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日記 〜チャリも自分も、その都度直してく



自転車のライトが壊れた。思えば高校生のときから使っているのでかなり長い付き合いになることに今初めて気づく。そのわりにはあまり大きな故障もなく動いてくれている。そう考えるとかなり丈夫だな、君は。


とはいえ無点灯走行は駄目なので早急になおさなければならない。今度の休みにでも行くか、と思っていたけど、帰り道の近くに2つ自転車屋さんがあるから仕事帰りに行けばいいよ、と教えてもらった。そんな近くに2つも店舗があるなんて知らなかった。いかに自分が道や町のことを知らないかがよく分かる。



というわけでいつもの帰り道から少し逸れ、自転車屋さんがある方向へチャリを走らせた。点滅し始めた青信号に向かって下り坂を急いだが、間に合わずあえなく停止。どうしようかなと反対側の信号を見上げると、すぐそこに自転車屋さんがあった。嘘こんな近くにあったの?何度も通ったことある道なのに全然知らなかった……。



自転車をお店の人に引き渡して待つこと体感10分くらい。タイヤと電気部分との接触が悪かったのでちょっと削ってくれたそうだ。前輪をぐるんと回すと、きちんとライトがついた。そのままお店の外に自転車を出してくれたので、お支払いはと聞いたら、これくらいなら大丈夫ですよと言ってもらえた。なんて優しいんだ。ありがとうございますとお礼を告げて自転車に乗った。また何かあったら来てくださいねと言われたので、またお世話になろうと思った。


早速乗車して帰ったわけだけど、いつもより車通りの多い道を帰ったせいで、せっかく直してもらったライトの恩恵をあまり感じられなかった。え、これ点いてる?なんかすれ違う自転車のライトが眩しい気がするんだけど。こんな弱かったけ私のライト?と、ほんの少し不安を抱く。これで帰るまでに消えたりしたらまた行かなきゃか、さすがに昨日の今日で行くのは気まずいなあ……と、まだ行くと決まってもいないのに、あした自転車屋さんに行った場合のシュミレーションを脳内で行いながら帰り道を進んだ。


帰宅途中、恐らく遊んだ帰りであろう小学生くらいの男の子ふたりが、別れを告げ合っていた。バイバイしてちょっと2人が離れてから、片方の子が思い出したように、ねえ!明日の部活体育館だよね!?と叫んで聞くと、相手の子がおう!!と叫び返していた。体育館なんて単語、いつぶりに聞いたかな。なんだか懐かしい気持ちになった。

家への到着間際、カーブミラーに写った自分の自転車が、感じていたよりもしっかりビカビカに光っているのが確認できた。めちゃくちゃ直ってるわ。チャリ屋のお兄さん一瞬疑ってごめん。いやあ昔はもっと強く光ってたような気がしたのよ。もしかしたらライト自体が衰えてたのかもね。よくよく考えてみればベル何度もぶっ壊れた結果今は付いてないし、カゴの端っこひしゃげたままだし、タイヤ何回か交換してるし、全体的に少しずつ劣化はしてるんだろうな。最後に何か気になるところありますか?って聞かれたとき、一応タイヤとか見てもらえばよかったな。ちゃんと定期的に点検してもらわなきゃな、と心意気だけは立派に育てたままチャリを停めた。





私はひとりの時間が好きなくせして常に人肌恋しいので、定期的に友人に会わないと駄目になってしまう。特に今月は本当に駄目だった。何故だか知らないけどおかしくなるくらい寂しくて、ひとりが嫌で、愛されていないことばかり考えていて、訳も分からず不安だった。もう私は一生誰からも本当の意味では愛されないんだと、夜な夜な絶望していた。

そんな中でも久々に連休を取って旧来の友たちと旅行したのを思い出すことで、なんとか気持ちのざわめきを落ち着けた。


誰かが歌い出したら絶対に1人か2人はそこに乗っかってくれるひとたちと旅行できる仲であることが本当に嬉しかった。一瞬たりとも心がピリつかなくて、皆といると自分のことを否定せずにいられるから、有難かった。嘘みたいにずっと楽しくて、居心地よくて、こういう時間のために私は生きてるんだなと思った。価値観が全く同じ訳じゃないのに、好きなものが違うのに、根幹とか土台みたいなものが似通っていて、異なっていることが面白くて心地いい。そう思える自分のことを、彼女たちと出会えるような人生を送ってこれた自分のことを褒めてあげたくなった。








そろそろ会いたいですと声をかけてくれた友人と初めてのランチをした。その後ウィンドウショッピングをしたりでっかいケーキを食べたりしながら、とにかく色んな話をした。推しの話、仕事の話、生活の話、好みの服の話、お笑い話、人生の話、対人認知の話、自信の有無、愛嬌と人当たり、努力の話、老後、政治、親の介護、死生観。この全てを同じ温度感で躊躇いなく話せるひとが友人でいてくれること、繊細さと敏感さが同程度なこと、心の通り道が人生の半分以上一緒の人がいてくれること、が、笑っちゃうぐらい奇跡だなと思った。



こうして定期的に大好きな友人と栄養補給をすることで、私はなんとか私を回せている。そう考えたら、定期的に空気を入れないと動きづらくなる自転車と似てる気がした。なんか重たいな、そろそろかな、と思ったらエネルギーを注入しないと私はあっという間に動けなくなる。

でも私は自転車みたいにみんなを何処かに連れて行ってあげることはできない。なのに、空気の注入やら面倒な点検やらばっかりが頻繁に必要で。友達が好きであればあるほど、なぜ私と一緒にいてくれているのかが分からなくなる。みんなが友達に対して利害関係を考えるようなひとたちではないと分かっていても、どうしても自分と共にいることによって与えるべき利益を考えずにはいられない。


ひとたび陥るとこんな思考ばかりになってしまうから、やっぱり定期的にそんなことを思わないでいられる時間を意識的に作らなければいけない。「そろそろだな」が合う友達に恵まれていることに感謝して、ありがたくいのちを注入してもらう。そうやって日々なんとなく最低限でも動けていれば充分だ。電車ほど遠くに行けなくっても、車ほど自由に動けなくっても、きっとわたしはそれでいい。


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