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【短編小説】ヘキ

「みいちゃん、お姉ちゃんが帰って来たよー」

 たった今、私に姉ができた。
 その代わり……兄を失った。

 玄関先で悠里を迎えながら、「五年ぶりだね」と声をかける。私はちゃんと、笑顔になれているのだろうか。
「五年も経つのかー」よいしょ、と悠里はトランクを軽々持ち上げて、鞄から取ったウェットティッシュを広げて慣れた手つきでキャスターを拭いた。

「悠里、ごはんは食べたのー? 」母の声がキッチンから聞こえた。
「まだー、でもバスに乗る前に食べて来たからいらないよー。お母さんも休んで」
 悠里の声はこんなだっけ?と昔を思い出すも、五年という年月は意外にも長くて、聞き慣れたはずの声が耳によみがえっては来ない。

「お父さんはいるの? 」悠里がリビングに続くドアに向かって聞いて来た。
「ソファに座ってる」
「ソファってあのソファ? 」
「そうそう」
「まだ使ってるんだ」
 悠里がそう言うのも無理はない。父が愛用しているソファは、正直に言ってスプリングにガタがきている。もう二十年以上使っているのだから仕方がない。あのソファで小さかった私と悠里は寝転がって遊んだり、喧嘩をしたり、父の肩を叩いたり、白髪を抜いたりと、日常をたくさん過ごしてきた。
「お父さんにとってはね、儚くて貴重な思い出なのよ」
 悠里が出て行った後、ソファに座る父を一瞥したあと、母が私に呟いた言葉だ。
「びっくりするだろうな」と静かな笑みを零した悠里の目は、少しだけ緊張が過っていた。

「お父さん、悠里が帰って来たよ」ソファに座る父の後ろ背に声をかけると、あぁ、とこちらを向かずに返事をした。きっと父なりに接し方を考えているのだろう。
「お父さん、ただいまー。ご無沙汰しています。これ、お父さんが好きそうな肉まんだったから買ってきたよ」悠里が紙袋をキッチンテーブルに置いた。ジューシーな肉の香りが鼻腔を燻る。

「お父さん、夕飯もあまり食べていないでしょ。一つ食べたら? 明日は休みなんだし」お母さんがキッチンから父に声をかける。
うん、と零してお父さんがゆっくりとソファから立ち上がり、私たちの方を向いた。

「お、おかえり」分かりやすい父の緊張ぶりに何か言いたくなる。
「お父さんさ、分かりやすいね。私の格好を見て明らかに驚いているし」
「そりゃそうだろ。む、むすこが、む、むすめになって帰って来たんだから」
「ま、そだね」悠里が申し訳なさそうに笑った。
 正直なところ、私もこの悠里の姿に慣れてはいない。細身のデニムにオーバーシルエットのトップを羽織ったカジュアルな装いに髪をアップにしてまとめている。

 後ろから丸見えなうなじがどこか蠱惑を放っていて、これは本当に元兄なのか、と信じ難かった。
「ヘキなのか」父が悠里を見て呟いた。
「ヘキって? 」悠里が不思議そうに聞き返す。
「女性の格好をする男性も増えている。ヘキは意識的に繰り返される習慣的行動だ。反対にクセは無意識で行われる習慣的行動なんだよ」
「それがどうしたの? 」悠里は父を向いて言った。父は目を合わさず、肉まんが入っている紙袋を見つめている。
「ヘキは強いこだわりがあるから、度を超すと大変なんだ」父はコクリと頷く。悠里に言っているというより、自分に言い聞かせているようだ。悠里もそれに気づいたのか「お父さん、私は別に強いこだわりでこんな格好してるんじゃないよ。これが私なの」とほほ笑んだ。

「心配なんでしょ、お父さん。だったらそれを先に言わないと分かんなでしょ、悠里だって」
 ねぇ、と母が悠里に目配せした。心理士である父は、職業柄、人の心を分析しようとする。でもね、人の心は機械じゃないから、そんな簡単に掴み取れるものではないんだよ、と父の横顔に訴えた。

「それよりコレ食べてよ。お店で三十分も並んだんだよー」そう言って悠里が『宇宙一美味しい宇宙肉まん』と書かれたグレーのラメプリントから成る直方体のボックスをテーブルの真ん中に置いた。
 正直、肉まんが入っているようには思えないボックスだ。けれどもそんな思惑を見透かすかのように、中から出てくる美味しそうな香りが、これは正真正銘肉まんだよ、と言わんばかりに私の猜疑心を打ち砕いた。

 さらに、ボックスの中央には宇宙人の絵が描かれ、
『地球の民よ、これを食べれば気分は宇宙』と吹き出しが出ている。本気の宇宙人の絵というより、怖さを全く感じさせないユルい宇宙人の絵はなんというか微妙だ。

