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瞑想って何?/03.イーシュワラの理解②

(前回のおさらい)
ヴェーダの聖典では空間や時間すらも現した源があるとみなします。
空間や時間を現した「作者」と「材料」。それをイーシュワラと呼びます。

作者と材料は同一。
作者と材料を隔てる空間はない。
「作者はどこか違う空間に居て、この空間を作った」はありえない。
もしそうなら、作者が居る空間を作ったのは誰?ってなる。

頭がウニウニすると思うのでたとえ話で説明します。
あなたの着ているシャツ。
シャツは生地でできていますね。
生地なしにシャツはできません。
生地をもたないシャツがもしあるなら、それはシャツですか?
いつかどこかのファッションショーで見かけるかもしれない、最先端をいく、究極の裸を演出する極限まで生地のないシャツですか?(笑)

シャツは生地から離れることはできません。
作品は材料から離れて存在することはできません。
いかなるものも材料の源から独立して存在することはできません。

そして、シャツには必ず作者がいます。でなければどうすればただの生地がシャツになれますか? シャツは知的に組み立てられた作品です。
知識と、それを発揮する力を持つ知的な存在が関わっているはずです。
シャツという人工物であれば、シャツから物理的に離れた人間という作者がいます。

ではこの世界にある、ありとあらゆる自然にできたものはどうでしょうか。
山とか、虫とか、花とか。
それらは自然や物理的な法則に沿って維持されています。
それらの作者はどこにいますか?
その知的な源は一体どこに居て、それらを作ったのでしょう?
答えは、それらの自然にできた作品の中にあり、そしてこの世界に満ちているということなのです。

怪しい話ではないですよ。
だってこの世界じゃない他の世界に作者がいるというなら、その「他の世界」は誰が作った?っていう、また無限後退が始まります。
だから「ここにいる」しか答えがないのです。
あ、今は普遍的な話(何にでも適用できる)をしていますのでご注意を。

作者(知的な源)は、その作品の中に宿っている。
シャツのたとえ話に戻すと、
シャツも、浅い意味で作者(人間)も、世界の一部なので、
作者(イーシュワラ)と作品は離れていない、そういうことです。

生地の無いシャツを想像してみてください。
できません。
知識が宿っていないシャツを想像してみてください。
それはきっとシャツという体をなしていません。

この世界にある、ありとあらゆるものは
イーシュワラという材料からできていて、
イーシュワラの知性が行き渡っているのです。

風が吹く。それはイーシュワラの力。
花が咲く。それはイーシュワラの美しい作品。
風と花は違う。
何が違う? 「質」が違う。
花は見えるが、風は見えない。
風は動き回るが、花は動かない。
この世界にある、ありとあらゆる現象は
イーシュワラのもつたくさんの「質」の違いによって生み出されたもの。
私と隣の人は大きさが違う。性格が違う。
それでいい。そういう風にできているから。
全てが同じなるなんてあり得ない。っていうかそんな世界楽しくない。
違いがあるから、楽しい。
世界は楽しむもの。

太陽、月、大地、ありとあらゆるエレメントの中にイーシュワラを呼び起こすことができます。全ての自然現象はイーシュワラの現れ。
そう見えるのが、より「知的」と言えるのです。

五感で感じられるものしか存在しない、というのは視野の狭い見方。

五感が届かないエリアがある、イーシュワラという源が見える、
そんな見方は謙虚かつ知的な見方。

イーシュワラを思う為にどうすればよいか。
イーシュワラは全世界に行き渡っていて、大きすぎてとても想えない。
(次回へ続く)

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