「静の中の動 動の中の静」

身体の中には
静かな湖のような空間を持つことが必要だ。

生きることや動くことに汲々としていると
身体の内に静けさを保てなくなる。

走り続けていると
自ら止まる、ということができなくなることがある。

止まるということが「強制終了」という「停止」になることが多いように思う。

静止と停止は全く別のものだ。

「静止」の中には
じっと止まっているように見えても

その中に
かそけき声があり
かそけき動きがある。

動いたあとに、
そっと身体の動きを止めてゆく。

指先から水が滴るように
その運動のエネルギーを水滴のように落としてゆく。

静止の状態を
じっと感じてみると
身体の内部感覚がじんわりと浮き上がってくる。

樹のように、
そこに立ち尽くす。
内と外とのエネルギーを交感し合い

「世界」の中に「存在」している身体を感じてみる。


身体の中に静かな空間を取り戻し、
そこを風が吹き渡っていけばよい。

いつでも身体の中には風の通り道をつくらなければならないのだ。


静なる空間は聖なる空間でもある。

それをいつでも取り戻せる身体であれば


動いていても静けさを感じることができ、
静かにしていても動きを感じることができる。

死と生も、本来そのような関係であると思うのだ。
新しい細胞が生まれ、古い細胞は毎日死んでゆく。


死と生を同時に孕んだ、われわれの身体を、
われわれは生きるのだ。


…自分にとっての踊りはこういうものであり
WSでおこなう踊りもこういうものです。

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