フフフ。。。押し殺した笑い声が横から聞こえて来た。
「宇宙肉まんって。ッフ。なんで宇宙やねん」            父が少し前かがみになって小刻みに笑い出した。ツッコむ時だけは、生まれ育った大阪の血が流れて大阪弁になる。
 横を見れば母も、ウケる、と一緒になって笑っている。
 それを見た父が更にイヒヒヒヒと声高に笑い出した。父の笑い方にはちょっとクセがあって肩が上下に動く。それはもう激しいくらいに。
 それが可笑しくて私も堪えきれずに笑ってしまう。横を見ると悠里もお腹を抱えながら笑っている。みんなの視線は宇宙肉まんより父の上下する肩に注がれていた。当の父は自分が笑われているのも露知らず、宇宙肉まんって、と何度も呟いて完全にツボっている。

 その様子に安堵したのか、母が私と悠里にノンアルコールのビールを渡してきた。それで、行け行け、と手で私たちを促している。 
 庭に行け、と言っているのだろう。父が半年かけて自分の手でリフォームした庭だ。悠里を誘い、私は庭の窓を勢いよく開けた。

 少しだけひんやりとした夜風が私の頬をなぞり、思わず肩をすくめてしまう。
 悠里はそんな冷たい夜風をもろともせず、そのままベランダの真ん中まで足を進めた。
「これもお父さんが? 」
「そうだよ、お父さん頑張ってたねー。いつかみんなでバーベキューができるようにって」
 庭の中央に置かれたバーベキューテーブルの端を手でなぞり、いつかっていつよ、と悠里が苦笑いを浮かべた。きっとお父さんは将来、私と悠里に新しい家族ができることを願っている。

 でもそれは世間とは少しだけ違ったカタチになることは、父なりに受け入れようとしているのだろう。庭には、そんな父の想いが見え隠れしているように感じた。
「これっているの? 」悠里がよいしょとハンモックに寝転んだ。
「ハンモックで読書するのが夢だったんだって。ネットで悠里の住むポートランドの画像を見てたら、広い庭にハンモッグが木にかけられている画像を見つけたみたい。それが理想だったのか分からないけどネットですぐにポチってたよ」
「素直じゃないよね、お父さんは。私に聞けばいいのに。アメリカにしかない物とかあるからさ、送ってあげられたのに」
「どう接していいか分からないだけだよ」
「私は普通なのに」ね、と言いたげに悠里がひょいとハンモッグから降り、脚が地面に着地する。陸上部の名残か、細身のデニムが引き締まった足に良く似合うな、と思った。

「お父さんもさ、悠里のことヘキとか言っちゃってるけど、照れ隠しだよ。なんならお父さんもヘキがあるから」ほら、と私は倉庫の中を見せた。そこには大量の木材だけが収納されている。
「何これ、焚火でもすんの? 」
「違うよ、日曜大工にハマって、要らなくなった木製の家具とかを近所から貰ってきては解体してためてんの」
「これこそヘキじゃん」少々呆れた表情を零して悠里が近くにある木の椅子に腰掛けた。私もその横に座る。

 立ったら悠里の方が私よりも十五センチほど高いから見上げる格好になるけど、座ると同じ目線になる。ということは悠里の脚が長いのか、それとも私の脚が短いのか。同じ遺伝子から生まれた筈なのにこうも違うのは何故なんだろう。
「ここに皺寄ってるよー」悠里が私の眉間を指差した。  
「色々考えることがあるのよ」
「まあ、とりあえず飲もう」カンパーイ、と悠里が缶ビールのプルタブを開けた。私もそれに倣ってプルタブに指をひっかけるが、ネイルをしたばかりでどうしても爪を庇ってしまう。
 かして、と悠里が私のビール缶を取ってプルタブを引っ張った。悠里だってネイルしてるのに。そういえば昔、ジュース缶を上手く開けられなかった時もこうやって悠里が開けてくれたんだった。

 はい、と渡されたビールに有り難く口を付けた。
「みいちゃんさ、ちゃんと寝れてないでしょ」
「どうしてそう思うの? 」
「ここ」と悠里が目の下に手をやった。
「もしかしてクマ、できてる? 」
「クマはね、美の大敵だよー」そう呟いてビールを勢いよく飲み始めた。悠里の喉の出っ張りが嚥下する度に上下する。
「悠里ってお母さんに似てたんだね」少し前屈みなって顔を覗き込んだ。

