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【加筆・修正ver】杉藤 俊雄 は××したい_16_小学生編 05

 もしかして、この子、僕と同じクラスなの?

 熊谷を宥めている担任は、まぎれもなく、僕たちの担任として紹介された――宇都木 礼子《うつぎ れいこ》先生だ。

「熊谷さん、落ち着いて。こらっ! 男子、静かにしなさい!」

 先生は熊谷に心無い言葉を投げる男子をめねつけて、一方の熊谷の汚い背中を撫でる。普通に熊谷に触れるなんて、この担任は真面目で心優しい人間なのだろう。

「うわっ。先生がブスに触った」
「病気がうつるぞ、ブスになるぞー」

 なんて火に油な展開だ。先生が事態を収めようとすればするほど、幼いクラスメイトたちは奇声を上げてサルのように騒ぐ。
 彼女に優しくするなんて僕には無理だ。距離が開いているにも関わらず、僕の鼻に遠慮なく入ってくる熊谷の匂いは、汗を吸ったタオルを長時間放置した時の匂いだ。

 吐き気を催すおぞましさ。五感を刺激する見えない暴力。同じ空間を共有すること自体に忌避感を持つ存在。

 熊谷との出会いで、僕は知ったんだ。世の中には、僕とは別の方向性で醜い存在がいる。醜いことは、こんなにも罪だった。周囲にこんなにも不快感を与えて、殺されても仕方がない。
 笑いものにされて、みんなの輪に入れてもらえるだけでも幸せではないのか。

「ぶすぶすぶすぶす~」
「ドブス」
「学校くるな」
「あたじはぶすじゃない~」

 いや、じゅうぶん、ブスだ。学校来るな。
 そう大声に出したいのを、僕はぐっとこらえる。

 広がっていく合唱に、悪意の匂いが無かった。
 ただただ、純粋に楽しんでいるのだ。そして、みんなが同調する動機も単純だ。みんなと一緒に楽しみたいだけなのだから。
 その純粋さは、洗いたてのシーツのように真っ白で、無自覚に蟻を踏みつぶすように残酷だった。

「「「「「ぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶすぶす~」」」」」

 僕は目の前の光景にめまいをおぼえた。
 自分も彼らと共に、熊谷を迫害したかった。それが出来ないのは、杉藤家以前に、彼女よりも容姿が劣る自覚があったからだ。
 一歩間違えれば、僕と熊谷の立場は入れ替わっていた。杉藤家だから首の皮一枚でつながっている状況にすぎない。

『俊雄《としお》が男の子に生まれて、本当によかった。本当に……』

 今更、母の言っていた言葉が身に染みる。
 もしも、熊谷が男だった場合を想像してみると、女よりも、男の方が嫌悪感が薄らぐのだ。なぜ、同レベルで不潔でブサイクなのに、男と女で感じる嫌悪感が違うのか、小学生の僕にはわからないけど、自分が男であることが救いであることが理解できた。理解したくもなかった。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 熊谷をイジメているクラスメイトたちの匂いは、ポップコーンのように香ばしく、どこかワクワクさせるもので、対して熊谷の方は、さらに悪臭を醸造させていた。この前見つけた、ゴミ屋敷で嗅いだ匂いと同じだ。いろいろなゴミが一か所に集まっているような、そんな匂いだ。

「ぜん”ぜい”じがっ”で、ごい”づら”を”じがっ”でよ”お”お”お”おぉ」
「おちついて熊谷さん、ここまできたら、深く考えないで聞き流すしかないわ」

 担任は熊谷のべたついた頭を優しく撫でるが、熊谷は不満を爆発させるばかりだ。

「い”や”だあ”あ”あ”あ”、ごい”づら”がわ”る”い”の”に”い”い”い”い”い”っ!」

 キンキンとした甲高い声が、容赦なく僕の鼓膜を蹂躙する。
 いやだ。気持ち悪い。殴りたい。殴って黙らせたい。みんなと一緒に、手を叩いて囃し立てたい。

 だけど、そんなことをしたら、父さんの耳に確実に入る。
 保護者席に母がいることを思い出して、僕は自分がとるべき行動を考える。父は仕事でこれず、母が今日の入学式をビデオカメラに収めることをお願いしていた――だから、僕の行動は確実に映像に残るのだ。

