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肉体を離れたあとの旅路

 私たちは肉体そのものが自分自身であると思い込んで生きています。
肉体の死は人生の終わりであり、生命体としてこの世から一つの存在が消えることを意味し、死は命の終わり、自分自身という存在の消滅である。
そう思えば人が死を恐れるのはもっともなことです。

 しかし、真理では私たちには3つの体があり、肉体の死を迎えても残り2つの体によって次の次元での生が始まると教えます。

 そうは言っても、自分の本質が肉体そのものではなく、霊なのだと言われてもよく分からないというのが多くの方の感想でしょう。

 特に都市化、デジタル化が進み、私たちは自然と切り離された生活が当たり前になり、バーチャルとリアルの融合が進む中で、脳が視覚情報に偏った日常生活を送ることが当たり前となっているため、現代では太古の人々のように五感で情報を受け取ることが減り、柔らかで微細な自然のエネルギーを感じることが難しく、見えるものだけが現実であり、存在するものであると強く認識しています。

 古代の人々は見えているものの裏側を感じたり、掴み取ったりする微細な感覚が豊かであったため、自然を生み出す大いなる生命の根源や自分の命の源について畏怖と感謝を感じることができました。また、大いなる生命の根源と繋がることの出来た者は、肉体の死を迎えた後に肉体で過ごしたこの世界(物質界)から次の世界に旅立つことを理解し、それを正しく伝え、導く役割がありました。

 しかし、時代と共に人間の暮らしが物質的に豊かになり、病に強くなり、寿命が長くなったことで、短く儚い命の尊さと生かされていることへの感謝という感覚が薄れ、より多く豊かに物質を持つこと、食欲や性欲などの強い欲をたくさん満たす為に力を手に入れることこそが人生において重要であり、それが正しいことであるという認識が強くなりました。命は自然が与えてくれる貴重なものであったのが、自然を克服し、病を克服し、快適な暮らしを手にすることで人間は自然より上の存在であるとして、いかに自然を利用して欲望を満たすものを得られるかに意識が変わっていきました。
 そうして人間はより肉体に執着し、肉体の死を恐れるようにようになりました。

 「生きているうちにどれだけの富や力を手に入れ、願望を叶えられるか?」
欲望の奴隷となって感情に一喜一憂し、感情に振り回され、欲望を満たすために人生を生きていれば、現世利益を重視し、肉体に強く依存し、肉体に収められている本来の自分自身を見失って当然です。

 「私という存在は死んだら終わりである」という認識を持っている人にとって死は絶望であり、悲しみであり、恐怖かもしれません。しかし、その考えは幻想であり、私たちを悟りや本質から遠ざける一番の罠です。
 なぜ、古代から続く世界中の宗教が天国や地獄について伝えるのでしょうか?古代の人々は存在しないものをわざわざ子孫に伝える必要があったのでしょうか?

 例えばチベット仏教では人の死後の魂の旅路をガイドするために僧侶が49日間死者に話しかけ読経するという伝統があります。日本でも四十九日法要として死後の49日を大事にしていますが、何のための49日なのかはよく理解していないことがほとんどです。

 チベットではこの49日間は解脱の大いなる機会と捉え、僧侶は亡くなった方が肉体を離れた後に迷わず解脱出来るようにと話しかけ、お経を唱えて、行くべき道をガイドするのです。しかし、生前あまり信仰深くなかったり、商売に一生懸命だったりと、現世のことだけに心を向けていた人は肉体の死を迎える時に解脱の道を選ぶことが難しいため、僧侶は何度も正しい道を選ぶようにと語りかけます。

 私たちは自分の肉体や目で見えるこの世界、手に触れることの出来るものを正しい、本物である、リアルであると認識しますが、真理の教えにおいてこの物質世界は一番波動が重く、それゆえにありとあらゆる物質は脆くいつかは消滅する性質を持った世界です。私たちの本質は永遠に滅ぶことのないものですが、この物質による世界にある私たちの一時的な肉体には限りがありやがて滅び、そして灰になるものです。インドの聖者が信者たちに灰を与えるのにもこのことを伝えるためです。

 また、真理のマスターであり、メッセンジャーであるダスカロスはこのように書き記しています。

こうして多くの人間は自ら生み出した欲望の奴隷となってしまいます。人は欲したものを手に入れると、自分の所有物の奴隷となります。これらの所有物が彼の”地上の宝”となるのです。このように、時間と場所のパーソナリティは、幻想の奴隷となり大きな混乱状態の中で生きているのです。なぜなら、物質や三次元のものは、何ひとつあなたのものではないからです。あなたが自分の肉体と呼んでいるものですら、あなたのものではないのです。

ジョシュア・イマヌエル キリスト地上での生涯と教え

 タイトルには肉体を離れたあとの旅路と書きましたが、正しくは私たちの転生は肉体を得る旅路です。仮初めの体をもらい、仮初めの世界を体験し、私たちはさまざまな感情を知り、困難を乗り越え、本来の自分を思い出すことを繰り返しているのです。病、貧困、大切なものを失うこと、人生にはさまざまな痛みがあります。ですが、それらは全て一時的な体験であり、私たちの魂に体験として刻まれるだけのものです。
 「なぜこのようなことを繰り返し転生して行うのか?」
 「私は何のために生きているのか?」
 気づきを得るまで体験は繰り返されます。そうして死について本当の意味が理解できた時、私たちの魂の旅路に新たな扉が開き、私たちは霊的に成長することができます。

 このような話をすると、死や人生の中にある恐怖や不安から早く逃れたいと修行やスピリチュアルな学びに一生懸命になる人もいるかもしれません。ですが、そのような焦りが一番禁物です。赤ちゃんはすぐに歩けるようにはなりません。ハイハイを十分に体験して、腕や足腰の筋肉を鍛え、それからつかまり立ちや歩くことができるようになります。
 真理の勉強や修行も同じです。焦らず、確実に一つの課題を完成させることが一番の近道になります。

 そして、死の恐怖がある人はまずは生きていることに沢山感謝してください。あなたがこの世に生を受けて生まれることが出来たのは偶然ではなく、天文学的な確率の奇跡です。そして私たちは決して一人では生きていくことができません。見えないけれど私たち一人一人を守り、養ってくれている存在がいます(守護霊ではありません)。私たちが肉体の終わりを迎える時も決して一人でなく必ず神聖なるガイドがそばにいます。今、この瞬間に生きている事は奇跡であり、自分に与えられている奇跡に目を向けてみてください。


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