二重まぶたの呪いをひとつほどいた日







昔、初めて二重整形のカウンセリングに行った日の日記を記録します。自分のために。このときと今とでは考えが結構変わっているから色々訂正したいことはあったので、多少の加筆修正はしましたが、まあなるべく原文ママで残そう。



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1月15日。呪いがひとつ、ほどけた日。
私は今日、二重を諦めた。



初めてカウンセリングに行った。ずっと行ってみたかった。先生が目に当ててくれるあの細長い針でなら、どんなにアイプチを重ねても二重を一秒たりとも保てたことのない私の瞼にも、くっきりと線を描いてくれるかもしれないと思った。綺麗な二重になった自分を、一瞬でも見れるかもしれないと思った。


行きの電車の中、理想の目についてたくさんたくさん考えてメモした。それを医者カウセ前のお姉さん(?)にもしっかり伝えることができた。妥協はしたくなかった。


正直、前日の時点で二重に対する意欲は折れていた。調べれば調べるほどリスクが発見されて、手術に対する恐怖が積み重なっていく。そして知識をつけるほどに、自分のようなタイプの目は二重にしづらいという現実がどんどん明確になっていく。自分の顔を分析するほどに、目を何とかすれば劇的に良くなるような造形でもないことも理解していく。


整形は魔法じゃない。


粒のように小さい目から「目つぶ」と呼ばれた幼い頃よりも幾分か大人になった私は、そのことを理解し始めていた。


だからかもしれない。
診察室に通され自分の話を聞いたあとに、「アイプチで二重にならない、あー……」と呟く先生の声を聞いて、ああやっぱ駄目なんだなとすぐに思えたのは。

何度も何度もYouTubeで見たあのダウジングのような細い銀色の棒は、存外あっさりと目元に当てられ、そしてあっさりと二重への希望を消し去っていった。

一秒とも待たずに皮膚に吸い込まれていく二重線。鏡の中には見慣れた憎きつぶらな目。


あーなんだ、別にあの棒も結局アイプチのプッシャーと一緒なのか、と思った。


そして当然のように言われる蒙古襞の強さと、流れるように勧められる目頭切開、そして一番高額な手術方法。
(ちなみに私はこの病院を友人から聞いたので訪れたわけなのだが、その子がモニター価格でやってもらったと言っていた値段の、約4倍くらいの値段を提示された)


あと何かありますか、と聞かれたので、勇気を出しておでこのシワの悩みを口に出す。すると、まあよくあることなのでみたいな感じでサラッと流され、私が事前に調べた知識と何ら変わりないような用語と原因を説明され、そのまま終わった。
それでは見積もり二通り出しますので、とまとめられ、待合室に戻った。



私の念願だった整形カウセは、数分であっさりあっけなく終わった。



先生に会うまでの方が充実した時間だった気がする。ずっとずっと考えていたことをようやく口に出せて、事前に調べていたことをきちんと聞けて、自分の口からたくさん悩みや事情を吐露できた。それだけでも行った価値がある。けどもう私はこの時点で、すっかり意欲を失くしてしまった。


本当は、こんな一回きりのカウセで諦めるのなんか整形の常識からすると言語道断で、もっと何軒も回って、他院の先生と比べてみなければいけない。いけないのだけれど、もうなんだか、どうでもよくなってきてしまった。話を進めれば進めるほど、やめようという気持ちが高まっていった。自分のことなのに、まるで他人事のように話を聞いていた。それでいて、自分の顔の、なんだろう、どうしようもなさ?に涙をこらえた。


こんなときでも他者と比較してしまう。
あの子はそもそも元々綺麗で、その上でさらに綺麗に、お求めやすく憧れを手に入れたのに。

整形って、ブスのためにあるんだと思っていたけど、違った。整形でもやっばり美人は得をするし、ブスにはそれなりの費用がかかるんだ。今までの人生で一番格差を感じたかもしれない。美人がもっと美人になるのは簡単だけど、ブスが美人になるのは大変に難しいことなんだと思い知った。整形はきっと、可愛い子たちのためにあるものなんだ。