 見た目で差別する者を、父さんは心底軽蔑しているのだ。僕が熊谷を内心差別していることは、絶対にバレてはいけない。
 だからこそ、多くの人間が注目している今、手を打つ必要がある。僕は収拾がつかずに、手を焼いている担任に近づいた。

 担任の宇都木は、年齢は三十代ぐらいだろうか。カマキリのような輪郭に、分厚いレンズの肌の白い女性だった。眉が綺麗な三日月の形で、瞳が大きいせいか、大人に見えなくてどこか頼りない、前髪は一直線に切りそろえられて長めの黒髪は緑のゴムで結わえている。

「先生、いいですか?」

 担任がびくりと振り返る。彼女の目に映るのは、顔を半分マスクで覆った児童だが、この児童《僕》の正体を彼女は知っているはずだ。

「な、なにかな。杉藤くん?」
「一度、このクラスのみんなを外に出しましょう。これじゃあ、まわりの迷惑です」
「えぇ、そうね」

 と、視線を揺らしながら彼女は答えた。
 もはや事態を収拾できるなら、なんにでも縋りたいのだろう。
 それが例え、幼稚園を卒園したばかりの子供だったとしても。
 担任は校長先生と、他の先生たちの無言で視線をかわして頷き合い、熊谷の背中を優しく撫でる。

「…………」

 多くの人間の視線が、僕に集中するのが分かった。
 保護者の席では、今頃母が、介入すればいいのかどうかわからず、おろおろしていることだろう。母は今、僕の弟か妹を妊娠している。そんな状態でお腹にいる兄弟ごと、ストレスをかけて申し訳ない反面、いざというときの大人たちの頼りなさと無責任さに辟易する。
 大人の僕から見ても、そう、潔く責任をとった大人なんて見たことがない。若者の無責任さを嘆く大人たちは腐る程見てきたが、そんな奴らに限って自己保身が強くて自己評価がエベレスト並に高いのだ。

 あぁ、また様々な人間の脳内で、都合の良いドラマが展開されているんだなという、うんざりとした気持ちのままに、小学生の僕は先生を促す形で、クラスメイト全員を体育館の外に出す。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

 春の暖かい風にのって、桜の花弁が舞っていた。見ているだけなら、ごく当たり前な春の一幕だ。だけど、実際は白い校舎の下にある、広々としたグランドの砂もご丁寧に風に舞って、クラスメイト達の声から「きゃ」とか「うわ」とか短い悲鳴が漏れている。桜の花弁に見惚れて、砂が目や口に入ったのだ。

 列が進む。グラウンドの真ん中に進んだ頃には、列が乱れて、バラバラと子供たちが広がり、僕の隣に大川くんが、僕の前には五代くんと園生くんが立った。まるで、自分たちが盾になって僕を守るように。
 大川くんと五代くんは平然としているが、園生くんはひざをガクガクゆらして、落ち着きがないなかった。
 彼らのためにも、僕は必死に頭をひねった。
 子供たちをまとめきれない担任の先生に、期待することはやめた。

 僕が当然とるべき行動は、僕の為に友達になってくれた三人に対して、その恩に報いること。
 父や周囲の人間に、僕が心までも醜い存在ではないとアピールすることだ。
 杉藤家の存在は、醜い僕の生命線であることを、小学生の僕は思い知った。

