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瞑想って何?/02.イーシュワラの理解①

前回の記事で出てきた瞑想の定義に「サグナ ブラフマン」という言葉が入っていました。これを別の言葉で言うと「イーシュワラ」。
なのでイーシュワラを思うことが瞑想の定義。

イーシュワラとは何か知らない=瞑想をしたことがない
と考えるのはまだ早い。
イーシュワラというサンスクリット語は知らなくても、
それが何を指すか、実はみんな知っているものです。

日本語に直訳すると「統括する者」となりますし、意訳で「神」って訳したりしますが、そういった「既に知っている日本語」を当てはめてしまうと
「その言葉に対して既に持っているイメージ」を乗せてしまう(誤解の元)ので、私は日本語に変換しない方がいいと思います。
だから、「イーシュワラ」とは何か、まっさらな画用紙を持ってきてそこに理解を描いてみましょう。

一輪の花を思ってみましょう。
それは何で出来ていますか?

花びら、ガク、おしべ、めしべ・・・
もっと微細に見れば、細胞。
もっと微細に見れば、原子。
もっと微細に見れば、素粒子?
それは、花を作る為の「材料」

その材料だけをかき集めてギュッとすれば
花になりますか? なりませんね。
そこには「花ではないもの(材料)」を「花」らしくする
「知識」があります。「作者」とも言えますね。
この作者は人間ですか?
人間がこの「花でないもの」を接着剤でくっつけて「花」にしますか?

話を戻します。
目の前にある、ありとあらゆるものには必ず「源」があるはずです。
「無」から突然何かが現れることはありません。
源を辿っていったとき、一番最初の源は何でしょうか?
究極の「親」とは「自らの親を持たない親」でなければなりません。
そうでないと無限後退になります。
(それは何からできているの? その「何か」は何からできているの?の繰り返し)

その「究極(一番最初)の源」がどんなものかは後で考えるとして
まずは、「ありとあらゆる目の前にあるものはその究極の源から現れた物である」といったんスッキリさせます。難しいことは後回しでOKです。

古典物理学では「空間と時間」が絶対的なものと考えられていました。
ありとあらゆるものはこの空間と時間の上にあり、全てのものはその上に存在する。
花は空間の一部に存在します。(空間に頼って存在する)
花は咲き、枯れ、土に返ります(時間を超えることはできない、必ず変化する。「変化」とは時間の上に存在するってこと)
空間や時間は、花から自立して存在し、かつ花の中にも満ちている。

空間とは壁で仕切ることはできません。
部屋空間にも空間は行き渡っているし、壁にも空間は行き渡っている。
空間の中に「壁」を置いただけ。空間は壁によって仕切られてなんていない。

その世界にある全てのものは「絶対的なもの」と「何かに頼って存在するもの」で成り立っている。「何かに頼って存在するもの」は「絶対的なもの」から離れていない。
何かに頼って存在するものを「ミッテャー」を呼びます。ミッテャーは「絶対的な存在(ある)」ではないし、「無(存在しないもの)」でもない。なのでこの世界にあるものを①有②ミッテャー③無の3つに分けます。ですが、③無はその名の通り「無い」です。矛盾するもの、ありえないもの、のことです。ウサギの角みたいなもの。言葉上では言えるけど存在しないものです。

古典物理学においては空間と時間が絶対的な存在と考えられていました。
近代物理学ではどうでしょう?
空間も膨張している(ビッグバン説)
これは空間が無かった時があったということを示唆しています。
つまり空間は絶対的な存在ではなかったと。

ヴェーダの聖典では空間や時間すらも現した源があるとみなします。
空間や時間を現した「作者」と「材料」。それをイーシュワラと呼びます。
(次回へ続く)

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