見出し画像

『春高バレー』という青春の全て


〜高校入学〜

2013年、少しサイズの大きめの着なれない制服を着ながら高校への道のりを歩いていた。

家から通学先の学校までは約1時間半、その時間があっとう間で、高校までの道のりが縮むにつれて胸の高まりはとうに魔法少女キキのように上空高くまで跳ね上がっていた。

僕は写真のようにバレーボールをしていた。入学先では県で1位か2位を争うほど、僕はそこへ入学しチャレンジをしたかった。あの日から今や7年。今振り返ると高校3年間全てバレーボールに注いでいた。

〜高校生バレーボールの夢の舞台、春高〜

当時僕は春高とは口にしていたがなぜあそこまでこだわっているのか恥ずかしながら理解をしていなかった。勿論、高校最後の大会だから出場したい気持ちはわかる。でもそうじゃなかった。春高バレーは、コートがオレンジコートという春高でしか経験できないコートだからだ。

そこでようやく気づいた、春高バレーの価値を。

春高に出場するのは価値あること、でも春高に出場することに価値があるのではなく春高で自分の望んだ結果を出すことに価値がある。それは県での代表権を獲得しなけらばならない。

〜苦楽を共に〜

練習は容易じゃなかった。終始帰りの電車やバスでは常に爆睡していた記憶が、、笑

練習や試合で自分が毎日がうまくいくわけでもない、バレーはチーム競技、先輩後輩関係なく試合に絡む。どうしても人間関係につまづく時もある。でもそれは悪口ではなく、今思い返すと、本気で勝つために僕らはぶつかり合ったんだなとひしひしと感じた。

当時の監督はすごかった。なにがすごいかというとこれからのを読めば伝わるでしょう。

僕が中学3年の頃、県の代表として全国選抜大会に出場したことがある。試合にはメインで出ることはなくとも共に練習し必死に戦った。それを糧に高校ではスタメンを獲得し活躍するのが目標だった。入学して間もない頃。僕だけが中心のメニューに切り替わり、そのメニューの終盤僕は跳べないくらい、今にも倒れそうなくらい厳しく取り組まれた。すると監督は

「スパイクを1打って、腕立て30回したら終了だ」

ボールをセッターにあげてもらい強く相手コートにボールを叩き打つ。そして休む間もなく30回腕立てをする。なぜ腕立てなのか、監督は僕の腕がプルプルで限界なのを見越してのことだろうと感じながら早く30回をこなし練習を切り上げるために腕立てをした。

30回の腕立てをした僕は終わった途端に床に崩れ落ちた。腕に力が入らず感覚をなくしてしまった。先輩や同級生は「ナイスファイ」というナイスガッツ的な言葉をかけてくれる。正直それに対して返事するのもキツかった。

すると監督の口からは当時の僕からは理解できない言葉を放った。

「それじゃ、いくら技術があろうと、選抜だろうが難しいぞ」

わけがわからなかった。僕の今あるプライドはズタボロにされた。なぜメニューを成し遂げて、姿を見せているのに?それが理解できたのは後輩ができたからだ。

2年になり後輩が入学してきた。後輩の中にも中学時代輝かしい功績を収めたりしている子だったり、あまり聞いたことのない出身の子もいた。そのあまり聞いたことのない出身の後輩と一緒にトレーニングをしていると、あることに気づいた。

誰にも負けない競争心と追求心

その後輩は言われたメニューが終わってからも続けてトレーニングをしていた。なにしているのかと尋ねたことがある。なんと言葉にしていたか覚えていないが意味ではこのようなことだった

言われたメニューをこなすのは当たり前で、本当に勝ちたい、上を目指すのであればそれ以上に取り組む

稲妻が走ったように監督の言葉を思い出した。後輩に尋ねたこともとても恥ずかしくなった。上には上がいる、現状で満足したら終わり。初めて自分の立ち位置に危機感を覚えた。

そうして僕は残りの高校生活を毎日全力で取り組み、高校3年生の自分の代になってからは県や地方大会1位で1位を獲得することができた。

画像1

僕は高校3年間春高やインターハイを経験した、望んだ結果は得ることができなかった。

今バレーをしてみろと言われたら当時の動きをできるわけなんてない。でも僕の人生という大きな括りでみると大事なのは

一緒に苦楽を過ごしたチームメイトの時間、全国の経験や人脈、先生からの学びが僕の人生にとっての大事な財産です。

あれ?これなんかまとまってなくね?これで多分短編小説かけちゃうくらい濃厚だったからここに書ききれないな笑

スポーツを全力でやってきた方はきっとそうなんでしょうね、それくらいたくさんの経験をした、それが素晴らしいことですよね。













この記事が参加している募集

部活の思い出