「先生、熊谷さんと話をさせて」
「あ、あうん。杉藤君、お願い」

 先生はすっかり、お手上げのようで熊谷を僕の前にだす。僕は大川くんたちに「大丈夫だから」と言って、熊谷と僕の一対一の状態に持ち込んだ。

「こんにちは、熊谷さん。僕は杉藤俊雄です」
「ずぎどーぐん?」

 キモチワルイ、イヤダ、ボクノナマエヲヨンデホシクナイ。

「うん。これで、顔拭いて」

 キモチワルイ、キモチワルイ、キモチワルイ、キモチワルイ、キモチワルイ、キモチワルイ。

 僕はポケットからハンカチを取り出して、熊谷に差し出すと、彼女はおずおずとハンカチを受け取って、顔を拭き始めた。
 ぐちゃぐちゃと音を立てながら、涙をふいて鼻をかむ姿は本当に醜い。ますます同じ人間だと見ることが出来ない。

 僕はちょっと困った。彼女が鼻をかんだ、ぐちゃぐちゃのハンカチを返してほしくなかった。そんな熊谷は、ぐちゃぐちゃの涙と鼻水まみれのハンカチを手の中で持て余してる。このまま、このハンカチを返すのはマズイ。そういう、そこそこの良識は持ち合わせているようだ。

 少し彼女が、落ち着いたことろを見計らって、僕はマスクをとった。
 泣きやんだ熊谷の目が、みるみる大きく見開いて小さな点になる。担任の先生も息を飲み、周囲に散ったクラスメイトたちも僕の顔を見て絶句した。

 僕の醜い顔を見て、重たい空気が僕以外に伸し掛かってくる。

「熊谷さん、僕と友達になってよ」

 にっこり笑いかける顔が、見るに堪えないことを僕は知っている。病気にかかったミミズのように青白い唇を蠢かせて、横に不自然に胡坐をかいている鼻が、笑うと鼻腔が膨らみ、さらに横に鼻が引き延ばされていく光景。顔中の毛穴と言う毛穴が、角質をてらてら光らせて、生理的嫌悪を呼び起こすのも僕は知っている。

 だから。

「い”や”や”あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”。気”持”ち”わ”る”い”い”い”い”い”い”い”い”ぃ」

 耐え切れずに熊谷が絶叫し、僕は悲しげな顔を作ってマスクをかけた。

「そうか、いやなんだ――ツっ!」

 肩を落として、がっかりした風を装うと、目の前が一気に真っ暗になった。目の中に細かい物が入り込み、周囲が悲鳴をあげている。

「あ、あ、あ、あ、あ……」

 不意打ちの痛みで、口からうめき声がこぼれた。マスクをしていない顔の部分が、ちくちく痛み、体中が火をつけたように熱くなる。
 ものすごく、眼が痛い。瞬きをすると、じゃりじゃりとした感触が眼球をすった。どうやら、砂をかけられたようだ。
 痛みの炎はやがて目から頭全体に及び、全身が痺れたように脱力する。ひざが地面をついて、両手でなんとか倒れ込まないように上体を支えると、霞んだ視界が黄色く淀んでいた。

「だいじょうぶか、俊雄!」
「熊谷さん、なんてことっ!」
「あ”だじ、ばわ”る”ぐな”い”ぃ”。あ”だじ、ばわ”る”ぐな”い”ぃ”ぃっ!」

 心配して僕に駆け寄る音とともに、熊谷の金切り声がグラウンド全体に響き渡る。
 周囲の空気が、真っ赤な怒りで満たされていくのを肌が感じていた。体育館から、校庭に出る足音が聞こえて、母の悲鳴をきいた気がした。

 痛みに耐えながら僕はほくそえむ。
 僕は彼女を差別していない。だけど、彼女は僕を「キモチワルイ」と差別した。僕は外見で人を差別しない、優しい人間だとアピールした上で、熊谷は外見も心も醜い人間であり、いじめられても当然だという空気を作り出すことに成功したのだ。

 こうして、熊谷 満子は周囲に公然といじめられる存在となった。

……うん。我ながらひどいね。
 大人の僕は、小学生になった子供の僕に対して、顔を引きつらせる。

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 熊谷 満子……。読みが「みつこ」ではなく「まんこ」。
 シモ系を連想させる名前で、体中毛むくじゃらな上に、汚い服を毎日着ていたことから、彼女は両親から虐待《ネグレクト》をうけていた。

