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サンタが来ない今冬の散財について正当化をしよう


ああ、再生できないなあ、とスマホのオーディオプレイヤーを覗き込んでいたら、またしても私はクリスマスにしてはダークなことを考え始めた。

青春は振り返らない方が

小学生の頃に、税込9900円ぐらいで(今はもう税率が変わったけど)サンタ(親)に買ってもらった簡易版女児用スマートフォン玩具の“スマトモ”の、今はおそらく著作権法的に色々とアウトなオーディオ録音機能で、Youtubeを画録して聞いていた“ドーリイカノン”の実写版DVDドラマの劇中曲。何回聞いたかわからないぐらい奏四くんのKanonを聴いていたのに、Apple Musicでは再生できないらしい。

中学生になってサンタ(親)にまたしても買ってもらったまだ進化前・クラウド接続機能搭載前のウオークマンに、TSUTAYAで借りたCDから必死にPC経由で取り込んだaikoの明日の歌も、まだ廃盤になる前だったClipBoxで必死にマージしていたMP3のボカロも、今はファイルの書式が違うとかなんとかで、PCでも再生できないらしい。

そう。高校生になって、海外の高校では学割が適応外だったから、仕方なくApple Musicで大人料金の980円ぐらいの音楽サブスクを毎月MUFGの口座から引き落とされるよう渋々クレカを登録してから、沢山の子どもの頃に聞いていた曲たちが再生できないことにやっと気づいた。

アーティスト名もアルバムカバーもどちらも画面上の表示がブランクのままでも、曲名だけ記載が残ってはいるから、普通に検索して追加すればいいだけではある。でも、あの汚いノイズが入って音量を最大にしないと細かいスネアの音が全く聞こえない感じが良かったからな〜なんて考えると、その瞬間的な曲数追加のスワイプすら、怠惰に感じる。それに、奏四くんは「巡る季節、繰り返す奇跡」とか意味不明な語感のことを歌詞であけすけに言っていたと後から気づいてしまって、私の一抹の青春が薄っぺらい歌詞で彩られていたと気づいてしまったから、今更綺麗なオーディオでは聴きたくない。それでも私は頑張れシンデレラよりも、ハッピークローバーよりも、シグナルソングのKanonが好きだ。ちゃおヘビーリーダーのあの頃の小さなお友達しか分からないネタだとは思うけれど、別にいい。ちなみに、私は、いつかの付録の“君は空の全て”の鍵のネックレスをいつもつけて中学受験塾に通っていた。学校から帰ってきて自宅でわざわざあれをつけてから、近鉄電車に乗っていた。あれが世界で一番かわいいと本気で思っていた。

サンタさん文化始めたの誰だよ

高校生の間はそもそも日本にはほぼ住んですらいなかったので、例のスマトモやらウオークマンやらが、最後に公式的にサンタからもらったもの等だった気がする。サンタの正体が、わざわざ夜にWordでサンタの手紙をタイピングして、アスクルでラッピングペーパーを買って、夜のうちにわざわざキッチンの牛乳を飲み干して、12月頭ぐらいに「今年の欲しいものは早めに言っておかないとサンタが困っちゃうよ〜!!」と言ってくれていた、親の努力の結晶だったことに、そろそろシラを切れなくなってきて、私の中のサンタは中学3年ぐらいを目処に終わった。

私の一番下の妹は歳の差が9個もあるがばっかりに、その長年のサンタネタにあやかれず、今は普通に高島屋のクリスマスシーズンセールにかこつけて、ナルミヤインターナショナルの頂点ことメゾピアノで大量にそこらの大学生の全身コーディネイトよりも高価かもしれないコテコテのフリルのTシャツを何枚も母に買わせている。ちなみにメゾピアノの女児向けミニバックは、まあまあ高い。とにかく、親のことを心底嫌いだと憤怒の感情が湧き上がった後に、こういう不必要な愛情らしいエピソードを思い出すと、胸糞が悪い。いっそ、0歳の頃から「サンタってのはな、日本においてはバレンタインと一緒で企業マーケティングの一種なんだよ。トイザらスの決算書を一緒に読もう!」なんて教育をしてくれていた方が、より社会に対して現実的な19歳になれたかもしれない。きっとそうだ。

