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人生をゲームにする方法(14):プレーする物語を変える

何度もいうが、この世界という物理的事象そのものはゲームではない。だが、ゲームのように解釈することはいつだって可能だ。

私は宗教というものを「人生をゲーム化するパッケージ」とみなしているフシがある。宗教と一言で言ってもいろいろあるので、そんなに単純化して語ると怒られてしまうかもしれないが、ここで強調したいのは、宗教は「世界という文脈を読み替える」技法に長けているということである。

私たちの人生は、そもそもすでにさまざまな文脈や意味付けにあふれている。何が幸せで何をめざすべきなのか、その行動にはどういう意味があるのかーーそういう社会にすでに存在する文脈に苦しめられたとき、あるいは意味のあるものと感じられないとき、宗教はその代替となる文脈を、意味を与えてくれる。

身近な例でいえば、挨拶。私たちの社会は、挨拶というものを尊んでおり、もはや「なぜそれをするのか」という説明が満足にされることすらあまりないかもしれない。

機能的に考えると、挨拶は相手に対して敵意がないこと、関心を払っていること、知り合いであるとリマインドする効果があると考えられるので、ある意味で「やり得」なものだと言える。実際、多くの人が知り合いに対して挨拶はする……はずである。

でも知らない人に対して挨拶をすることは、それよりはるかにハードルが高い。同じエレベーターに乗り合わせたとき、あるいは道端ですれ違ったとき、知り合いでなければスルーしてしまうという人も結構いるのではないだろうか。大都市に住んでいると、あまりにもすれ違う人が多すぎるし、いちいち挨拶していられないのは確かなので、これも機能的に見ればわかる話である。

でも「挨拶をする」ということに、別の意味が与えられたら?たとえば挨拶を重んじる宗教があったとして、自分がその信徒だったとしよう。そこで挨拶に込められた意味というのは、機能的な効果や単なる世間体、社会的監修を超越する。もし「挨拶をすればするほど天国が近づく」という教義があったら、その強制効果は凄まじいものになる。宗教という意味のパッケージが、実際に人の行動を変え、行動が変わるゆえにその人の人生は変わるのだ。

宗教という例が突飛に思えるのなら、アプリケーションでもいい。たとえば「歩く」という行為が健康に良さそうなのは自明のように思えるが、現代人の多くはその効能を認識しながら、なんだかんだ無視して部屋に引きこもってしまいがちである。

でも熱心な『ポケモンGo』プレイヤーにとって、歩くという行為は明らかに健康に良いということ以上の意味を持つ。歩かなければ狙っているポケモンは捕まえられないからだ。

『ポケモンGo』公式Twitterより

また、『ポケモンGo』を介して生まれるコミュニケーションも、ゲームという文脈がなければ間違いなく生まれていないだろう僕も何回かポケGo集会的なものに参加したことがあるが、冷静に考えてみると、スマホを片手に集団でうろうろ歩き回るという行為は狂気そのものだが、少なくともゲームをやっている我々としてはなんの違和感もない。『ポケモンGo』がそう行動するための文脈を与えているからである。

人生をゲーム化するうえで、どういう文脈を与えるのか、すなわちどういう物語をプレイするのかは、よくよく考えていく必要がある。それはあくまで一般常識の中におさまる程度の物語かもしれないし、あるいは一般常識を超えて塗り替えるほどの物語かもしれない。

いずれの場合も、物語を変えれば行動が変わる。だからこそ、自分がいまどういう物語をプレーしているのかを真剣に見定める必要があるし、自分が望むのであればいつだって別の物語を始めることができるーーあたかも別のゲームをプレイでするようにーーという自覚を持つことが望まれる。

1つの物語しか生きていない人は、ある意味でNPC(ノンプレイヤーキャラクター)のようなものである。それはたしかに、あるゲームの世界の住人とといえるかもしれない。だがそれは「プレイヤー」ではない。

僕はあまりパターナリズムが好きではないが、それでもこの複雑で多層的な人生を理解し楽しむために、僕たちはプレイヤー的であるべきだと思う。そしてそれがプレイヤーとして「ゲーム的に生きる」ということなのだ。






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