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ニューノーマルな私たち

 わたくし、東海林杢夫、48歳。リプサリスの鉢植えに水をやりながら、窓にあたる長雨をぼんやり眺めている。この時期はムシムシしてどんよりして不快だ。今朝は体調があまり優れない。仕事が炎上するいやにリアルな夢で目が覚めたせいもあるが、たぶんこれはいつものあれだ。

そんな東海林杢夫に、今週こんなことが起こった。 
・ほめてもらうつもりが、逆に妻に怒られる杢夫 
・友人からバイアグラをこっそりと渡される杢夫 
・ブラジャーってなんでしっくりくるものがないのかとイライラする杢夫
そんな東海林杢夫の1週間をこれから詳しくお伝えします。

  月曜日の朝9:00、会社のグループチャットに休みの連絡をする。ホルモンバランスの乱れが激しいので、今日は体調管理休暇を取った。以前は「生理休暇」と呼ばれていた制度だが、3年前から男女共用になった。ありがたい話だ。 
 「休む」といった途端に「お休みのところ恐れ入りますが」という微塵も恐れ入ってる気が感じられない個別チャットが3件飛んでくる。結局10時過ぎまでかかって仕事をしてしまった。
  なんで人間は休みの連絡をすると、体調が急に良くなるのだろう。せっかくの休みだからと、トイレとお風呂の掃除をする。古い歯ブラシを使ってバスタブの隅の水垢が綺麗に落ちると気持ち良い。そのままピカピカのお風呂に入って身体が整っていくのを実感する。
 気づけば昼過ぎだ。お昼ごはんを作るのも面倒だし、雨も一瞬止んでるみたいだし、セブンに買いに行くかと玄関を出て、ふと気づく。
 今日はやけに風通しがよくて心地よいなと思ったら、外出時に必要なあれをしていない。

 こりゃいかんと慌てて部屋に戻り、Tシャツを脱いでブラジャーを付ける。ヌーブラ付きのタンクトップでもいいのだが、さすがにラフすぎてセブンまででもこの歳じゃ気が引ける。

感染症パンデミックが起こった2020年。あれから10年で世の中は本当にガラッと変化した。

 セブンで買ってきたちくわ天うどんをすすりながらニュースを見る。政府が秋のワクチン集団接種の計画について夕方会見を行うらしい。また抜本的な見直しのないスケジュールと共に、襟足の長いあの首相が当たり前のことを意味ありげに語るお気持ち表明があるのだろう。今日はネットフリックスで溜まっているドラマシリーズを一気見でもしよう。
 そういえば、婚約記念日が近い。慌てて以前から気になっていた奥渋谷のワインバーを予約しようと食べログを開くが、土日の予約欄は「要TEL」となっているので電話をする 。電話予約はいつだって憂鬱だ。「『とうかいばやし』と書いて「しょうじ」です。『もくめの杢にオット』と書いて「もくお」です」。名前が一発で相手に伝わったことは人生で3度しかない。今回のお店のひとは「ああ、はい」とそっけない返事だったが、たぶん名字の時点で理解を諦めた声だ。
 夕方、土砂降りの中、妻が帰宅する。「今日仕事休んで、お風呂とトイレ、念入りに掃除してピカピカにしておいたよ」というと、
「ありがとう、と言ってほしいの?」と言われる。
「その前に、びしょびしょで帰ってきた人にタオル渡すとか、そういうのないの?」と続く。
「あ、ごめんなさい」
「あとさ、私の電話着信、気づいてた?」
「あ、ごめん。スマホ見てなかった。ネットフリックスずっと見てたから、ごめん。何?」
「もういいよ、帰ってきちゃったし。そういうとこ全然治らないね」
   シャワーを浴びに、脱衣所に妻が入っていく。
 妻の伝えたかったことは何かわからないけど、妻の機嫌が悪いのだけは分かる。
 月曜でこの機嫌だから、今週はあまり話しかけないほうが良さそうだ。