 一瞬、驚いた目をしたが、すぐに目じりが垂れ下がり、「私もね、こうなってから知ったの」とまた缶ビールに口を近づけた。
「こうなってから、か」
「そう、こうなってから」
 何だか可笑しくなって笑いが込み上げる。悠里もニッと笑う。そう言えば子供の頃はこんなして一緒によく笑った。
 年頃になった悠里に父や母がそれとなく恋人の存在を聞いた時、少し迷った表情を零して「そのうち」と言ったんだった。

 それは今思うと悠里なりの精一杯の「逃げ」で「優しさ」だったんだと思う。その時になんとなく悟った。悠里は、戦ってるんだと。そこから悠里とは距離ができたように思う。私が大学入学と同時に、「アメリカに行ってくる、少し長くなる」とだけ言って出て行った。その時の悠里の背は、大きな決心を背負っていたように感じた。

「みいちゃん、今日は満月だよ」
「そうだね」
「それにしても、お母さんはなんでコレを渡してきたの? 」悠里の視線は缶ビールに注がれていた。
「満月の夜にね、お庭で缶ビールを飲むのが私の習慣なの。あー、今日あのチップス買ってくるの忘れた」
「あのチップスって、私が一度送ったアレ? 」
 悠里からはたまに物が送られてきた。私が好きそうなもの、父が好きそうなもの、母が好きそうなものをきっと想像して選んだんだろうけど、見事に当てが外れて、みんなで苦笑していた。ただその中に私好みのチップスが混ざっていて、そこからはネットで注文するようになった。
「あのチップス、匂いがすごいんだよ。よくあんなの見つけるね」
「みぃちゃん好きそうじゃん」
「どういう意味だよ。でも、あのチップスさ、指にべちゃーって付くの。それを舐めてノンアルビールを満月の下でこうやって飲むのが最高なんだ」
「ヤバイね、それってヘキじゃん」
「ヘキじゃないよ、習慣だよ」
「まあ、ヘキだとしてもいいじゃん」悠里がニッと笑う。

「日本にもう帰ってきたんだよね? 」そう聞くと、んー、と悠里が唸った。
「一応、やることはやったしね。まあ、帰って来てもいいかなって」
「正直さ、動揺はしてるよ」ビールを一口飲む。
 このままの悠里を受け入れたいと頭では分かっていても、いざとなるとまだどうして良いのか分からない自分もいる。少しだけ感情が迷子になっているのは、悠里も同じかも知れない。

「私はみいちゃんのお姉ちゃんでもあるけど、ずっとお兄ちゃんでもあるから」そう言ってワシャワシャと私の髪の毛をぐちゃぐちゃにした。目頭が熱くなる。そうか、私はお兄ちゃんである悠里が大好きだったんだ。
「みぃちゃん。ごめんね」悠里の手が頭から離れた。

 悠里は自慢のお兄ちゃんだった。格好良くて、頭も良くて、みんなに羨ましがられるほどの、世界に一人だけのお兄ちゃんだった。 
けれど、この気持ちが悠里を苦しめて、ずっと自分を偽って生きていたかと思うと、私は自分のエゴで兄の人生を縛っていたのかと思うと罪悪感が募る。

 素直な言葉が出ず、悠里の謝罪に「訳分かんない」とだけ発した。
 刹那、顔に何かがかかった。
「ちょ、なに!? 」
 頬を伝う雫が苦い。
「ビールぶっかけるとかあり得ない」
「昔、水風船とかしてたじゃん」
「全然違うでしょ! 」
 思わず手に持ったビールを悠里の顔めがけて噴射させる。が、うまく交わされるどころか、またかけられる。追っかけ回すがさすが元陸上部。決してそう広くない庭を大の大人が走り回る光景は何とも滑稽だろう。そして、私は悠里めがけて本気で突進した。二人して芝生に倒れる。不意におでこに柔らかいものが当たった。悠里の胸だった。
「何カップ? 」
「教えなーい」悠里が体を離し、先に部屋に戻っていった。

「びしょびしょじゃなーい」と母の声が聞こえる。
「宇宙肉まん、宇宙一美味しいぞ。父さんが認める」父はまだそこ・・にいた。

 みんなの笑い声が耳に届く。火照る顔に当たる夜風が心地いい。空を見上げれば満月が私を見下ろしていた。次の満月の日も、悠里と一緒に飲めるだろうか。
 庭と満月と缶ビール、そして今度はチップスも付けて。この組み合わせはどれ一つ欠けても成立しない。
 私の強いこだわり、いや、ヘキなのかも知れない。悠里がこっちを見てニッと笑った。
 その顔は確かに、私の知る兄の顔だった。

しゃろん;

『宇宙肉まん』が救世主。この世に存在するなら食べてみたい😏

最後まで読んでくださいましてありがとうございました。



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