見出し画像

ただ、ゴールが欲しいだけ


「余命宣告を受けた人が残りの人生を精一杯生きる物語」を読むと、ほんの少しだけ羨ましく思ってしまう自分がいる。実際そんなことになったらめちゃくちゃに生きたいと思うだろうし、こんなこと思うのは病気の人に大変失礼だとは理解している。けれど、正直いうと私だって自分の余命を教えてほしい、と思ってしまう。


終わりの見えないことを続けるのが、辛い。
既存の言葉で表すならば恐らくデッドライン症候群に近い。締切間近にならないと本気で取り組めないし、やる気が出ない。私にとってそれは課題だけではなく、人生も一緒。もし、あなたの人生はあと十年ですよと言われたら、その残りを思い切り使い切ってやろうと思える気がするのに。


しかしこの人生100年時代において、まだ20年かそこらくらいしか生きてない私にとっては、そのゴールは果てしなく遠い。遥か彼方すぎて見えないそれは、私にとってもはや無いのと同義だ。
 人生はゴールが見えない。というより、ゴールは分かってはいるけれどほぼ見えない。死というゴールは確実に存在しているけれど、それはよっぽどのことがない限り目の前をチラつくことはないのだから。死が訪れることは人類全てに知れ渡っているはずなのに、日常の中でその存在は上手く隠れ続けていて、いざその時になると突然姿を現し強烈な爪痕を残していく。私は、その消えることの無いインパクトの強さに憧れてしまっているのかもしれない。


だからだろうか。



目を背けたいことが起こると、すぐ「しにたい」と思ってしまうのは。



やらかした。大なり小なり、何かミスをした。寝坊して遅刻して人を待たせた。誰かに怒られた。皆ができることが私だけできなかった。もっとこうすればよかった。相手に嫌な思いをさせた。忘れ物をした。課題が間に合わなかった。失言をした。とにかく何かをやらかした。こんなとき、私はすぐに「しにたい」と思ってしまう。


これが如何に傲慢で自分勝手な考えであるかは分かっている。命を軽んじた思考回路だ。自分の命を一体なんだと思っているのか、と言われても返す言葉がない。


だけどそれでも、「しにたい」と思ってしまう。


といっても本当に命を絶ちたいわけではない。自分の起こしたひどい出来事が信じられなくて、受け入れたくなくて、無かったことにしたくて、穴があったら入りたくて、とにかくその場から消えてなくなりたくて。なにか失敗をすると、そういった感情で頭と胸がいっぱいになって吐きそうになる。それをぎゅっと短くまとめると、「しにたい」になる、というだけ。

このどうしようもない負の感情を、「しにたい」以外で表すことができない。これに代わる言葉があるのならば教えて欲しい。けれども、「しにたい」が一番しっくりきてしまう。


要は、今すぐ自分を「終わりにしたい」ということなんだと思う。
こんな気持ちがずっと続くなら。見えない未来に怯え続けるくらいなら。それなら私は今、自分の手で終わりを迎えたい。ゴールテープを切ってようやく振り返って一息ついたら、そしたらきっと、ああ思い返せばいい人生だったなって思えるから。


誰か、「しにたい」に代わる言葉があれば教えてください。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?