 水曜日の8:00、憂鬱ながらも出勤する。髭剃りがほぼ必要なくなったのが唯一の救いだし、最近は、お気に入りのファッションブランドも増えた。ユナイテッドアローズやユニクロやH&Mから、こんな身体にフィットするスーツカジュアルのバリエーションがようやく豊富になってきたのも嬉しい限りだ。
 朝の満員電車は、寝ぼけまなこの人間から生気を吸い取る逆パワースポットだ。痴漢と間違われないように手の位置に気をつけ、盗撮と間違われないようにスマホの角度に細心の注意を払うことに加え、今は自分の胸を前の人に押しつけることのないようにも気を遣わなきゃいけない。この路線はなし崩し的に女性専用車両が廃止されて3年ほど経つが、「胸のある人」専用車両を作ってほしいと切に願っている。
 午前のグループ定例会議。リモート参加組と、満員電車の戦場を抜けてきた現地組で少しテンションに差がある。リモート参加している美形の後輩は、今日はカメラをオンにしてばっちりメイクを決めている。出勤時間の代わりにゆっくりメイクできたんだから、そりゃみんなに見せたくもなるだろうな、とは思う。
 「最近は街で買い物をしてても、知らない人に声をかけられることがめっきりなくなりましたねー」と朗らかにその子は言う。確かに、パッと見では、街中で男性か女性かわからない人たちが当たり前になってきた。水商売のスカウトなども苦労の世界だろう。
   「いいですねー。僕は今日また痴漢されました。。。」とつぶやくのは、新しく入ってきた中性的な顔立ちの新人君だ。オフィスカジュアルも学校の制服と同様に随分とユニセックスなものが主流になってきた。犯罪者も見た目がよくて気が弱そうな人間なら手あたり次第なのだろう。
  「この雑談っていります?早く始めません?」と後輩の丸メガネ君の一言で会議は始まった。

 12:00のお昼休み。出社組4人で、インドネシア人の同僚が見つけたという近所の東南アジア料理店に行く。注文を取りに来た店員に「みんなレディースランチで」と頼んでみる。
 最近この遊びにハマっている。今では珍しい「レディースランチ」のお店を見つけては、男女混合で一度に頼んでみる。すんなり注文が通れば「レディースランチチャレンジ (LLC)」成功だ。
 中東っぽい顔の店員が眉間にしわを寄せ、私を指さして「すみません、そちらの男性の方はちょっと」。チャレンジ失敗だ。ここの支払いは私のおごりになる。
 「あ、すみません。では私は、あー、ナシゴレンで」
 まだまだ私も見た目の修行が足りないらしい。おい新人君、自分はLLC成功したと思って内心喜んでるだろ。顔に出ているぞ。
 店のテレビでは、32年開催のブリスベン五輪の競泳日本代表選考会の様子が放送されている。みんなワンピース水着なので、遠目に見ていると男女の区別はよくわからない。もっとも、今は五輪も男女別ではなく、血清中のテストステロン値の大小で競技種目の線引きがされているのだが。

 インドネシア出身の同僚が、今年の夏は実家に帰る予定だという。「ヒジャブを家の奥から探し出すのに大変だ」とボヤき、他の同僚が「あれ?カリマンタン島では、ヒジャブ要らなくなったんじゃないの?」といえば、「実家近辺の郊外ではまだ昔の教義が強くてヒジャブ必須」とうんざりとした顔で返している。その間、私は彼ら・彼女らの会話はよそに、部下の夏休みの間のシフト調整をどうしようか考えるのに必死だ。悩みの種がまた一つ増えた。そういうのは早く言ってほしい。

 夜19:00、仕事を早々に切り上げて、勝どきの賑やかな居酒屋に行く。5~6年ぶりに会った高校時代の友人は、第2ボタンまで開けたYシャツにジャケットスーツを羽織って、今は珍しい昔のザ・オトコルックでやってきた。「また秋以降、お店の酒類販売制限がかかるらしいので、今のうちに飲もう」と誘いがあって、独身貴族を謳歌する彼とのサシ飲みとなった。胸のふくらみがほとんどない彼は、ビールを一気飲みすると、私の胸をちらっと見ながら話した。
 「どうよ、最近。女体化が進んでるようだけど」
 「女体化っていうなよ。しょーがないだろ。というか、お前の方こそ、なんで膨らんでないんだよ。ワクチン接種してないの?」
 「まぁ、それはおいおい。しかしさ、パンデミック以降、気持ち悪い世の中になったよな」
 「気持ち悪いとは思わないけど、まぁ、変わったよね」

