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ツラい現実を改変してね。 〜原宿さんに敬意を込めて〜

現実は辛い。辛くない訳がない。
気づいたら他者と比べられ、評価され、
「◯歳だから」等とやることなすこと、そのハードルを勝手に上げられ、
それが求められる環境に放り出される。

例えば、最近の辛い現実は子どもについてである。
子どもは何かにつけては泣き、言うことを聞いてくれない。
それが毎日続く。とは言えいい大人なので、泣いて悩みをぶつけることも誰にも出来ない。

逃げることはいくらでもできる。
親族はいつだって優しいし、スナック菓子や嗜好品、酒やドラマ、アイドルにハマることで現実逃避するのは簡単だ。
それが唯一の解決策かのように振る舞う人もいる。
「今期のアニメで見るやつはなさそう…」
「〇〇のドラマ見ないと…」
(そもそもなんで見る前提なの???)
その時間で悩みに対抗するための別のなにかに取り組めるのではないか。でも見ちゃう…
そして、時間は過ぎる。
悩みは何も解決しない。そもそも悩みが何なのかもはっきりせず、がゆえに毎日が辛いのである。
そして「自分はなんでこんなにだめなんだ」と嘆き、自己嫌悪。
また逃避して、また現実に直面すると「辛い…」の繰り返しだ。

子は親の背中を見て育つ。子は親の鏡だ。
自分の口をついて出る暴言を、子は真似して泣き叫んでいるのかもしれない。
しかしどちらが先に起きるわけでもなく、
いわゆる卵が先か鶏が先か、という状態である。
一方で、子どもは好き勝手やるのを止められない。
ではこの悪循環を止められるのは親しかいない。
そう、親である自分が流れを変えるしかないのだ。
そう思うと、脳ミソの今まで使ってなかった部分が動き始める気がする。

少し前に、
オモコロというWebメディアの編集長である原宿さん
の娘さん
の振る舞いがTwitter
(この記事を書きかけで眠らせている間にXになってしまった)
で話題になっていた。

こういう話題に
「素敵です!,゚.:。+゚」
「こんな世の中になることを願って✨️✨️✨️」
という人も、
「は、現実は厳しいものだから。」
「だいたいこういうことするやつは頭悪い…」
という人も、
なぜか私が小学生の時からクラスに一定の割合で存在していて、
今に至るまでにも、
テレビで街頭インタビューを受ける人にも、
ネット掲示板やSNSにも
ずっと一定の割合で居続けている。不思議だ。
ただ、こういうコメントには、意外な驚きや感動というものがないので、何の価値も感じない。
世界のどこかのサーバーを圧迫するならそれなりの価値を目の前に突きつけて欲しい…頼むから…

……つい心の声がだだ漏れて脱線してしまったが、
このツイートの真意を本人は以下のラジオでこう語っている。(一部中略しています。)


「僕が学校教育に物申すみたいな感じで見えちゃってる人もいると思うんですけど、
教育がわるいとか、もっと優しく問題を出せ、とか全く言うつもりはなくて、
現実って厳しいじゃないですか。
でも、娘の中で現実を、こう、自分なりにアレンジして、
楽しく生き方を見つけよう、現実は厳しいけど、私は私で楽しく生きていかなきゃ、
みたいな、なんかそういう現実を変えていくような部分があったから、『いいぞ!』と思ったんですよ。」

こういう新鮮な驚きを与えてくれる考え方こそ、
優先して、どこかのサーバーを使用させてあげて欲しい。
(まあ現にどこかのサーバーにあるから我々がいつでもアクセスできているのだが)
そして、なんだかつらいこの世の中に最も必要な考え方ではないだろうか。

要は、辛い現実を受け止めるのは自分だが、
受け止め方を変えることができるのも自分だけなのである。
「辛い」「つらい」「ツラい」ととにかく落ち込むことがあっても、それは単なる感情の1つに振り回されているだけだ。「楽しい」とか「悲しい」とかと同じただの1つの感情だ。
この考え方を知っているだけで、
感情が先行して辛さを訴えてくるのを去なしつつ、
じゃあ、ツラい現実をどう改変して、打破していこうか、そういう思考の切り替えを促してくれる。

なんだか、自己啓発本みたいな内容になってきたが、
1000円もかけず、むしろ0円で
こういった気づきに出会えたのは自分にとっては大変有意義だった。

原宿さんを初めて知ったのは以下の動画だ。
そこからオモコロにも、オモコロの他のメンバーにもハマっていくのだが、それはまた、別のお話。

今思うと原宿さんこそ
ツラい現実を改変することで、困難を乗り越えてきた張本人のようにも思える…

てか、清々しいほど改変しずぎじゃない?

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