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人生をゲーム化する100の方法(7):アウトプットする


「汝、とにかくアウトプットせよ」

ゲームというのは、やるべきことが明確である。少なくともそのことを意識してつくる。どういう世界なのか、そこで何が求められているのか、どこに向かうべきなのかが、目で見てわかる。だからこそ行動が喚起されるし、その行動が可視化されるというフィードバックを受けて、さらに次の行動が促される。

これは自己反省として思うのだけど、最近はあまりにもインプットの機会が多すぎる。新聞やニュース、ウェブメディア、ソーシャルメディア、なんでもかんでもこちらの脳みそに情報をぶち込もうと躍起になっている。

私もそれに甘んじて、インプットの旅に出かけてしまうことがとても多い。それはアウトプットよりインプットのほうが楽に感じられるからかもしれないし、「良質なインプットがなければ良質なアウトプットはない」と脳裏にあるからかもしれない。

サービス提供側としても、ユーザーにいちいちアウトプットさせるよりは、インプットを促すほうにしたほうが、いろいろな意味で効率がよい。また、たしかにソーシャルメディアはアウトプットのツールではあるが、それと同じぐらい(あるいはそれ以上に)インプットのツールなのだ。自分が何かを書き込もうと思ってソーシャルメディアを開いたとき、すでにあなたは別の人のアウトプットを脳内にインストールしてしまう。そしていつの間にか絶え間ないインプットの波に飲み込まれて、本来書こうと思っている意志を置き去りにしてしまう。

「インプットはアウトプットより楽」って本当か?

インプットはアウトプットより負荷が少ないというのは、一見するとその通りだが、それも結構疑わしい。トキシック(有害)な書き込みやニュースを見れば、否応なく感情を揺さぶられて、そのことについて深く考えこんでしまう。そういう経験は誰にでもあるだろう。そのとき、私たちはかなりの精神的な負荷を受けている。インプットは認知的にはアウトプットよりも楽そうに見えるが、じつのところそうとは限らないのである。

一方でアウトプットするというのは、多くの人にとって(当然私にとっても)、認知的なコストが高そうに映るし、それは事実そうなのだろう。だけど、自分の考えを吐き出すことで、むしろ精神的なコストやダメージというのは下がっているような感覚すら覚える。自分の考えが可視化され、脳内から切り離されることによって、操作可能なものになる。それがタスクであれば、それをクリアするというゲームになるし、アイデアであればそれを素材にして、あらたな物語やビジネスを紡ぐことができる。

可視化されていないものは、ゲームにならない。アクセス可能ではないからだ。ここでいうアクセス可能性というのは、他者からのアクセス可能性だけに限らない。頭の中で考えていると、ついついそのアイデアにいつでもアクセスできるように思えてしまうけど、結局脳みそから一度物理的に切り離さないかぎり、そのアイデアが大きく成長することは難しい。「可視化させる」という出産経験を経て、アイデアは大きく成長したり、あるいはしぼんだりできるようになる。

とにかくアウトプットし、まな板のうえに具材を用意せよ。そうすれば、そこにおもしろさが見出されて、ゲームの材料になる。ものによっては、そのアウトプットがそのままゲームとして自分のなかで扱えるようになるかもしれない。

英語におけるgameという表現は、一般的に知られている「遊戯」という意味の他に、「獲物」という意味もある。アウトプットすることで、はじめてその概念は「獲物」になり、その獲物をどうやってハントして調理するかという「遊戯」が生まれるのだ。

アクションしないゲームはゲームではない。アウトプットというアクションをすることにまずゲーム性がやどり、そこから生まれたアイデアに対してどう働きかけるかに次のゲーム性が生まれる。

インプットは、あくまでそのゲームをシェイプする存在だ。あるにこしたことはないけど、現代ではインプットが過剰なので、もはや意識的に接種をしなくてもいいのではないかとすら思う。それよりもアウトプットのほうが遥かにバランス的には大事で、それが人生をより遊戯的なものにしてくれる。

ゲームは複数人でやるものである(ことが多い)

なにより、多くのゲームはコミュニケーションでありコラボレーションだ。アウトプットすることで、他の人と繋がれるようになるというのが大きい。1人で溜め込んでいると、その概念を楽しむことができるのは自分だけだが、吐き出すことで他の人とシェアし、より戯れることが可能になる。

また、他人とアイデアをシェアするということは、うまくそれを他人に伝わるように説明しなければならない。そうすることで、カオティックなアイデアが整理されて、伝わりやすい内容になる。ここもアイデアのゲーム性をあげてくれる。ゲーム作りに多少なりとも関わった経験からいうと、最初に吐き出されるアイデアというのはかなり不格好で、情報量が多すぎる。そこをいかに削ぎ落としていくかで、ゲームの秀逸性というのが決まってくる。

このとき、「他人に伝える」というのがいい役割を果たしてくれる。誰かに直接話しかけないにしても、誰か伝える人を思い浮かべながらアウトプットすることで、そのアイデアはよりアクセス可能なものになるだろう。そしてアクセス可能性が高ければ高いほど、そこに対する没入感が生まれるし、遊戯性も生まれうる。つまりゲームになるのである。




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