  正確に言えば、2020年のパンデミックの対抗策として開発された新しいワクチンが世の中を変えてしまった。新しいワクチンは、人間の免疫反応を強化する設計図のようなモノで、人間のDNAには影響しないし、数日から数週間で分解されるため遺伝的影響は全くないといわれた。初めのうちは。

 私が初めて打ったのは2021年の7月。ちょうど東京五輪のボランティアスタッフのために用意されたものだ。2回目の接種で少し熱は出たが、重度の副反応を起こすことはなく、新型ウイルスには効果が覿面だった。その後2年程度のうちに30億人という驚異的なスピードで世界中の人々にワクチンの接種は進み、ロックダウンだ、ソーシャルディスタンスだと騒がせたパンデミックは一気に収束していった。マスクなしで街中を出歩いてよいと政府が決めた解禁日の2022年の4月1日は、あまりの嬉しさに妻と手を繋いで無駄に散歩してしまった。
 「変わったどころじゃないだろ。街じゅうが、女か男かわからんやつばかりだぞ。街中で手を繋いでるやつが二人いても、ノーマルか、マイノリティなのか全然わからん」
 「別に男か女かわからなくてもよくない?私らには関係ないんだし」

 ただ、それでも新型ウイルスはしぶとくて、毎年冬にはある程度流行ってしまうので、季節性の予防接種として、毎年秋には集団接種することになった。もちろん根強いワクチン反対派や、定期集団接種への慎重論もある程度あったものの、日本経済はとっくにもう限界にきており、感染拡大を抑えて外国人観光客のインバウンド需要に期待するためには、他の先進国と同様に定期集団接種を続けるしかなかった。

 「結局さ、いつの時代も割を食ってるのは男だってことよ。狩りに出かけ、戦地で戦い、汗水かいて働いて、世界を支えてきたのは男だっていうのに、裕福な社会になれば『女性にも平等な権利を』と言われ、席を半分譲って片目瞑ってまた働く。で、パンデミックの代償が、これよ」
   両手で巨乳のジェスチャーをする彼。

 そう、救世主と思われた新型ワクチンには、一つだけ見落とされていた副反応があった。2025年ごろから、定期集団接種を行っている国で、男性の胸が大きくなるケースが報告され始めたのだ。
 その年、WHOは新型ワクチンの影響について緊急報告を行った。ワクチンは接種後すぐに分解するのだが、ある特定の小さなピースだけ極めて強固な結合のため分解されず、体内に蓄積される可能性があることが分かった。一回程度なら身体に影響のない量でも、5年、10年とワクチンを打ち続けていると、その蓄積されたピースは特定の染色体に含まれる一部のDNAの複製を特異的に阻害し、要するに細胞分裂を抑えてしまうことが分かった。その染色体とは、Y染色体。男性だけがもつ染色体だ。
 つまり、毎年ワクチン接種している男性の体内では、男性ホルモンの分泌が少しずつ抑えられ、身体の女性化が進んでいく。幸い、生殖機能への影響はないと結論づけられたものの、接種を続ける男性は、胸のふくらみをはじめとして脂肪の付き方が変わり、髭や体毛が薄くなり、ホルモンバランスの乱れから定期的に体調が崩れやすくなる傾向が分かった。

 抜本的なウイルス根絶が難しい状況で、世界は2択を迫られた。すなわち、パンデミックを恐れながらマスク・3密回避を続けて感染者が増えれば緊急事態宣言のあの時代に逆戻りするか、男性の女体化を受け入れて定期集団接種で今までの暮らしを続けるか。

 「なんで男だけなんだよ。そして、なんでいつも日本男児は文句ひとつ言わず受け入れるんだ。おかしいだろ。」

 事実、ワクチン接種があまり進んでいない国々は、その副反応のインパクトから一気にワクチン接種をあきらめた。また宗教上、性差別の色濃い一部の国でも禁忌の行為としてワクチン接種の放棄を宣言するところがあった。
 困ったのは先進国だ。我先にと新型ワクチンを毎年打っていた富裕層は、既に4年経って多くの男性の身体変化が顕著になっていた。ただ、ジェンダーレスな社会の機運も相まって、 男女の見た目が近づいていったとしても問題がないと、ワクチンの定期集団接種を続けることを決断した国もあった。それが日本だ。これまで同様に任意接種ではあるが、「安全・安心な社会実現のため理解と協力を」とブラジャーをつけた総理が毎年会見を行っている。

