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22年ぶりに父と話したとき。僕の手は震えていた。

22年。
僕は父と会っていない。

もちろん、話すことなどもない。連絡先も知らない。

僕の両親は俺が9歳の時に離婚し、僕と2人の妹は母が育ててくれたた。年齢が3つずつ離れている兄妹だから、妹が6歳と3歳の時だった。

母から「なぜ離婚したのか?」という理由は聞かなかったし、母も父の悪口を言うことはなかった。ただ、少なからず僕に残っている父のイメージはあまり良いものではなかった。

ちなみにウチは田舎の小さな町工場。裕福だったなんてことは1秒もない。父とは離れ離れになってから数回会った記憶はあるが、養育費をもらっていたわけではないし、完全に関係性が途切れていたから、一生会わないものだと思っていた。

しかし、ひょんなことから22年ぶりに父と連絡を取らなければならなくなった。

田舎の大して価値もない土地だが、僕が生まれる前に亡くなった祖父の名義になっていた土地を僕の名義にしておくために調べていたら、父に承諾を得る必要が出てきたためだ。

母に連絡をさせるわけにはいかず、妹たちにさせるわけにはいかない。僕は父という存在を消して生きてきたつもりだった。離れ離れになってから、祖母、母、2人の妹と僕だけの生活。どこか、自分がしっかりしなければ。自分がお父さんの代わりだと思って生きてきた僕。「自分が心配をかけちゃ絶対いけない」と思ってたから、クラスでフル無視されたときも、親には相談できなかった。

※その当時の体験のツイート。

大人になってからも、妹の学校や塾の送り迎えなんて当たり前だったし、結婚式の時は父親代わりにバージンロードを歩いた。
もちろん、22年間、僕たちにはわからない父の生活、逆に父にはわからない僕たちの生活があった。知らないことが多すぎる。

それでも連絡をとらなければならない。父の連絡先は知らないから、父の実家に電話をするしかない。存命であれば祖父か祖母が電話に出る可能性もある。第一声、どう声をかければよいか、何と呼べばいいか、どんな言葉をかけられるのか。

僕も結婚をして義父がいる。だから「おとうさん」という単語は口から出すことができるけど、22年ぶりの実父を、直接「おとうさん」と呼べる自信はなかった。

僕も30歳をい超えた大人。
少々のことでは動じないと思っていたが、気づいたら手が震えていた。
体もこわばっていた。ただ、複雑な感情の中で気付いた。

「父が、僕たちと離れ離れに暮らすことになった年齢と同じ年なんだ」

そう気付いた時に何かこれがキッカケのように感じた時、受話器の持っていた。

22年ぶりに聞いた声

父の実家に電話をかけた。

すると、「はい、もしもし」と受話器の向こうから補足優しい声が聞こえてきた。

「おばあちゃんが生きていた」瞬間的にそれはわかった。もちろん、父方のおばあちゃんとも22年会っていない。実際に電話で声を聞くと、ちょっとテンパった。

「なんて言おう?」「敬語でしゃべった方が良い?」「なんて呼んだらいい?」

そう考えていたような気がするが、さほど働いていない僕の頭が出した言葉は、「ビックリさせてごめん。おばあちゃん。僕、タツヒロじゃけど、お父さんおるかな?」だった。

驚いたおばあちゃんが受話器の向こうで大きく深呼吸しているのが分かった。おばあちゃん曰く、父は実家にいるらしい。

おばあちゃんは、急ぎ早に父に電話を代ろうとした。心臓がゆっくり、血を押し出すように、ムワッムワッと変な動きをしているように感じた。

「もしもし」と男の人の声。

声を聞いた瞬間、こんなこと、勝ち負けではないし、喧嘩をするために連絡をしたわけでもないけれど、「負けちゃいけない」って感情が湧いてきた。もしかするとそれは、過去一緒に暮らしてはいたけど今は他人の「誰か」ではなく、「父親」として強く認識していたから湧いた感情かもしれない。

曲がりなりにも勝手に「父親代わり」という気持ちで過ごしてきた22年間。
実父よりも長い年月、父親として過ごしてきたような感情がそうさせたのかもしれない。だからこそ、電話の向こうの実父を自然に「おとうさん」と呼べたのではないかと思う。

「おとうさん」と呼ばれた父も驚いていた。

まさか、息子から突然電話がかかってくるとは思ってもない。
当然の反応。父の声は震えていた。

ただ、驚きの中に嬉しそうな感情があるのは少し感じた。そのせいかわからないけれど、少し僕もリラックスできた。話しぶりは記憶の中にあるままでべらんめぇ口調というか、たまにに何と言ってるかわからなかったが、ハッキリ聞こえ、死ぬまで忘れないであろう言葉があった。

「おとうさんって呼んでくれてありがとう」

この言葉以外の会話内容は正直あまり覚えていない。ただ、悔しさや怒りが込み上げてきたり、話がこじれるようなことにはならない、穏やかな話ができたと思っている。それでも辛かったのは、祖父は5年ほど前に亡くなってしまっていたという事だ。複雑な感情のまま、この日は静かに電話を切った。