私は自分に数十万もかけることができない。
私は私のために恐ろしい手術に耐えることができない。二重になって喜ぶ姿よりも、その多大なる支払いに苦しむ自分の姿の方が容易に想像できてしまった。二重になっても小さいままの目や、目以外の嫌な部分に意識がいき始めて苦しむ自分の姿がありありと目に浮かんでしまった。私はもうこれ以上、自分の見た目で苦しみたくない。ていうか、もう考えたくない。


写真を見るのがそんなに辛いなら、なるべく写らなければいい。鏡の中の自分は好きになれるのなら、その中だけで満足していよう。世の中には美しい人がたくさんいる。私一人くらいブスでも別にいいんだと思う。


そもそも自分の顔が『自分の顔』であることが受け入れられないのだから、それはきっと二重になったとしても同じことなんだと思う。『一重が嫌』ではなく、『自分の見た目』が嫌いなのだから。


可愛い子たちをひたすら視界に入れて過ごしていけばいい。自分のことなんて見なければいいだけの話なんだと、ようやく気づいた。私は役者でもモデルでもYouTuberでもない。自撮りなんてしなくていいし、見たら傷つくのなら顔を見なければいい。

自分の顔の醜さなんてすっかり忘れてしまえる瞬間が、幸いにもある。その時間をどんどん増やしていけばいい。そうやって生きていけばいいんだ。

もう表舞台に出る人や美しい人へ憧れるのはやめよう。凝り固まって呪いとなった見た目への執着から離れたい。もう、一向に良くならないものに対して努力し続けることにつかれた。

……いや、努力すらもできていなかったのかもしれない。だって現に私は、自分のために手間と時間とお金をかけることができなかったのだから。


提示されたウン十万が、ひどく虚しかった。こんなにも多額のお金がかかることに、呆れてしまった。もちろん、整形そのものが無駄だと言いたいわけじゃない。私自身が、私という存在に、それだけの額をかける価値を感じることが出来なかった、というだけの話。私なんかにそんな金かけてたまるもんか、と思ってしまった。だって、満足する未来が見えないんだもの。


私は、自分の顔と向き合うことを諦めた。
逃げた。無理やり終わらせた。


私は自分の顔が嫌い。
でも、人間ひとつくらいは自分の嫌いなところがあるものでしょ?私はそれが顔だっただけ。たったそれだけの話なんだよ。

幸い、ブスであることで誰かに迷惑をかけているわけではない。今のところは。そのはず。

ブスのまま生きていく方が楽だ、ってことに、ようやく気がついた。私には、可愛くなるために努力する覚悟がないのだと思い知った。


私は被写体になるのが向いてないし、表立った活動もできないし、自分か満足するような美しさには一生なれない。役者もモデルもインフルエンサーもダンサーもコスプレも、ぜんぶぜんぶ諦めよう。もう憧れるのには疲れた。好きなことだけ考えて生きていたい。自分の顔なんていう最大限に嫌なことを気にしながら生きていきたくない。


痛い思いも、怖い思いも、涙を堪えながら自分の話をするのも、ぶつけようのないモヤモヤも、憧れも、呪いも、ぜんぶぜんぶ、もう嫌だ。疲れた。自分のことを考えるのはもうたくさん。どうにもならないことを考え続けるのは無駄なんだ。やーめた。


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うーん。今読み返してもキツい。

冷静に考えてみればそもそもかなり情報収集が足りなかったし、やっぱり他院も絶対に回るべきだし、もっとはっきりやりたいことを固めてから行くべきだった、と思う。


けど、このときの気持ちを痛いくらいに覚えているから、そんな分かりきったことをアドバイスする気には到底なれない。

そして、このときの気持ちは覚えているくせに、このときほど二重への執着を消せているわけではなく、呪いが完全にほどけているわけでもない。


見た目で悩むことだってやめられていない。
二重への憧れも捨てきれていない。
本質は大して変わってないんだ、きっと。


けれど、「自分に金をかける価値を見出せない」と言い切っている自分に、少し胸が痛んだ。そしてnote用の写真を探すために当時の写真を見返したら、自分の顔に白いぐちゃぐちゃがかけられていたのも、ああ、ってなった。いや分かるけど。分かるんだけどね。


読み返してみるとマインド的には成長した部分とか前向きになれた部分は多少あるな、とは思うんだけど、大体の文章が「それな」となってしまうので、コンプレックスというものはそう簡単に消えないんだな、と改めて認識したわ。



という思い出振り返り話でした。おわり。

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