたい、訴えたい。しかし、コハクを前にした今、自分の意思と感情が薄っぺらいもののように思えて仕方がないのだ。
 それほどまでに、あまりにも壮絶で、哀れで、重たく空虚な絶望を宿すこの男は、まさに復讐者だったのだから。

「ああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああっ!!!!」

 叫ぶ、叫ぶ、叫ぶ。
 起き上がれない状態なのに、コハクの身体の奥底にある魂が叫ばせている。

―――許せない、赦さない、絶対に、絶対、ぜったいっ!!!

「……っ」

 聞こえるはずのない声が聞こえた気がした。
 コハクから発する純粋な憎悪と毒気にあてられて、ティアは全身の血流が激しくなるのを感じながら己の胸を押さえた。心臓が早鐘を打ち、呼吸が浅くなって、視界がぼやけて、月が浮かぶ世界が薄く緩く霞んでいく。

 だめっ!

 踏み止まらないといけない。ここで怯むわけにはいかないのだ。ぐらつく意識をなんとかフラットな状態に戻して、臍に力を入れて、足をふんばって……。

「――ああああああああああっ!!!!」

 そんなティアの抵抗をあざ笑うかのように、コハクの狂乱は止まる気配がない。口から感情をほとばしらせて、すべてを失ったあの日から醸造され続けた負の感情を吐き出していく。

 赤い怒りが湧き上がり、黒い憎悪が渦巻いて、夕闇色の悔しさと藍色の悲しみが混ざり合い、純白の虚無感が心を埋め尽くして……。

―――もう、どうしようもないの?

 自らの敗北を悟り、ティアの細い膝から力が抜けていった。
 このままじゃ……。

「姫様、しっかりしてくださいっ!」

 がしっと後ろからティアの両肩に手がかかり、頼もしい力強さで体勢が立て直される。

「ファウスト殿……」

 振り返ると、ファウストが力強い眼差しを向けていた。
 父と同じ煌めきを持つ/翠色すいしょくに見つめられて、崩れ落ちそうな意識が、わずかに息を吹き返す。

「姫様。貴女あなたは、たしか、この男の頭をいじりましたよね?」

 耳元にかかる呼気の暖かさと、自分に問いかけている声の確かな響き。厳しくもティアの心を掬い上げようとする意思を感じて、ティアは自身の脆弱さとファウストの心遣いを有難く感じた。
 彼の声を意識するだけで、それだけで自分の意識が保たれる現実に、自分自身で驚きながらティアは答える。

「はい。ただ頭を直接いじるのは初めてですから、わたしの命令に従うこと、嘘をつかないことを二つだけ厳守するように、プログラミングしたのです」

 たったそれだけ。その二つでコハクは感情のたがが外れて、自身が壊れるほど狂乱し声を荒げている。

「そうですか、では命じるのです――だまれ。と」
「えっ」

 あっさりと答えを出したファウストに、ティアは驚いて首をひねると、すぐ目の前にファウストの顔があった。

「……っ」

 あやうくキスしそうな顔同士の距離だった。ファウストの口元に、わずかに赤い汚れが残っていることに気付いて、混乱と羞恥と、熱を帯びた居た堪れなさと、全身を彼に預けて縋りつきたい気持ちになる。

 またキスしたい、して欲しい、貴方の血肉を食べたいなんて。
 こんな時に浮ついた現実逃避。
 許されるはずないのに。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「いいですか、姫様。感情を安易に操ろうとするものではございません。特に、人間は【感情の化け物】と呼ばれております。魔王が現れる以前は数の暴力に物をいわせて、世界を支配していたという文献もありました」

 ファウストはまるで父親のような、教え導く声音でティアに語りかける。
 真剣な表情と眼差しに映されて、気持ちが軽くなる自分の浅ましさと心地よさにずっと浸っていたくなる。

 これも感情がもたらす作用だとするのなら、魔王が暴れていた500年間、人間が絶滅しなかったことも不思議ではない。

 絶望の中でも、ほんのわずかでも希望を見出せることができるのなら、その希望を感情をかけ合わせて、生きる力へと変換するというのなら、勇者のように魔王を封印する奇跡も、アステリアのように死を超越して、世界を500年間支配することも可能なのだ。

「ファウスト殿、わたしは純血種とは父以外に話したことがありません。意識したこともないのですが、わたしの思考は人間寄りでしょうか?」

 そんなわたしはいったい誰だ?
 人間でもない、完璧な夜族でもない、ホビット族の血の影響で背が低く、暗黒種クトゥルフ種は未覚醒状態だ。
 自分の意思を振りまわす感情の波は、どの種族に由来するものなのか、十代の少女であるティアにはわかりようがない。

「そうですね。自分や姫様が家族や仲間に対して思入れがあるのは、イーダス様に育てられたことや、人間種が血の四十から五十を締めているのが影響もあるのでしょう」

 すくなくとも彼女は姉の死を嘆いて憤り、許容量オーバーの感情を爆発させて気絶した。自傷して血肉を与えようとしたファウストを気遣えた。
 これだけでも、彼女はファウストよりもしっかり人間としての血を引いている気がする。