妹たちの決断

妹たちにもこの件を伝えた。妹二人も結婚をし、家庭があるし子供もいる。
僕だけでなく、妹たちにもそれぞれの22年が経っているし、言うまでもなくく大人になっている。

だからこそ、会うかどうかは妹たちそれぞれに判断を委ねることにした。妹たちも急な話ゆえに、困惑をしているようだったけれど、2人とも「お兄ちゃんがあるなら私らも会うよ」との答え。

妹たちの意思も聞けた。自分も覚悟はできた。日程を決めて会うことになった。

再会当日

当日までに何度も兄妹で連絡を取り合っていくつかの約束事はしていた。

そのすべてが、女手一つで育ててくれた『母』への感謝と敬意を払うための約束。情に流されるようなことがあっても、それだけは絶対に守ろうという話。

会社の事務所で会うことにした。
今思えば、少し緊張していたと思う。
毎日通っている会社が別の場所みたいに感じた。

まずは、母と僕の2人だけで会うことにした。

そして数分後、扉があいた。
そこに父がいた。

あれ?こんなに小さかったっけ?

昔の面影をそのままにした父だった。ただ、感じたことは「あれ?小さい」というシンプルなものだった。僕自身もそんなに身長が大きいわけではないが、離れ離れになった時には見上げていた父だったが、今は明らかに自分より小さい。

会話

元々は書類関係の話が目的ではあったので、最初にその話をしたが、揉めることもなく、穏やかに「お前らのためのものだから」と快くサインをしてくれた。

少しの時間をおいて妹たちに「おいで」とLINEをした。すぐにつく既読。
合流して、妹たちも含めて色々話した。許すとか許さないとか、恨んでるとか、怒っているとかそういったことではない。ただ、空白の22年を補うように色々と話した。

詳細の内容は控えるとして、結果的には父からは「後悔」や「反省」を感じさせるような言葉が聞けたし、結婚や出産で出来た新しい家族を紹介したり、近況報告を通して僕たちの22年間の成長ぶりは見せることができたと思う。

ただ、今まで0だったものが1になった印象だ。どう頑張っても、家族で過ごす22年の空白は簡単には埋められない。それをお互いに認識をした上で、これから先の関係性を模索していこうということになった。

会って良かったと思ってる

会ったら後悔をするんじゃないかとも考えた。
でも今、会っていて良かったと思う。もう少し若い時じゃダメだった。父が自分たちと離れたのと同じ年になったからこそ、同じ目線で話せた気がする。

最終的には母への感謝

これは父にも伝えると、最初から決めていたこと。

「お父さんがいないから・・・とかいうような劣等感を感じないくらい、母お母さんは頑張ってくれたし、懸命に育ててくれた。それを今から挽回もできないし、その分、何かをしてほしいとも思ってない。ただただ、お母さんへの感謝しかない。だから、それだけお母さんが頑張ってくれたということだけはお父さんには知っておいてほしい」

父は、大きく頷いて、涙を浮かべた。

そして、「会社も家族も僕が守るから」と言ったとき、僕の手は震えてた。

これからのこと

正直、ひとつの壁を越えられはしたが、これから何が始まるのか、
どんな関係性を構築していくのか、自分たちでもわかっていない。

ただ、止まっていた時計が少しだけ動き出したような気がするし、動き続けるかはわからない。自分たちが何を望んでいるのかもわからないし、ノープラン。ただ、おばあちゃんに会いに、おじいちゃんのお墓参りには行きたいと思っている。

このことをnoteに書いた理由

ぶっちゃけ誰得?という内容だと思う。

ただ、同じような境遇の人は少なからずいる。会うか会わないか。会いたいけど会えない。そもそも会いたくない。

色んな状況があると思う。このnoteで自分の行動や決断が正しかったと押し付けたいわけではないし、憐んで欲しいわけでもない。ただ、誰かの経験談でもあったら、今悩んでいる誰かのキッカケになるのではないかと、あえて共有をしようと考えた結果、ツラツラ書いてみた。ポジティブに書いたつもりだし、そう思わせてくれたのも、母の力だと思う。本当に感謝しかない。

最後に決断するのも動くのも自分。だから、考えることを辞めないでほしい。

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自己紹介をすこしだけ。

僕は岡山県の縫製工場の三代目として働いています。途中でも少し触れましたが、母子家庭の長男で、母から家業を継ぎました。実は「私の代で潰すから」と言われた縫製工場でしたが、継ぐ決意をしました。子どもたちには背負わせたくないという親心もあったと思います。だけど、戦ってきた母親の姿をみてきたからこそ、想いごと継ぎたいと思ったんです。

2015年には夢だったブランドを立ち上げ、「いつか総理大臣に結んでもらえたらいいね」と話していました。途中では苦しいこともたくさんありましたし、比較するわけではないですが、寄り添ってくれなかった先生が言ってたように大人になってからの経験の方がくるしかったのかもしれません。ただ、毎日コツコツと取り組んできたことで、つい先日総理大臣にネクタイを結んでもらうことができました。

諦めなければ夢が叶うわけではないかもしれませんが、諦めなかった人だけが夢を叶えるんだと思います。何者でもない自分の発信が誰かに届き、ほんの少しでも何かが良い方向に変わるキッカケになれば嬉しいです。

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