 授業参観で、何度か彼女の母親を見たが、一目で問題がある人物だとわかった。だって、顔は小綺麗だったけど、着ていた服はボディコンだった。
 ボディラインを強調する、ショッキングピンクの布地が薄いミニワンピは、下にブラジャーをつけていなかった。茱萸《ぐみ》の赤い実のような、乳首の盛り上がりや、透けて見える赤い色がいやでも目につき、色を抑えた服装の保護者達の中で悪い意味で目立っていた。

 当然、娘の授業なんか興味なく、他の保護者にちょっかいをかけて、に注意されたのだがどこ吹く風。
 耐え切れずに熊谷も「ざぢござん”、ばずがじいっ!」と声をあらげた。
 しかし、娘の呼びかけにニヤニヤ笑っているだけで、その場にいた人間たちは、ある種の不気味さを覚えていたのではないだろうか。

 僕は熊谷が、母親を名前で呼ぶことに驚いた。どうやら、彼女の家庭では「お父さん」と「お母さん」は禁句らしく、名前で呼び合っていたようだった。

 何もかもが常識から外れていて、僕はこのボディコンを着た女性は宇宙人で、熊谷は宇宙人のペットである北京原人《ぺきんげんじん》ではないかと疑った。
 だから、注意されても、人間の言葉は通じていないのではないかと考えた。

 僕はさすがに、熊谷の境遇に同情したのだが、同情したのは僕だけだったらしい。
 クラスメイト達は、熊谷の親が娘に対して関心が薄いことが分かって、さらにひどいイジメを始め、宇都木先生も彼女を助けずに放置するようになった。
 熊谷は母親に愛されていない。つまり、熊谷をイジメても母親が自分たちを罰することはない。
 なんて、浅はかさだ。ストッパーが作動しないことが分かり、イジメの内容は過激さを増した。
 わざと頭上から物を落としたり、階段から突き落とされたり、道路につき飛ばしたりと、見ていてヒヤヒヤする場面に出くわして、仕方がなく僕は何度も助けるはめになったのだが。

「あ”だじよ”り”、ぎも”い”ぐぜに”……っ!」

 強烈に拒絶される。じろりと僕を睨みつけて、容姿に劣る僕に、助けられることが屈辱なのだと食って掛かる。
 熊谷がイジメられて、僕が助ける。一応、大川くんたちも見かねて助けるのだが、強く拒絶されて、熊谷はさらにイジメられるという悪循環。
 僕に助けられるのもイヤだが、僕の友達に助けられるのもイヤらしい。
 熊谷は果たして、どういう人間に助けられたいのだろうか。
 白馬に乗った王子様を待っているのなら、せめて風呂に入って欲しい。

 助ける。助けられたくない。助けない。助ける。悪循環に悪循環を重ねた、無意味な応酬が三年続いた。
 
 流れる時間はなにも解決せず、改善されるどころか、悪化していることに危機感を覚えて、僕はその日、学校が終わると大川くんに「ケンカのしかたを教えて欲しい」と頼みこんだ。

◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆◆

「はぁ。お前、匂いで感情とか記憶読めるんだろ? 強くなる必要なんかないんじゃね?」

 学校帰りの帰り道。僕たち四人は寄り道をして、学校で溜まった鬱憤を買い食いで晴らしていた。もちろん、僕のおごりだ。
 今日はマクドで買い食いだった。近くの公園にある東屋で、ハンバーガをバクバク食べる僕たちは、たわいもない話から学校では言えない愚痴や悪口の他に、土日の予定を話し合う。

「うーん、なんか心を読めても、実際の行動が別だったり、匂いから記憶を読み取ろうとすえるには、相手が弱っていないとダメみたいなんだよね」

 小学生の僕はクラスメイト達との交流で、さりげなく自分の能力を検証していた。そこで分かったことは、人間の不可解さだった。

「なんだよ、熊谷のことイジメたくないって思っているのに、実際にイジメて楽しいって思っていたり、オレンジジュースを飲みたいと思いながら、サイダーを買ってみたり、心が読めていても行動が別だから、あまり意味がないのかもしれない」