「まぁ、世界を復興させるために異種族間の混血化が進んでしまったことで、もうほとんどが人間種の血をひいている状態。つまるところ、人間以外の純血の方が稀になってしまいましたが」

 ファウストは結論をはぐらかした。
 種の存続を理由に人間種に近づこうと、人の感情を模倣する純血種を見てきたからだ。アマーリエの父であるエルフの王も人間のようにふるまってはいるが、実際はどんな人物なのかわかりようがない。

「……わたしはなぜ、コハクがこんなにも泣き叫んでいるのか分かりません。どうしてこんなに、苦しんでいるのかも。理解はできるけど共感が出来ないのです」

 ティアは未熟さからくる潔癖さがあるのが、自分とコハクの相似性に気付こうともしない。大切なものを奪われたら悲しいことは、理解できているというのに。

「姫様、いい社会勉強になったことで、彼をいいかげんに楽にしてあげてください」

 ファウストの言葉に、ティアは「はい」と小さく頷き……。

「――だまれ」
「…………っ!」

 ティアの一言で、コハクの絶叫がぴたりと止まった。
 一瞬、身体が硬直したかと思うと、糸が切れた人形のようにぐったりと脱力して動かなくなった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 ファウストはやっとティアが「黙れ」と言ってくれたことに頭痛を感じた。自分を見つめる紫の瞳からは、捕食者のような飢餓感と、愛情を求める切実さがにじみ出て、それでていて、義務感をそこそこ持ち合わせているのだから始末に負えない。

「え、本当に、止まった」

 信じられないと呟いたティアの声が聞こえてきて、やれやれと内心でため息をつく。

「では姫様、自分が彼を尋問しますので、自分の言葉に続く形でコハクに命令を下してください」

 ティアの言葉一つで、再びコハクが暴走するのは避けなければならない。
 彼女の命令に対して従うというのなら、ファウストの言葉をティアに代弁させた方が効率的だ。

「は、はい……」

 ティアもそれは理解しているのか、おずおずと了承した。
 そして、少し躊躇うような素振りを見せた後、意を決したように口を開く。

「ペルセを襲撃しているテロリストは、あなたたちの仲間ですか? 簡潔に答えてください。――はい、姫様」
「あ、は、はい。ペルセを襲撃しているテロリストは、あなたたちの仲間ですか? 簡潔に答えてください」
「はい、大切な仲間です」
「あなたちを指揮していた指揮官は、だれですか?」
「あなたちを指揮していた指揮官は、だれですか? レオナ姉さんを殺したのは、誰ですかっ!」
「姫様」
「……すいません」

 余計な情報を付け足そうとするティアに対して、ファウストが静かに咎めると、ティアはしゅんと小さい肩を落として謝った。
 まったくと思いつつも、自分の言葉をティアに言わせている状況に、彼女に対する恐怖心が薄れて行き、次第に黒い感情の伴った支配欲が顔をのぞかせていく。性根に隠れている自分を見つめ返す顔は、憧れの存在ではなく敗北の神であるマルスの面貌――実父であるユリウスの顔があった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「第二王女を殺した奴は知りません。現地に来てはじめて知りました」

 姉さん。
 ティアはこみ上げる感情を抑えて、ファウストの声に集中して答える。

「「お前たちをこの国へ手引きしたやつは?」」

 彼の言葉を一字一句拾い上げて、自分の言葉で話す奇妙な作業は感情でささくれ立つ心を落ち着かせて、混沌とした思考を心地のいいに還す。

「クロノス商会経由で普通に就労ビザが下りた。偽造でもないから、オルテ側に金を握らせた可能性があります」

 コハクの言葉でようやく自国側にも裏切り者がいる確信に近づいたが、煮えたぎる感情よりも、ファウストの言葉を耳が待ち望んでいた。
 風の音も、月の奏でる歌も、波の悲鳴も、カーラとプルートスの寝息も、どうでもいい心地になっていく。
 心がとても安らかで、父の翠色すいしょくの瞳をのぞき込んでいた頃の懐かしさに似ていて、徐々に優しい毒となって脳内に浸食していく。

「「お前たちの指揮官は?」」

 ファウストの思考を予想して声をそろえると、彼は嬉しそうに笑んだ気がする。そう思うと、身体の奥底で泡沫が弾けるような、小さくて、けれども確かな喜びが胸を満たしていく。

「ペルセを襲撃したメンバーの中に指揮官がいます」
「「その指揮官が虫を操っているのか?」」

 言葉をつらねるごとに、自分がコーヒーに入れた砂糖のように溶けてなくなりファウストと一体になっていく。そんな錯覚に陥ろうとしている自分。
 これは危険な兆候だ。だが、この感覚はあまりにも心地いい。
 一つになりたい。彼と一つに。お互いの境が見当たらないレベルまで一つに。

「はい、東洋の虫使いむしつかです」
「「お前たちは任務に失敗した。ペルセを襲撃しているテロリストが、お前たちの援軍に来る可能性は?」」
「ない。あくまで儀式の阻止、そしてオルテの消滅が目的。王家の丘にある霊廟の制圧をあくまで優先します」
「「固有魔力振動数に反応するステルス地雷を用意した人物は誰だ? だれの固有魔力振動数を設定した?」」
「知りません」

