観察という行為

観察に始まり、
観察に終わる、
と言っていいくらい
それに尽きる。

観察には感情を必要としない。
観察にはジャッジを必要としない。
観察には愛も光も神の声も関与しない。
ただ、ひたすら観察を続けるのである。
どんな時も。

悲しみに打ちひしがれていようが、
怒りでいっぱいになっていようが。
自分への言い訳もしない。

そして、観察が進んでくると
さらに深く、奥の方までを見通していくことができる。
続けていくと
その場の感情に瞬間的に反応してしまう
「何かの要因」があることや
毀誉褒貶で一喜一憂していたことに気づく。
思い込みに気づく。
そういう自分を間主観的に眺めてみる。
それを続ける。

ただそれだけなのだが
それを続けていくと
自分や社会をただ見てみる、という姿勢が身につく。
自分への態度や自分の意志が見えてくる。
それは世界への視線と態度にもつながっていく。

観察という行為がミクロとマクロをつなげると自分は感じている。
自分が変わらずに世界への批判ばかりしていても
何も変わらないから。
そしてただただ、死ぬまで続けていくのです。

ひとつの淡々とした作業として。

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