 僕が説明すると、園生くんが納得したように頷いた。

「あー、なんとなくわかる。なんか、ずっと決めていたことなのに、いざってときになると別の行動をとるかんじ」
「そういえば、貴子さんがいってたな。人間は自分の気持ちに嘘はつけないけど。その時の感情には嘘をつけるって」
「そういえば、うちの客にもいたな。なんの事前もなく、変更しやがって」

 普段は大川運送《家》の手伝いをしている大川くんは、思い出して顔を盛大にしかめた。五代くんもうんうんと頷いて、メガネをかけ直す。

 この三年で僕たちの背は伸びて、顔の柔らかな曲線が少し角度を変えてきた気がする。僕の顔はというと前髪を伸ばして、顔半分を隠し、もう半分をマスクで隠すことで、醜い顔が完全に隠れた状態だ。視界は常に前髪で遮られている分、嗅覚が鋭くなった。相手の思考を匂いで分析して先回りしたり、相手の望むことを察して、反論と理不尽を未然に防いだり、かなり便利になった。

 けど、誤算もある。僕が七歳の時に生まれた弟の孝雄《たかお》と、先月生まれた妹の和子《かずこ》の世話を、当たり前のように体よく押し付けられた。僕が一番上の兄であることと、周囲に対して気が回ることが災いしたのだ。杉藤顔ではない普通の顔で生まれてきた、弟と妹は、本能のままに笑ったり泣いたり暴れたりと、全身全霊で自分の感情を表現してくる。今日も家に帰ったら、二匹の怪獣の世話を頼まれるのだろう。

 母の気持ちも分かる、魔のイヤイヤ期に突入した弟と、生まれて間もない、泣くことしか手段のない妹がいるのだ。兄の手も借りたくなる。
 すぐ目を離すと、どこかにいく弟と妹の存在は僕の生活を大きく変えた。
 特撮ヒーローの真似をすれば手を叩いて喜び、つたない言葉で興味のもったことを質問し、二人が暴れた後を片付けて、寝る前は絵本の読み聞かせをして、朝は身体に乗っかられて起こされる。

 たった一人で、理想の暗闇に思いを馳せる時間なんて、ほぼ存在しない。もしかしたら、それは良いことなのかもしれない。

「僕は大川くんのように体力ないし、五代くんみたいに頭が良いわけじゃない、園生くんみたいに運動神経が良いほうでもない。だから……」

 言いかけて、大川くんと目が合った。角刈りの頭に四角いアゴ。目つきは幼稚園の時よりも鋭くとがって、ポテトを食べて油をてからせた唇は肉厚で大きく、手足が太くて、配送の手伝いをしている体は、中学生と思えるほど逞しい。僕は彼の額を走る縦線の傷跡が、薄くなっていることに気付いた。肉の盛り上がりが落ち着き、うっすらと周囲の肌色に同化する傷跡は、なんだが僕たちの思い出が薄くなっているように見えて、形容しがたい強い感情を呼び起こした。

 僕たちはずっと、ずっと、一緒。
 だから、この傷をもっと深く刻み込んで……。

――いやだ。なに考えているんだ僕は。

「いや、なにじろじろ見てんだよ。気色悪いな」
「あ、ごめん。大川くんの額の傷跡が薄くなっていることに気付いたんだ」
「……本当にそれだけか?」

 時々、大川くんは僕以上に、僕のことが分かっているんじゃないかと思う時がある。

「……え」

 僕はちょっと言葉に詰まった。
 強い衝動と陶酔に支配された、赤と黒にまみれた悪趣味な光景。大川くんの傷跡に刃をあてている自分は、とても幸せそうだった。

 こんなこと考えるな。考えちゃいけないんだ。

 小学生の僕は頭を左右にふって、一瞬浮かんだ光景を追い払い、胸の奥に沸いた喜びを忘れようとする。友達を傷つけて、つけた傷跡を愛でたいなんて、僕はどうやら、イジメを愉しむクラスメイト達に染まってしまったらしい。
 そうだ。そうに決まっている。