 「お前さ、つらくないの?」
 お酒が入るとどんどん馴れ馴れしくなる人と、自分の意見を長々としゃべりだす人は苦手だ。何故5~6年ほどの間、彼と飲んでいなかったか、今更理由が分かった。
 「もう慣れてくしかないって感じかな。だって、こっち側の方が多いし」
 「赤信号、みんなで渡れば怖くないってことか?」
 「そうじゃないけど、生きてくために必要な変化なら、仕方なくない?」
 「でも、ホルモンバランスぐちゃぐちゃでしんどいんだろ?胸出てるの正直おかしいと思うだろ?」
 さっきから、チラチラ私の胸元を見ているのがわかる。が、敢えて無視することにした。
 「まぁそれはそうだけど。今は、体調は薬で緩和できるし、胸については、女性に相談できるようにもなったし、女性の気持ちも少し理解できるようになったし。良いこともあるよ」
 「どこが良いことだよ。男が本来の機能を失ってばかりじゃないか。俺はごめんだね」
 「待って、ということはワクチン打ってないの?」
 「いや、さすがに打ってる」
 「じゃあなんでそんなに、なんていうか、男なの?」
 「サプリ飲みまくって、身体鍛えて、気合で抗ってんだよ。そして極めつけはこれだよ」
 青い菱形の錠剤シートをドヤ顔で見せつけてくる。
 「なにそれドラッグ?」
 「違うよ、バイアグラだよ」
 「え、それ男性ホルモン関係ないんじゃないの?」
 「そうは言われてるけどさ、やっぱ飲んだ日は違うんだよ。なんていうか、身体の内側から生きる力が湧き上がってくるっていうか」
 「なんだよそれ」
 「日本じゃなかなか手に入らなくなったからな。貴重だぞ。試してみるか?」
 「いいよ」
 「一回飲んでみろって。男を思い出せよ」
 「別に今も忘れたわけじゃないよ」
 無理やり私の胸ポケットに薬剤をねじ込まれてしまった。ちょっと相手の手が自分の胸に触れたことに心底ぞわぞわする。計画的犯行か。可愛い女の子のいる店に行こうぜと2軒目を誘われたが、丁重にお断りしてその日は帰った。

 土曜日11:00、色々あって今週も疲れたから、家で何もしない。あ、リプサリスに水やりはするか。ソファでゴロゴロしていると、妻がゲーム機で遊びながら横に座ってくる。
 特に何も言わず、こちらもスマホをいじっていると、妻の手が私の胸に伸びて、軽くもみもみしてくる。
「もくおー、お腹すいたー。なんかつくってー」
「ねえ、それやめて」
「?」
「いや、胸よ」
「いいじゃん。減るもんじゃなし」
「そういうことじゃないじゃん」
「じゃあ、いやなの?」
「いやというか、いい気はしない」
「じゃ、たまにならいい?」
「そうやって交渉に持ち込まないの。いやなんだから、すっと手を引いて」
 正直なところ、私はこの3年で妻のバストを追い抜いてしまった。私の胸の成長に、妻の反応は、オロオロ慌てる時期、ニヤニヤ笑う時期、ムカムカ嫉妬する時期を経て、今はこんな感じだ。
 「ねぇ、もくお。ちょっとちゃんと座って」
 来た。ちゃんと座れと言われるときは、大抵怒られる時か、何か妻が日頃もやもやしていることを論理的に吐き出す時だ。いずれにせよ、私にとって居心地の良い時ではない。
 「あのさ、ずっと思ってるんだけど。胸膨らんで、女性の気持ちがわかるようになったと思ってない?」
 「いや、わかるようになったとまでは思ってないけど、ちょっと理解できるようになったとは」
 「そういう、なんかさ、胸を女性のシンボルみたいに思って、女性の気持ちだのなんだの言い出すの、気持ち悪い」
 「え!?」
 「最近、言葉や行動の端々に、女性の感じがわかるみたいな空気出してくるけどさ、全然違うから、それ。おっさんの見てる女性の身体だから、ずっと」
 なんか、ガツンと殴られた感じだ。この10年少しずつゆっくりと、身体が変化していくことを前向きに捉えてきたつもりだった。
 「胸が膨らもうが、もくおはどこからどう見てもおじさん。それを受け入れないと、職場の女性も迷惑だし、セクハラだよ?」
 そういわれると立つ瀬がない。そのまま色々まくし立てられたが、目の前が真っ暗になってしまって、その日は特に何も言い返せず、無言でベッドに行き不貞寝してしまった。

