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【映画レビュー】THE FLASH(2023)

THE FLASH(2023)を見た。見てない方はネタバレありきなので、以下の文章は鑑賞後に読むことをオススメします。


DCUの開幕戦としての“THE FLASH”

エズラミラーはファンタビにで始める随分前のウォールフラワー(2013)から好きだったのについちょっと前から薬物やらグルーミングやらで騒ぎを引き起こすお騒がせ反コンプラ的俳優になってしまった。(ハリウッドでどういう見方をされているのかはしらないが、、)顔付きが好きだったのに、自分の立場(フェミニストを公言しているもの)的には応援しづらい、、結局黒だったんだっけ、白だったんだっけ。とにかく、監督や主演俳優の不祥事で大幅に公開が遅れた本作を私は、自宅のNetflixで今更鑑賞。色々思うところがあったので、鑑賞後記を自分のために書いておく。

エズラミラーは不祥事を起こしても、未来バリーと過去バリーの演じ分けはお見事。過去バリーの頭の悪そうな無鉄砲で社会のことを何もしらないカレッジのあまちゃん具合が、未来バリーの母を失った痛み、ジャスティスリーグを経て、ヒーロー哲学を会得しつつある成長っぷりとは良いコントラストだった。

ザック・スナイダーが築いてきたDCEUは、マン・オブ・スティールから始まり、アクアマン/失われた王国を最後に終了。諸々の設定や世界観がリセットされて、MCUのGotG(ギャラクシーオブジガーディアンズ)を大成功させたジェームズガン率いる、DCの新しいユニバース(DCU)が展開される。DCU初回作としてのフラッシュは、フラッシュの単独映画という側面と、今後のユニバース展開を見据えた布石を散りばめたお祭り作品的な側面を合わせもっていたように感じた。

私はそこまで筋金入りのアメコミ映画オタクではないけれど、それなりにディズニープラスのヘビーユーザーではあるので、8割のMCU映画は見終わっているし、ジャスティスリーグはしっかり凄く長い尺のスナイダーズカットも視聴済み。ジェームズガンの趣味なのかわからないけども、GotGのホリデースペシャルに本人役で登場したケビンベーコンが作中会話の中で名前だけ登場したり、マイケルキートンのバットマンが30年ぶりに復活したり、過去のスーパーマンらの出演、まさかの修復されきっていなかったユニバースの示唆、スーパーガールの登場、などなど、イースターエッグも含めて触れるべき点は純粋なアメコミファンとしては沢山あったのだが、一旦横に置いておく。(全然関係ないけど、バリーアレンと聞くと絶対にCatch me if you canの例のシーンが思い浮かんでクスっとする)

お祭り展開的にこれまでのDCEUへのリスペクトや、DCU開幕に向けての示唆的な展開はてんこ盛りで「これぞアメコミ」的な内容をファン向けに詰め込んでいた部分はあった。冒頭のベビーシャワーのアクションシーンもかなり満足度は高く、その後もBTTF(Back to the future)をしている際の描写もありがちなマシンやメカではなく、フラッシュというキャラクターが「光よりもはやく走れる」という特性を強く生かしたデザインが、私は個人的に好みだった。(チープと感じる人もいるかもしれないが)

世間的なアメコミ文化の一部として、そしてDC関連コンテンツが再構築されるという商業資産の一部としてのTHE FLASHに関しては、既にたくさんレビューがあると思うので、これ以上特に話すことはない。バリー・アレンというヒーロー個人としての物語としては、語る余地があるのではないだろか。

バリーアレンと母性

バリーアレンはそもそも、女性慣れしていない。彼女なんてほぼいたことはないし、今回はアイリス・ウェストにDCU上で初対面するわけだが(DCEU上でも)アイリスに対して、終始おどおどしていて、終盤に「私をデートに誘え」と言われるまで食事にすら誘えない。アイリス・ウェストはドラマ版フラッシュではスーパーパワーを手にいれることもあるし、フラッシュに関しての記事で新聞社に入るなど、フラッシュの恋人でもあり、友人でもある重要なキャラクター。(アメスパでいうところのグウエン?)

ただ、まあ単純な尺の問題もあるだろうが、アイリスに関する心理描写はほぼ描かれない。アイリスは「デートに誘いたい相手」で「大学の時に気になっていた子」でしかなくて、バリーにとって、「キャリアを築く大人の女性」ではない。アイリスは友人としてバリーの父親の裁判について、心理的なサポートをしようとするが、深い会話に入り込む前に考えなしにバリーはタイムスリップをしてしまうので、親密な心理的距離感は感じられない。ただ、「あの頃の憧れのあの子」が、「僕をなんかデートに誘ってくれた、まじか」「わあどうしよう」というシーンで物語は幕を閉じる。

ワンダーウーマンに対しても、「大人のちょっとセクシーなお姉さん」ぐらいに思っている節がところどころ垣間見える。スナイダーじゃないVERのジャスティスリーグでも、リーグメンバーがちょくちょくダイアナのことを女性として意識しているようなシーンが描かれていたが、あれって必要だっただろうか。今回も、映画冒頭の生物兵器をばら撒こうとする悪党を橋の上で捕まえる際、最後にダイアナの手助けありきで事件は収束。ダイアナが「なんかいいところに現れて綺麗なお姉さんとして和ませてくれたわ」みたいな感じが否めない登場の仕方だった。バットマンもそれに便乗。

