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言葉のスケッチ

三島由紀夫は、取材旅行の際、こまめにスケッチをしていたという。

もちろんスケッチと言っても三島の場合は絵を描くことではない。道端に咲いている花だったり、木々に集う小鳥だったり、海岸に打ち寄せる波の様子だったりを、言葉に変換してメモに落としていくという作業である。

風景の中からある一片を切り取り、その場で言語化して、蓄えて持ち帰り、それを一つずつ取り出しては、物語へと昇華させていくのである。


僕はこの話を聞いた(読んだ?)ときに、素直に羨ましいと思った。すぐに僕もやってみたいと試みた。

ところが、これが全くできない。語彙が付いてこないのである。そもそも、その風景をきちんと吸収できていないのかも知れない。感じることも、それを表現することもできない。

感受性の問題なのか、単に言語化の技術が足りていないせいなのかわからないが、自分がスケッチ的な言葉さえ紡げないことに、少なからずショックを受けたのである。


そういうこともあって、僕はいつしか自分で言葉を生み出すことを止めて、誰かの書いた物語を読むことに集中するようになった。もしくは、映像化した物語を鑑賞するようになった。

アウトプットできない人間は、せめて良質なインプットをして、心を少しでも豊かにさせていかねばならぬ。生み出せないのなら、せめて、才能溢れる人間が生み出した美しい言葉や物語を取り込みたい。

そうすることで、自分が表現できない人間だということを、少しでも忘れたかったのかも知れないし、物語を吸収していれば、いつの間にか自分も生み出せる人間になっていることを期待したのかも知れない。

もちろんそんな甘い話はなかったが、それでも物語を読んだり観たりすることで、自分の感性の劣化が食い止められようには思う。


物語の魅力は、もちろん語られるストーリーにあるのだが、僕は、語り口やどのように表現しているのか、という部分に強く惹かれる。

それは僕が、三島のように、思うように表現できない人間だからなのかもしれないし、心の奥底にある欲求そのものだからなのかも知れない。

理由はよくわからないが、言葉の美しい連なりを強く感じたいと願って、僕は今日も本を開く。

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