それぐらい、サンタネタは、心にくるものがある。私は毎年23日だったり、24日だったり、25日だったりにランダムに中庭にプレゼントを毎年違う書式の手紙と包装紙で持ってくる“サンタ”のことを「サンタは忙しいから地区に分けて23〜26日でみんなの家を回っている巡回制なんだ!」と若干7歳ぐらいで周囲の“サンタは親派閥ら”に対して言い張ることで、この大いなる矛盾を自己解決し、説明・納得しようとしていた。この細かい日程の年次別のブレ具合が、ほぼ1人で5人の子どもを育てたうちのワーママらしい良いガサツさで、そこまでもが非常にずっしりと腹にくる。腹にくるという、いかにも抽象的で頭の悪い表現で“ここ”を終わらしておきたい心情は察して欲しい。家族には言葉にしたくない感情で溢れている、特にうちの場合は。

とにかく、沢山の“物理的に今は再生できないあの頃的な曲”が増えに増えまくって困っている。iPhoneのデータも写真も、適当なデータ移行のせいで機種変のたびに何かしら無くすのに、小学生の頃に聞いていた曲のデータが、ファイルの殻だけだけれども、まだ私のiPhone14に残っていることに、困っている。

その間に、“12歳”で結衣役だった山本杏奈ちゃんは、いつのまにかゴールデンのドラマのレギュラーになっていて、“ひらいて”の主演になっていた。一方で“12歳”よりも面白かったはずの“ドーリイカノン”のダブル主演の子たちはもう芸能界のどこにいるかも分からなくなって、私の漫画の趣味はちゃおとかショウコミから、Twitterの整形・夜職女子の実態、みたいな読んでも何のご利益も得られなさそうなトーンも碌に貼っていない“#漫画が読めるハッシュタグ”で最も簡単に脳死で読めてしまう1話完結で頭を使わないモノか、ジャンプかヤンガンだけになってしまったのに。そういえば電子書籍で漫画を200巻は買ってたはずのキンドルのアカウント、電話番号変えたらログインできなくなった。結婚を理由に電話の回線止められただけから自業自得だけど。八雲さんは餌付けがしたい、せっかく最終巻まで買い足してたのに、勿体無い。

本当だったらサンタに私の無くしたKindleデータたちをそっくりそのままプレゼントしてもらいたいところだが、生憎もうサンタはとっくにいない。だから、代わりに何かを理由をつけてお金で分かりやすく買える不必要なものを最近は買っている。絶対なくてもいいキラキラのシャドウとか、色違いのロングブーツとか、新しいネックレスとか。誰かにモノをもらって、お金をもらって、たったその何時間か働けば稼げるような何枚かの紙幣で、「若くて消費できてバカで加護の対象で買い叩けて俺より格下の女だ!」だなんてそこらの馬の骨に思われるぐらいなら、誰かがいつかに私にくれそうなものは全部自分で買っておきたい。家も、宝石も、バッグも、別にもうこれ以上いらない。できれば、イタイ成金もどきになる前に質素倹約、毎日味噌汁を飲んでいく長寿を見据えた生活とかに切り替えていきたい。でも、腹が立つと、気づいたら何かを自分に与えたがっている。まあ、12月はセルフサンタだし、ええやん?1月誕生日だし、もうお年玉もらえる年でもないし、あげる側だし、などと言い訳をしながら。

でも、サンタは一個だけしかおねだりできないイベントだからいい。プリキュアの変身グッズも、新コスも、ステッキも、妖精のぬいぐるみも。ほんとは全部フルセットで欲しいし、そうすれば完璧なプリキュアごっとができるけど、仕方なくサンタさんには変身グッズ頼んで、12月25日から1月7日の誕生日までの二週間弱を頑張って待機し、誕生日プレゼントに新コスチュームの衣装を買ってもらうのがいい。全部何もかも買ってもらって育つと、傍若無人で何か買ってもらって当たり前、って思う子どもに育つからだ。だから、本当は最初からウオークマンが欲しいけど、小学生には高いからと言われて機能性が皆無のおもちゃを買ってもらって、本当はパソコンが欲しいけどまだ早いと小言を言われて中学生ではまだウオークマンの年代物を滑り込みで買ってもらって、やっとそれなりの年になって自分でiPhoneを買い替えるのがいい。(どうでもいいが、この年で今だにママに携帯代を払わせている男と、払っている親は碌でもないに違いない。みんな、大人になったら携帯代は自分で払おうぜ。)

だから、離婚騒動後、何ヶ月かぶりに所用で渋々顔を合わせた母親の目を見て、騒々しいカフェの中、抹茶ラテをつかむ自分の右腕の震えがとまらなくても。「あんたちゃんと食べてんの?」と言われて、精神的な恐怖心を栄養失調やら過度なダイエットやらと見間違っている母を見ても。傷ついたとかはない。もうママはサンタはとっくに卒業してるからだ。