バリーの母親も、愛情深く、良い母なのだが、見知らぬ未来バリーにハグをするなど、感動といえば感動だけれども、どこかケアラー的なニュアンスを感じる。

女慣れしていないし、綺麗なお姉さん相手にどもるし、ママが大好きなバリーが、今回、母親を生かすことを諦めて、今を生きることを決意する。トマト缶を棚に戻して、母と過ごせたはずの日々を尊んで、それでもさよならを告げる。現代に戻って、今からでも救えるはずの父を救うことを選ぶ。(バリーの父はバリーの母を殺したというめちゃくちゃな冤罪でずっと監獄の中。今回の作中で父親の最後の裁判だった)

THE FLASHは、私にはバリーが『母性への依存』から少しずつ離れて歩み出す物語に見えた。

ヒーローからメンターへ

未来バリーは、ゾッド将軍襲来時に、自分は何もできなかったと語ったり、フェンシングの技術や、様々な戦闘方法について、過去バリーに教えていく。過去バリーが子供なばっかりに、感情的に詰めいられても、「僕は母親が殺されることを知っていて、助けるためにタイムスリップした」とは過去バリーには一言も告げない。過去バリーは、未来バリーにとっては、過去の自分であると同時に、ヒーローの自分にとって守るべき対象でもある。だから、ヒーロー的プロフェッショナリズムからなのか、自分がどれだけ理不尽に責められても、言い訳はしない。むしろ「僕は他人とコミュニケーションを取るのがうまくないんだ」といって、自分が悪いから君を不快にさせてしまったね、というなんとも大人なコミュニケーションを取る。過去バリーはその後、偶然、本来的な母の死を知ってしまい、ある意味で闇落ちするわけなので、言わないという未来バリーの選択はその意味でも正しかったわけである。

ジャスティスリーグの時のバットマンの周辺機器を見て歓喜していた子供から、バットマンを再び戦闘に出るように説得。パワーが自分になくても、自ら落雷の再現に命がけで取り組むなど、「パワーありきのヒーロー」「パワーにふりまわされるヒーロー」から「精神的なヒーロー」としての成長が垣間見える。(MCUでも散々言われているテーマだが、ヒーローは強くてパワーがあるからヒーローなのではなく、精神自体がヒロイックであるというストーリー)

その成長は、ボーイミーツガール的に「戦闘やタイムスリップを通じて母親への愛情を軸に人間的にバリーが一回り大きくなったのだ」という解釈で終わらせることもできるが、「人を守る動機」が真の意味で、母や過去の痛みから、目の前にいる人、に変わったからだと思わざるを得ない。

たしかに、前編を通じて、母親との回想が描かれ、マルチバースを守りたい理由だって「ママが生きているこの別の世界を守りたい」と未来バリーは口にしている。では、わざわざスーパーガールの死を巻き戻そうとしたのも、過去バリーの無限のタイムリープを止めたのも、同じように母親のためなのか?

バリーはずっと、母ごろしの父を救えない日常と、いまはなき母との過去に板挟みになって生きてきた。ただ本編の最後で「解けない問題もある、救えないものもある」と口にするように、どれだけ理不尽で苦しいことがあったとしても、直せるものとそうでないものがあり、その運命は自分では操れないことを悟る。

ヒーローものの映画だと、よく脳筋的に「信じればかなう」「夢をみればどうにかなる」「市民みんなでエールを送ればヒーローがもう一度力を取り戻す」的な展開が描かれるが、フラッシュでは対極的に、諦めが描かれる。
実際、起こしてしまった時空の歪みを戻すことに躍起になっているのみで、前編通して新しい敵の襲撃があったわけではないし、本作品は戦闘ものというよりかは、ヒーローというメタファーを通じた、バリーアレンの青春群像劇(一人)の方が近い気がする。

バリーは、失われたはずの母性を求めて、懐古して、囚われて、退廃的に人を救って、生きてきた。救出だって「バットマンの後片付けだ」というぐらいで(ジョークかもしれないが)高尚なヒーロー魂的なものが、感じられるキャラクターではなかった。それが、スーパーガールを「助けを必要としていたから」という理由だけで救出し、ひいては過去の自分に最愛の母を諦めろと諭す。未来バリーはヒーローから、過去バリーとの関わりを通じてメンターになり、『今助けられる人を助ける』(父の裁判の新証拠のように)というマインドセットを持って、現代に帰る。

今まではバットマンやワンダーウーマンありきだったヒーローとしての成長を、自己に対峙し(物理的にも別の過去の自分に向き合い)自己完結的にやり遂げた。それこそが、母性や他者ありきの依存的成長から、自律的な自己内省型の成長へと今回舵を切れた理由なように思える。

青春群像劇を超えて

バットマンも作中で話しているように「痛みが、彼らをヒーローにした」側面は否めない。辛い経験があったからこそ、バリーが24になる算数の答えを書き続けられなかったからこそ、わかることがあり、その辛さこそが、少し先に大人になって、理不尽や宇宙からの外敵に、自己犠牲を伴ってでも取り組む動機になっている。

この先のDCUで、アイリスとバリーの男女、ではなく人間同士としての対話や、自己内省を覚えたバリーの更なる成長がどのように描かれるのか。そして、「痛みを伴わないものはヒーローになれないのか」という命題に答えがでるのか、でないのか。楽しみである。

fin.

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