 日曜14:00、うだうだとベッドの中でスマホいじりしている。昔からの友人であるゲイの男性は「最近、雄々しい見た目の魅力ある男性がめっきり減って辛い」と泣き言をずっと私にmessengerで言い続けている。私に言われたって困るのだ。その私だってどんどん雄々しい姿からかけ離れている。
 スマホを触るのも飽きて、ようやく起き上がる。婚約記念日のディナーを予約したと妻に伝えると、なんでそれを今日言うのかとまた怒られた。険悪なムードの中、出かける支度をする。よそ行きの服を着るが、シャツに下着の地が透ける。かといって、地味なブラジャーに着替えると、今度は身体にフィットしない。どうして、ブラジャーはしっくりくる使いやすいものがないのかと、一人憤るも愚痴る相手も今は家の中にいない。しょうがなく、身体には合わないけれどシャツにも響かないブラジャーを付けて、妻と出かけることになった。

 予約した奥渋谷のワインバーは、表参道の駅前から少し奥まったところに入り口があって、人の出入りが多いわりに騒がしさがない。元々、広告マンだった人が会社を辞めて、男性二人で立ち上げたところらしく、調度品やテーブルの配置など、丁度いい空間づくりがいかにもお忍びレストランって感じがする。カウンターで店員と親しげに飲んでいる人は業界関係者だろうか。
 「私も、実はここに来ようと思っていた」と妻が急に切り出す。
 「そう。良かった」と、とりあえず言う。
 「アヒージョ美味しいね」と妻は言う。なんかふわふわした会話だ。本題に入ろう。
 「なんか、もやもや考えてたけど、その通りだと思う」
 「ん?何が?」
 「いや、昨日言ってたこと。もくおは確かに気持ち悪いなって」
 「あー、まだ引きずってる?」
 「そりゃ、引きずるよ。なんていうか、今までシーソーの両端に立っていて、もくおは少しずつバランスを取りながら歩み寄っていたつもりだったけど、全然歩み寄れてなかったって話だもん。」
 「えー、そこまでなの?」
 「そうだよ。もくおはどうしたらいいの?」
 「どうもこうもないのよ。言い過ぎたのなら謝るけど、もくおは胸の膨らんだおじさん。まずはそれを受け入れてもらって。女性に歩み寄ってるんじゃなくて、別の違う人間になってるんだと意識して。あなたの歩んでるシーソーは、歩み寄ってる相手がいるんじゃなくて、その先は誰もいない、未知の領域なの」
 返す言葉が難しい。
 「でも、もくおがその先を行くことは間違ってないし、私は全力で応援する」
 「そうなの?」
 「そう。私に歩み寄ってるわけじゃないけど、もくおが進む道に、私は女性として少しアドバイスができる。辛いこともあると思うけど、頑張ってほしいから」
 妻がカバンから小さな封筒を取り出して私に渡す。
 「まあ、これからだな」
 「?」
 「オーダーメイド下着のギフト券。一緒に採寸しに行こう」
 「え!?」
 「悪くないでしょ?新しい私たちの第一歩の記念。もくおの新しい人生の記念!」
 妻は久々に朗らかな笑みを浮かべると、私のワイングラスに、自分のグラスをキンと当てて、高らかに白ワインを飲み干す。私は、なにか無理やりに背中を推されたようで、頭が混乱しつつも顔を横に向けてカメラ目線でこう話す。
 「東海林杢夫こと半人前の元男、また来週」

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