いらないものが買いたい

帰り際に、妹が新しいDiorの財布を「ママに買ってもらった〜」と自慢してきて、帰り際に「きょうちゃんもいい子にしてたら買ってあげるよ」と母に言われて、意図しないクリスマスプレゼントが手に入りそうだったけど。それは、発展途上国の空腹の孤児の前でびっくりドンキーを頬いっぱいに頬張るぐらいには、今の社会的立場における私には、残酷で無知なことに見えたから「自分で買えるからいい。」と高飛車に断りをいれた。私には「可愛げがないなあ」だそうだ。

多分、Diorの財布を買わせられる気概と可愛げとやらがある女に生まれた方がこの世界では上手くやれたんだろうけど、それより私は自分で働く方があっている。それで無駄なものを心の動揺や弱さにつられて買って、後から後悔するぐらいがあっている。一つしか選べないよというタイプの躾はもう既に一通り完了してもらったから、今度はいらないものを沢山のものから弾き出す訓練をする番だ。その前に十分に不必要なモノを買ってみる番だ。

それでも、母は「仕事ばっかりしてないでゆっくり勉強をしろ」といっているし、それがきっと正しい。この年で別にいい飯なんて食べなくても健康だし、パパ活のせいで価値がインフレしているハイブラの鞄なんか持っていなくても大学生らしい人権はあるし、わざわざ整形をしなくたってイジメられはしない。会社を畳んでたって、就職はできて、それなりに新卒として社会に馴染んで行く術をどこかで泣きながらにでも見つけるはずだ(そう願いたい)。でも、歌を生業にする妹がいつも歌っているように、私は言葉を生業にしていつも働いていたい。

自分の足で欲しいものを一つずつ、欲張りに選んで、買って、増やして、愛していきたい。そして、大抵の光りものを買い集め終わった後に「全部いらなかったけど、楽しかったからいいわ」と言いたい。男も、ハイブラも、無駄に高い家賃も、全部いらない無駄な金と時間だけど、そういう無駄を今の内に知っておくべきだと思う。思いたい。

小学生の頃にサンタがくれた、簡易版女児用スマートフォン玩具“スマトモ”はもうどこに行ったかもわからない。中学時代にテスト勉強でお世話になったウオークマンはもういらなくて、今はスマホでしか音楽は聴かない。ちゃおの原価が30円ぐらいの漫画のキャラとお揃いのネックレスは、シャネルの新作に入れ替わって、メゾピアノの一着20000円のスカートよりもルミネの4000円の安物のデザインニットが可愛く見える。そういうものだ。

ある意味の女性の解放

ある時、シャネルの担当に「今のクリスマスシーズンだと、何がギフトで一番出るんですか?」と聞いてみた。「やっぱりバッグですねえ」だそうだ。

やっぱりそうだよなあ。私の狭い世界の、どこに、値上がりし続けるクラシックハンドルを買ってくれる男やら女やらがいるんだろう、と思いを馳せているぐらいなら、次の価格高騰の前に買うべきだよな。そう思っていると、担当さんは、私みたいな子どもに、わざわざキャビアスキンの絶対に実用的ではない重さのバッグを見せて、「お仕事にも使いやすいですよ!」という。そんなわけがあるはずないのだけれど、その非実用的な重さに私たちは対価を払いたいこともまた事実だ。

誰が決めたのか知らないけれど、履かなければいけない正装のパンプスや、ストッキングや、髪の艶やらといった、どこかの誰かが強いている「それなりに綺麗でいろよ」という首絞めを伴う脅迫、に対してコストを渋々払うぐらいなら、いっそ年にも分にも不相応の新卒の初任給の7倍はする鞄の方を買いたい。自分で。

その艶めく鞄の中に、ガムの包装紙ぐらいには捻り潰してぐちゃぐちゃにして捨ててきた男たちとの軽薄な記憶、コミュニケーションコストが高くて腹が立っていた仕事での憤怒、少しだけ普通ではない様相をしている私なんかについて明け透けな言葉を交わす暇人たちへの哀愁、つまんない酒の呑み方で文化人のふりをしたがる大学生への嫌悪、とか。そういう不要なモノたちを全て詰めて、シャネルの皮に味を出していく養分にしよう。

私は、自分が「素敵な大人になろうと思って買ったから」とか「〇〇くんに買ってもらったから」なんて理由でモノを慈しむ日は、死ぬまで来ないことを知っている。(いつもタールよりも濃厚で鬱屈した感情を整理するためにものを買うことが多すぎるからだ。)ただ、その代わりに一番好きなやたら重たい鞄を持って下町を一人で歩く自己効力感を味わい続けたい。必要以上に高いものを買う意義はそこにある。別に幸せはカルディのちょっとだけ高いクッキーからだって摂取できるけれど、すぐになくなってしまうから。


fin.

ぽちっといいねください。



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