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染まりきれない



わたしは人より少し雑な生き方をしてきた自覚がある。
夏休みの課題は夏休みが終わってから始めたし、テストで0点を取っても誰からも叱られずに(教師はため息をついていたかもしれないけれど。)、焦ることもなくギリギリの点数で進級した。
友情についても同じで、親友と呼べる相手に出会えたのは、気づけたのは大学に入ってから。右にも左にも、上にも下にも偏らずぬるま湯の様な関係に浸る。月日が経ち、知らぬ間に冷えた友情はLINEやInstagramのストーリーを見ればすぐ分かる。思い出したように数年に一度誕生日に誰かから連絡が来る。
高校も大学も就職も、周りが努力している時にはすでに終わっていて残りの学生生活を一人謳歌していた。
セックスもそうだ。周りが出来たばかりの恋人と、あるいは好きな人に巡り会う過程を大切にしている最中に10万円で処女を売った。

唯一、人より抜きん出ているものがあるとすれば「愛」への異常な執着、興味だ。『くまちゃん』『その桃は桃の味しかしない』『星へ落ちる』『きらきらひかる』『あの人は蜘蛛を潰せない』…手元にある小説はほとんどが恋愛小説。
恋愛脳なので偏りはあるが全てのひと、ものに対する愛に関心があると自分では思っている。冷めたお湯、過去の同級生たちとのLINEを消せないのも、いまの自分に必要のないもので部屋が溢れかえっているのも、怠慢ではなく愛であり執着だと思っている。



先日、前からウォッチリストにいれていた『マザー!(英題)Mother!(2018)』を鑑賞した。監督はダーレン・アロノフスキー、『ブラック・スワン』なら観たこと聞いたことがある人も多いかもしれない。その人の作品。この時点でちょっと察する。
ざっくりしたストーリーはスランプに陥っている詩人の夫、ひたすら家を修復し続けている若い妻の二人の物語。穏やかに流れる夫婦の時間は開始15分ほどで劇的に変化する。
あらすじを書くのは得意ではないし、かといって自分で一から考察が出来るほど言葉の引き出しが豊かではないので、その辺は今お持ちのスマートフォンなりタブレットで検索してみてほしい。ここから先はここに辿り着いてくれたほとんどの方を置き去りにして映画の内容と考察を元に自分の気持ちを書いていく。

映画感想noteだと思ってきてくれた人、ごめんね!


とにかくわたしはこの作品を観て、フィルマークスに書かれていた誰かの感想や考察を読んで、本日もう一度観直して。それからものすごく虚しくて複雑な気持ちになった。

この作品の基盤は宗教や聖書であるらしく、予備知識がないと一度観ただけで理解するのはとても難しい。メインキャラクターである夫婦は、世界の創造主(夫)と、主から創られた大地(妻)らしいのだ。そこにひとり、またひとりと訪れる人々は大地に土足で踏み入り、全てを破壊する(=アダムとイヴから始まり、発展や戦争によって地球を壊す我々人類)。妻の産んだ子どもは数日も経たずに殺され、神(イエス)として崇め奉られる。
夫は総てを平等に赦す、必死に作りあげた自分の家に入ってきた人間からは「お前は誰だ」と問いかけられる。
大地である母は「そこに在る」だけなのだ。

一回目は宗教など何も分からずに鑑賞したので妻を自分に置き換えた。二回目はフラットな視点で鑑賞しようと思ったが、わたしはどう足掻いても人間なのでやはり人間として妻へ感情移入してしまった。感情移入したうえで、わたしは大地にはなれないと感じてしまった。最期に夫を赦し、すべてを赦し、自分の心を渡すことができるのか考えてしまった。

自分を守ることで精一杯だ。
目の前の相手を守ることで精一杯だ。
目の前の相手が歓迎する誰彼を受け入れることができるだろうか。でもそれを愛と呼ぶならわたしもきっと妻と同じように作り、守った我が家に火をつけるのかもしれない。でも悲しいことに、映画のなかの妻は自分で選択をしたようでそうではない。大地は自分の意思で滅びることは不可能であり、火をつける行為もまた我々人類の手段なのだ。
宗教などという偉大なものと自身を重ね合わせることなんてないと思っていたし、重ねたところでわたしの存在なんてちっぽけなものだけれど、自分の人生を歩む途中で、未来の自分を創る主に出会ったら…わたしは妻と同じようになってしまうのだろうか。しまう、なんて言葉は失礼な気さえする。染まりきれるだろうか。でも最期にわたしの身体からあんなに綺麗な宝物が出てきたらどんなに素敵だろう。




おしまい!



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