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問いから始まる仏教~読書記録340~

曹洞宗の僧侶である南住職の著書。2004年出版。
「答えのない問い、終わりのない対話」その先に見える仏教の新たな地平を、気鋭の著者が切り拓く。

禅問答ではないが、対話形式になっている。と言っても、禅寺でよくあるような師匠と弟子の問答ではなく、南住職が自分と向き合い、対話している、そんな本である。

死んだらどうなるのか。どうして生まれてきたのか、自分とは何かという3つの問いは、実は同じ問いのバリエーションに過ぎない。その問いとは、「自分が自分である根拠とは何か」、言い換えれば「本当の自分とは何か」ということで、これはいかなる現実的な回答もナンセンスになる以外にない問いなのだ。
「無記」という言葉がある。これは肯定も否定もしないで放置するという意味で、歴史上の人物としてのお釈迦様、ゴータマ・ブッダは、ある種の質問には無記で通したという。その質問の最たるものが、この世界の始まりがあるのかないのか、死後に存在するものがあるのかないのかなどの、まさに「絶対神」や「霊魂」になぞらえられるものの存在に関する問いなのだ。
欧米の知識人が、仏教は宗教というよりも哲学だと発言することがあるが、その辺を感じて言うのかもしれないな。
ところで、君の強調する「わからなさ」を意味する言葉が仏教語にあるのか?
「諸行無常」「諸法無我」がそれにあたると思う。
わからない。一神教の立場なら「神」だと言うところだろう。しかし、仏教はそれを言わない。その問いの前で沈黙する。「誰」という問いは「誰」のまま残る。それが答えなのだ。(本書より)


南住職は本当に深い人だなと思った。巷に多くの僧侶がいる。又、寺で働く人たちもいる。それらは寺に生まれた2世、3世が多いのだが、こんなに深く思考していない、と個人的に思ってしまう。
葬儀などに言っても、又、遺族側の立場としても、ただお経をあげて、その後は、一般人以上に酒を飲んで帰るという人にばかり出逢ったのだ。
とても、一休さんのような禅問答なんぞ出来るような僧侶には出会えない。
義理の親戚の菩提寺僧侶は永平寺で修行したというが、そんな空気が全くない。その家族(息子嫁)だって、こっちは秋彼岸だからお墓参りに伺っただけなのに迷惑そうな態度だ。
そうだ。檀家側が悪いのだ。割り切っていないから。禅問答、生病老死などなど、そういった哲学的なものは小さな菩提寺に求めるものではない。法事をお願いしていただく。それだけの関係なのだから。本当に求めるなら、南住職、円覚寺の横田南嶺管長などのような方に会いに行かねばならないのだ。

仏教の開祖、釈迦自身も「わからないものはわからない」と言っている。悟りを得ようとする対話。
仏教は哲学なのかもしれない。


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