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教養を強要する。

突然ですが、「お役立ち情報」が多すぎませんか?

特にネット上では、有益な情報、早わかり○○、○○入門、○○ダイジェスト、○○まとめ、○○の名言、○○の習慣、超○○術・・・など、即効性を意識した情報が溢れかえっています。

この類の情報発信は、プロの方の手が入っているので、非常に分かりやすく整理されています。ですので、読むだけで何となく勉強した感じにはなるのですが、何か大事なものが欠けているように思うんですよね。

即効性のある情報や、きちんと誰かが整理してくれた情報を吸収して、それをすぐさま行動に移す。それも悪くはないのですが、僕としては、誰かに考えてもらって、自分は行動するだけというパターンに陥っているように思ってしまうのです。


やや大げさな表現をしますが、人間は考えて行動する生き物だと思っています。

すぐに結果が求められる今のご時世、とにかく「すぐ行動」となるのですが、動く前の「考える」という部分にも重きを置きたい自分がいます。

今のお役立ち情報全盛の社会では、本来自分自身で考えるべき部分を、誰かにフォーマット化・ノウハウ化してもらい、それを無作為に取り込んでいるだけのように思います。


もちろん、そうした即効性情報の需要があることもわかります。

実際に自分も、エクセルでのカーソルの動かし方、今日は何の日?という小ネタ、ネクタイの結び方の上級テクニック、魚の三枚の下し方、などすぐに使いたい情報も求めています。

けれど、そればかりで良いのか、という思いはあります。


僕は人間にとって大事な「考える」という作業を、すごく大切に思っています。けれど、いきなり「さあ考えろ」と言われても、とっかかりがなかったりします。

人間は考えるためにどうするべきか。

僕が今出している答えは、教養を身につけることだと思っています。

古くは読み書き算盤が、基本的な教養とされていました。今はここに、知識と見識を足していかねばなりません。


僕はこのnoteで、主に藤子F作品の考察を行っていますが、藤子作品は分厚い教養を背景にして描かれているので、こちらもそれなりの知見を積んで対応しなくてはなりません。イメージは、教養と教養のぶつかり合いです。(圧倒的に負けていますが…)

藤子作品は基本的に読みやすいので、さらりと一読して、「面白かった」と満足してしまいがちですが、僕は「気付いていないだけで本当はもっと面白いよ」と付け加えたい気持ちでいます。

自分の持ちうる教養をフル稼働して藤子作品に臨むと、これまで見えてこなかった世界や背景が浮かび上がってくるのです。


一例を挙げてみます。

初めて投稿した記事です。のび太のおばあちゃんが登場する感動回『あの日あの時あのダルマ』を取り上げています。

「ドラえもん」は、毎日がひたすらループする「サザエさん」「名探偵コナン」タイプの作品です。誰かが生まれたり死んだりという家族構成の変化はありません

しかし、「ドラえもん」がやってくる前の過去にまで視点を広げて考えると、野比家はおばあちゃんの死という、大きなイベントを経験しています。作中では直接的に描かれてはいませんが、のび太は大好きだったおばあちゃんとの死別という大きな喪失を経験しているのです。

この喪失がのび太を成長させます。普段は駄目な男の子ですが、自分のことを期待してくれたおばあちゃんがいたという事実が、彼を幾度となく本気にさせ、大人へと引き上げてくれるのです。本作での「ダルマ」は、おばあちゃんの思い出と、何度も立ち上がるのび太自身を重ね合わせた小道具であると言えるでしょう。

主人公たちの過去を想像してみる。それがどのような影響を与えたのかを考えてみる。自分自身の経験を当てはめてみてもいいかも知れません。このような作業には、教養が必要です。この場合は主に「読解力」ということになると思います。

また『あの日あの時あのダルマ』では、当時大ヒットしていた映画「人間の証明」のパロディが出てきます。これも映画を観ていなければ中々気付きません。ですが、本作を読んでいた「小学六年生」の読者は、「人間の証明」は知っているだろうと思って描かれています。この事実から、当時の角川映画がいかに世間的なブームだったのかがわかります。

つまり、マンガから連載当時の時代背景も垣間見れるということです。こういう時代性に頭を巡らせるのも一興と思います。


ところで、教養を深めて、自分の頭で考えることで、私たちは何を得ることができるのでしょうか。

僕は「面白い」ことを、「すごく面白く」思えるのではないかと考えています。


「面白い」が、「すごく面白い」へ。

これはドラえもんの話だけではありません。人生全般がそうだと考えます。人生をすごく面白いものに変えるために必要なのは、即効性のあるお役立ち情報などではありません。じっくりと時間をかけて知見を蓄え、自分自身の頭で考えて、初めて浮かび上がってくるものだと思います。

教養を獲得していくことは、もの凄く時間のかかることで、しかも終わりがありません。目に見えて知識が増えるわけでもなく、すぐに行動に移せるような即効性もありません。それゆえ、目先に捉われないよう、強く意識しないと教養は学べないと考えています。

そのため、教養を学ぶことを自ら義務化しなくてはなりません。

自分自身の手で、自分自身に対して、教養を強要しなくてはならない。今はそのように思います。

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