「つまり杉藤君は、それが不安だから体を鍛えたいってこと?」

 僕の不自然な沈黙を、園生くんが察して埋める。フィリピン人の血が、だんだん表面に現われてきたらしい彼は、大きな黒目に浅黒い滑らかな肌、少し長めの癖のある黒髪にのせいで、たまに女の子と間違えられる。

「たしかに、不測の事態が起きた時、体力があるに越したことはない」

 同調する五代くんは、静かに頷いてゆるく笑った。手入れの行き届いた真ん中分けの髪に、メガネの奥にある吊り上がった瞳は二重瞼になり、この三年で見えない険が取れたように思う。顔つきも品の良さが出て、笑うと陶器のような白い肌に青い影が落ちた。育ちの良さが伺える所作も嫌味がなく、将来、かなり女性にもてることは間違いない。
 そんな彼の最近の悩みは、中一の兄との仲が険悪であることと、熊谷が色目を使ってアピールしてきているという――なんとも、気の毒な状況に置かれている。

「うん、そう」

 体を鍛えたい、動かしたい。何も考えられないくらいクタクタになりたい。そうしないと、僕は熊谷はおろか、自分がなにをしでかすか分からない。

 黒い水が僕の中でボコボコ音を立てて、あふれ出ようとしているんだ。
 熊谷を見るたびに、目前の対象を、なにもかもを壊してしまいたいんだ。
 荒れ狂う暴風のような衝動を、なんらかの形で誤魔化さないと。

 僕は杉藤 俊雄だ。だから、醜い自分を容認しないといけない。
 僕は杉藤 俊雄だ。だから、杉藤家の生き方に沿わなければいけない。
 僕は杉藤 俊雄だ。だから、醜い外見をバカにするやつらを許してはならない。

 その考えにひびが入る。卵殻の内側で暗闇に籠っていた僕は、突如ひび割れて、あふれ出た外の光に目が開いた。

 その視線の先に熊谷がいる。
 生臭い匂いを漂わせる醜悪の塊が、僕の日常の中に入り込んでしまった。

 僕じゃない普通の子供たちは、熊谷を普通に笑いものにして、イジメ抜き、彼女を金切り声をあげるサンドバックのように平気で攻撃した。
 とても楽しそうに。とても目を輝かせて。
 みなで、喜びを分かち合って日常を謳歌する。

……僕もその輪に加わりたいのに、杉藤 俊雄であることが邪魔をする。

 外界の光によって浮かび上がるのは、僕がしてきたこと。

『俊雄《としお》が男の子に生まれて、本当によかった。本当に……』

 母が言っていた言葉に色が宿る。

『おまえ、ひきょうなんだよ! いるだけでキモイんだよ』

 大川くんの訴えが輪郭を帯びる。

『おまえのせいで、みんな迷惑してんだよっ! おまえがよくいっしょに絵を描いているえりちゃんが、おまえが怖いって泣いているのを知っているか! 隣でよくねるそーたが、イヤがっているのをしっているかっ! お迎えのバスでいっしょになる、リョウやなおが、毎日おまえにきぃつかって病気になったの知っているかっ! おとなはみんな、おまえがストレスだからって言ってたぞ。弱いやつばかり狙いやがって、消えろ、消えろ、しんじまえーっ!』

 幼い大川くんの言葉には、大勢の怒りと嘆きが潜んでいた。
 僕が知らずに犯した罪。それらは償うことが出来ずに、闇に葬り去られてしまった。

 熊谷を通じて、醜いことの不快さを知ったことで、僕はやっとこの世界に対して目が開いた。こんなにも無自覚に、人を不快にしてきた罪悪感と羞恥に、思考の糸が絡まって行く。がんじがらめに、身動きが取れなくなった意識は悲鳴を上げるしかない。
 僕は自分が思っている以上に、ろくでなしのクソだという痛感が、僕の内側をひりひり焼いていく。