 知らない……。まぁ、予測はしていたが。
 ファウストは少しだけ眉間にシワを寄せた。

「「これは最後の質問だ。虫で盗聴しているとはいえ、お前たちはタイミングよくUターンした自分たちを、ステルス地雷を設置して襲ってきた。つまり【魔力菌糸体マナ・マイスィーリアムのネットワーク】の存在を知っていた可能性がある。情報を漏洩した裏切り者を言え。すくなくとも、襲われた時点で【魔力菌糸体マナ・マイスィーリアムのネットワーク】を知っている人物個体は三人しかいない」」

 そう、プルートス、第一王女のアマーリエ、そして、カーラ。彼女はティアを車に乗せた時に気付いて、金髪に擬態した蛇を揺らしながらファウストを笑って牽制した。

「それは、あ、ふぅぐっ……」

 答えようとコハクが口を開いた時、明らかに顔色が変わった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 まさか……っ。

 ファウストが慌ててコハクに駆け寄ろうとするが、彼の口から大量の泡が溢れ出して白目をむき始めた。徐々に痙攣して弛緩していき、そして……。

「え、死、死んだの……?」

 あまりにも呆気ない最後にティアは紫の瞳を見開き、ファウスの方は苦虫をかみ殺した表情になって、だらりと垂れたコハクの脈をとる。

「えぇ、毒が仕込まれていたみたいですね」

 情報を漏らさないように、毒を体に仕込まれている可能性を考慮していなかった。蛇の大群に肉体を食べられていたから、自然と可能性を除外していたのかもしれない。
 しかも状況的に考えて、本人が毒自体に気付いていない、特定のワードを口に出そうとした時に発動した。
 これはファウストの身体が危機的状況に陥ると、体内で回復薬ポーションを精製して、直接血液にポーションを流す技術に類似している。

 自分の魔導が漏洩した……?
 まさかな。

 そんなことを出来る人物はイーダスしかいない。
 けれどもイーダスは11年前に死んで、現役世代の宮廷魔導士ロイヤルウィザードは、ファウストのオリジナル魔導を、即座に確立させるほどの技術も時間もない。

 一体、自分はなにを見落としている?

「…………」

 うぅ。と呻いてファウストは、自身のクセのある黒髪をかき上げた。

「姫様、申し訳ありません。自分の手落ちです」

 ファウストは詫びると、ティアはオレンジの髪を揺らして首を左右に振る。大きな瞳に従兄に向けて、熱いものを感じさせる眼差しに、ファウストは胃の奥が重くなるのを感じる。

「いいえ、お気になさらないでください。ファウスト殿」

 誘うように上目遣いで可憐な顔に微笑の花を咲かせる末姫は、すっかり完治したファウストの右手を包み込んで、胸もとに引き寄せる。
 丸眼鏡越しにファウストのを見つめる紫の瞳が妖しい熱をたたえて、彼女は自分が従兄を誘惑していることに気づかない。すっかりファウストに気を許し、頼り切り、隙あらばファウストの全てを奪い取ろうとしている。

「姫様、お戯れを……。この行為は、カルティゴではセクハラにあたりますよ」
「……そ、そう、ですね。ご指摘ありがとうございます」

 名残惜しそうに手を離すティアは、必死に王族としての思考に切り替えようとしていた。だが、芽生えてしまった恋する乙女を切り捨てられるほど、彼女は割り切るには純粋で未熟すぎる。

 そんな彼女の様子に、ファウストは王立警察 警視総監補佐以外の自分の役回りを認識し、彼女の疑似的な兄としてふるまうことで、ティアに対する恐怖と劣等感から救われるのではないかと、感情の出入り口を見出した気がした。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 ――それにしても。

 数時間の交流とはいえ、この従妹いとこからは精神構造に歪なものを感じた。凄惨な場面で眉一つ動かすことなく、高潔な人物であるような言動をする一方で、生々しい言動と毒気に気圧され、ファウストの気遣いを過剰なまでに受け止めて喜ぶ初恋を知った少女のような一面。

 職業柄、ファウストは環境の変化によって、異種族の血が活性化し豹変する場面によく居合わせた。本人が自分の変化に気付いていないせいで、慌てて衝動抑制剤を服用しても、すでに手遅れなパターンが多く、最終的には自らの手で命を絶つか誰かに殺してもらうしかない絶望的な状況。
 
 しかし、ティアの行動はちぐはぐで一貫していない。まだ十代の少女である不安定さもあるのかもしれないが、まるで彼女の中に複数の異物が存在して蠢ていてるような印象を受けるのだ。

 洗脳……、思想の植え付け……、ヘルメス教授が自分の都合のいい手ごまとして、彼女の思考を誘導し、世界を救う義務感を植え付けたとしたら説明がつく。

 だが、だとしたら、彼女があまりにも哀れだ。

――そう考えて、ファウストも自分の思考が一貫していないことに気付いて、内心で苦笑を漏らすのだ。

【つづく】

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