「土日には、大川くんの家の手伝いに加わりたい。僕は強くなりたいんだ」

 そう、強くならないといけない。僕が僕であるために。
 小学生の僕は、呆れるほどに生真面目に、マトモであろうとしていた。

 それが、大きな間違いだったのに。

「はぁ、勝手に決めないでくれる?」

 大川くんは、強めに反対してきた。
 うん、こういう反応が大川くんの大川くんたるゆえんだと思う。
 僕が一方的に突っ走るのを、彼はいつもニュートラル《中間》に戻してくれる。そして、僕は自分が無茶を言ったことを認識するんだ。お互いの現実をすり合わせられるから、会話って本当に大切なんだと思う。

「というか、お前が強くなる必要なんてないし。熊谷はともかく、お前になにかあったら、大人たちは黙っちゃいない。幼稚園じゃなくなったんだ。クラスの奴らもそこらへんはわかるだろ」

 大川くんはハンバーガーの黄色い包み紙を、丁寧に四角に折りたたんで言った。五代くんはポテトの塩がついて指をしゃぶって、大川くんの言葉に頷く。

「熊谷の存在に不安を覚えているのかもしれないけど、君とあのブスは天と地で開いているよ。少なくとも君は、私達や他のヤツやに対して気を使っているのが分かるし」
「え、公博は、熊谷さんのこと嫌いなの? 貴子さんは大丈夫だったのに」
「お前はなにを見てきた? 貴子さんには品があったろ。それに、体は引き締まってグラマラスだったし。それにくらべると、熊谷はなにもかもが大根で汚物だ」

 なかなか辛辣なことをいう五代くんに、園生くんはしゅんと項垂れた。

 ごめんね、園生くん。僕が貴子さんを知っていれば弁護できるのに、判断材料がないから弁護の仕様がない。

「だから、大丈夫だって、アイツらがなんかやる度胸もねぇし。なにもおこらねぇよ」
「……だといいんだけど」

 東屋の中に静かで涼しい風が吹き、僕たちの髪の毛を心地よく揺らした。季節は初夏にかわり、周囲の緑の色が色濃くなっていく時期、半袖短パンの僕たちは、こうして放課後を平和に過ごしていたんだけど。

1993年6月5日(土曜日)

「……ごめん、オレが間違っていた」

 僕たちは遠足に行った山で、クラスメイト達とはぐれてしまった。
 故意だと気づいたときには、日が暮れて、夜の気配が山に忍び寄っていた。

 大人の僕の意識が少し浮上する。
 大切な思い出の一つに触れた意識が、身をよじるほどの悲しさと懐かしさに悶え狂い、必死になにかを掴もうとあがいている。

 もうここに居ない友達。
 その時感じた己の幼稚な感情。
 本当に醜い存在は自分だという認識。

 金に物を言わせた自己補完は、結局、延命処置でしかなかったのだろうか。僕はまともになりたかった。少しでもマシになりたかった。ただ、みんなと一緒にいてもいい存在になりたかった。

 絶世の美女になる決断を、十年早く思いきれたら、結末は違うものになれた。少なくとも、殺した人間は二人だけにとどまり、警察に大人しく自首していたのかもしれない。

『みんな、みんな、お前のせいなんだよぉ。どうしてくれるんだよ』

 大人の園生くんが叫んで、暗い目で僕を見る。

 周囲を取り巻く問題は、僕が気づかないうちに最悪な方向に転がって、友達のほとんどが死んでしまった。僕が罪を重ねずに刑務所に入っていたら、もしかしたら、変わっていたのかもしれない。

――そうだと思いたい。

 大人の僕の意識はまた過去へ沈む。
 皆が生きていて、自分もまだマトモな部類だったあの頃へ。

【つづく】

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